36:梅雨に入って
好き、なのだ。
不思議なもので、そう自覚すると、ぼんやりしていた好意は心の中に根を張り養分を吸収して育ってゆく。
何にも興味を持てず、面白みのない結子に構ってくれた。もっとも、それは神使としての務めのためだけれど。それでも、結子に構い、味方になり励ましてくれた。家族を除けば、初めての存在。
だからといって、何かを期待してはいない。嫌われたくはない、できることならば好かれたいとは思うが、その先──は、あり得ない。
神使と人間。どう努力をしたって今の関係以上に発展させることはできない。
蛇と、人なのだし。
手元を見ると、小指には白い糸が今もまだしっかりと結ばれている。その先は、近衛と繋がっているのだ。近衛の指に絡む糸は、この一本のみ。それでいい。多少は、近衛の“特別”なのだろうから。
定期考査が近づくと、時間の流れは一気に早くなるような気がする。
試験範囲を書き留めて、授業のノートを見返して、配布されたプリントの問題を問いて、単語を暗記する。
その期間だけ、一日は二十四時間という普遍の法則が乱れてしまっているのではないだろうか。
これに加えて糸結びをするようにと命じられてはどうしようかと頭を抱えていたのだが、学生の本分は勉強なのだからしっかり対策をするようにと言い渡され、定期考査が終わるまでの間、糸結びは休みとなった。
『そこそこの成績が、多少なりとも上がれば喜ばしいが──なあ』
すっかり忘れていたが、結子の成績は筒抜けなのだった。数学は赤点を取らなければどうにか……とはいかない。この程度で満足しているのかと思われては嫌だ。
いつもより真剣に取り組み、香菜の持っていた去年の問題用紙のお陰でまずまずの結果だった。香菜に礼を言うと、
「ダブリの友達も中々便利でしょ」
そう言って笑っていた。
「でもさ、こういうのって部活の先輩から見せてもらえない?」
「私、部活入ってないし」
「でも、入ってる友達なら居るでしょ」
友里たちのグループは、そういった勉強会をしているようだった。仲が良かった頃は誘われたこともあったが、断っていた。自分の机でないと集中できないのだ。
「……友達、居ないし」
そう明かすと、薄々は香菜も気付いていたのだろう。
「そうだと思ったー! 私と同じ!」
そう言って、からからと笑った。言い方次第で腹を立てそうな話題なのに、香菜の口ぶりがあまりにも明るくて、他愛のないことに思えてくる。嫌なことを聞いてごめんね、と謝られることの方が、嫌な気持ちになっただろう。
全ての答案用紙が返ってくる頃、テレビのニュースは梅雨入りを知らせていた。
午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、それまで張り詰めていた教室内の空気は一気に弛緩した。
「起立、礼」
ありがとうございました、と続く一連の挨拶を終え、それぞれ思い思いに昼休みへ入る。
結子は、鞄から弁当箱の包みを取り出し、窓の外を見た。空は雲がかかっていた。雨雲ではないようだったけれど。
これまで、運のいいことに昼休みの時間帯に雨が降ることはなかった。だが、その運も梅雨の時期に入りいつまでもつか。
そういえば、雨の日の昼食の場所。香菜に言われていたが、全く考えていなかった。心当たりはあるそうだが、それに頼りきりになるというのも申し訳ない。
これまで、そういった皆でわいわい楽しむことに全く興味を示さなかった。だからこそ、友里たちは不愉快だったのだ。香菜との仲を失いたくはない。
屋根のある、静かな場所。
梅雨が明ければ、夏だ。そうなると、いくら晴れていても中庭は暑い。雨の日だけでなく、晴れの日にも使える場所がいい。
つらつらと考えながら教室を出て香菜の待つ中庭へと向かう。
「ねえ」
声を掛けられたのは、廊下を出た時に。
「自販機まで行くんだけど、一緒に良い?」
「うん」
そうして、横に並んで歩き出す。
「ねえ。あれからどうなったか、地味に気になってるんだけど。……聞いて良い?」
あれから。友里とこうして話をするのは、保健室以来のこと。だから、間違いなくあの時の話の続きを指している。
「あ、うん。あれから……戻ってきて……うん、普通に話してる」
「戻ってきたんだ。良かったね」
「うん。ありがと」
「──で?」
「で、って……?」
「好きだったでしょ」
最初からそれ以外の答えなどないかのようだった。実際、好きだったのだけれど。
「えーっと、その……ねえ……」
素直に頷けず、適当に誤魔化そうとしてみたが、それだけで充分に肯定の返事になっていたようだ。友里は隣で楽しそうににやにやと笑っている。
「そっかー。で、この前はどんな人かじっくり聞けなかったんだけど。どんな人? ていうか、何歳?」
「えっと──……何歳だろ……」
そういえば、聞いたことがない。恐らく、とんでもない数を告げられるのだろうけれど。
「え、うそ。知らないの? そこ基本じゃない?」
「基本なの?」
「年齢差って、結構シビアかなって。ジェネレーションギャップ? とか、そういうのあるんじゃないかなーって思うんだけど」
世代どころか、近衛とは時代も立場も何もかもが違うけれど。
「誕生日も知らないかー」
「うん。……そう、ねえ」
近衛が産まれた頃に、誕生日という概念があったのかどうか。問題はそこからだ。
「じゃ、どんな感じの人?」
「優しくて、あと……ちゃんと、私を見てくれる……」
人、とは続けられなかった。近衛は“人”ではないのだし。
「告ったりはしないの?」
「こく──……」
「告、白。──あ、でも言ってたね。好きになっちゃいけないとか何とか」
「うん。でも、言わなかったら良いかなって。……この前、そう言ってくれたでしょ」
付き合うというようなことは望めないけれど、望んではいけないけれど、好きだという思いは持てる。友里から、そう言ってもらえた。本人には伝えられなくとも、誰かにそのことを、好意を話せるのは嬉しい。
「……ねえ」
「なに?」
「恋バナもさ、意外と楽しいでしょ」
考えていることを覗かれているようなタイミングだった。そんなに締まりのない顔をしていたのかと頬に触れてみる。それを見た友里はにやりと笑い、結子はもう黙って頷くしかなかった。
階段を下りて、外に出る。自販機は、中庭に続く途中にあった。雨が降ると買いに行きにくい、と長年不満が出ているが、場所を移される気配はない。
「お昼って、どこで食べてるの?」
「晴れてたら、中庭」
「雨だったら?」
「……考え中」
「だったらさ」
そこで言葉を潜り、友里は小銭入れから硬貨を取り出す。自販機まで、という話だったから、この辺りで別れても良いのだが、明らかに話の途中だ。
「……うちの教室で食べれば良いよ」
自販機に硬貨を入れると、ボタンが赤く点る。
確かに今、うちの──だから、友里や結子が所属しているクラスで、ということだろう──教室で、と言われたけれど。
「でも、他のクラスの子が居るし」
「だから、その子も含めて。……別に、私たちと一緒じゃなくても良いし。他にも、他のクラスの子と食べてる人居るから」
毎日、昼休みの度に外に出ていく結子を見て、友里なりに罪悪感を覚えていたのかもしれない。ただ、香菜との約束があったから、出かけていたのだけれど。
いや、教室の居心地の悪さもあったか。大勢の中での独りは、慣れてきたとはいっても長居をしたいものではない。
そんな居場所のない教室に、友里は結子の居場所を作ろうとしてくれているのか。
「ありがと」
べったりと四六時中一緒に過ごすような関係でなく、こうして時々話をするのが丁度良いのかもしれない。だから、礼は自然と口をついて出ていた。
一日の授業が終わる頃に、近衛の姿は校門の傍に現れる。放課後に待ち合わせてどこかに出掛けるということではなく、行うのは糸結び。
定期考査明けに再開されてからは、それまでよりも速いペースで行われていた。
今日も、その例にも漏れず、電車を乗って三駅先のショッピングモールで糸を結んだ。合計、四組。これまでを思えば、中々のハイペースだった。
一組は、サラリーマンと主婦。店員と客。後は──覚えていない。十夜ほど乱暴ではないけれど、これまでの近衛はある程度相手のことを伝えてから結ばせていた。
帰宅して、部屋で紙を引き抜く。結び終えた人々の名が書かれた紙は、ちりちりと燃えてしまった。それがどんな人であったか──全く思い出せない。
「どんな方々だったんでしょう」
綺麗に燃える炎を眺めながら、ぽつりと漏らした。独り言を装って近衛に投げかけたものだった。それは近衛にも伝わったようだった。もっとも、返ってきたのは素っ気ない反応だったけれど。
『どんな人物か知らなくとも構わないだろう』
どんな経緯があって縁を切りたいと望んだのか。それを知らなくとも、糸を結ぶことはできる。むしろ、知らない方が余計なことを考えずに済むし深入りもしないから効率も良い。
「……それも、結木様のご意向ですか?」
訊ねる声に不満げな感情が含まれてしまっていると、言った後で気付く。
『どうした、不満そうだな』
「いえ、そういう訳では……」
否定をしてみたが、それが上っ面だけの本心ではないとは明らかだった。その証拠に、近衛は何も言わない。
「……私の仕事が遅いから、ご不満なのかな、と。だから、結木様が近衛さんにあれこれ言って、早く終わらせようとしているんじゃないか、って」
ようやく白状した本音に、近衛は思わずといった様子で吹き出す。
『結木様のことをあまり好いてはいないようだな』
「そんなことは、ない……です」
嘘だ。だが、これについては深く追求されることはなかった。
ここ最近のことで、結木様の印象があまり良くないのは事実だった。隙あらば怠ける、お供え物のお菓子を独り占めする、どうしようもない神様ではないだろうか。
早く終わらせろというのも、結木様の都合だろう。近衛が傍に居ないと不便だから。
だが、回答は意外なものだった。
『神崎が結木様をどう思っているかは、わたしにはどうにも出来ない。──ただ、誤解はするな。結木様からは、何も言われていない』
「でしたら、どうして」
『どうして、もなにも。これまで、対象に深入りしすぎたと思っただけだ。本来の目的は、切った糸を結ぶ。それだけだろう』
「そう、です、が」
『それとも、糸を結び終えたくない理由でもあるのか?』
糸を結び終えれば、近衛と繋がる糸も切れてしまう。
近衛との縁が、切れる。
だが、いつまでも結び終えないでいると、結木様は神議りに行くことが出来ないし、切られた人は誰との縁も結べないまま。慌ててかぶりを振る。
「いえ、まったく、そんなことは」
『ならば、黙って糸を結ぶことだ』
そう言うと、近衛は姿を消す。以前のように、部屋に長居することがなくなった。
結子の気のせいだと言われればそれまでなのだが──。
近頃、近衛は少しおかしい、ような気がする。