35:こいごころ
『今日はこのくらいにしとくか』
ようやく開放されたのは、日が傾き初めた頃だった。
ぐったりして部屋に戻ると、十夜が嬉しそうに紙を束から引き抜いている。その、引き抜かれた紙は端からちりちりと燃えて跡形もなく消えてしまう。
『な、効率いいだろ?』
どうだ、と十夜は得意気である。紙束は、昨日と比べると厚みが減った。確かに効率は良い。
「でも、近衛さんはどうして今までこの方法を取らなかったのかしら」
言葉は悪いが、十夜が思い付いたのだ、近衛が思い付かないはずがない。思い付いたが、敢えて選ばなかったのではないだろうか。
何か大きな落とし穴があるように思うのだが、十夜は楽観的なのか深く考えないのか、それとも──。あまり気にしていない。
『さあ。──でもまあ、良いじゃねえか。うまくいってんだし』
軽い調子でそんな風に流すものだから、結子が気にしすぎなだけかとも思えてくる。
『明日もこの調子で頑張ろうぜ』
「明日!? 明日も!?」
『あれ? 日曜は学校休みだろ?』
「まあ……うん、休み……だけど……」
『だったら、問題ないな』
だが、ここで受け入れては明日も今日のような怒涛の糸結びをさせられてしまう。
「で、でも! もうすぐ定期考査があるし」
とっさに出た言い訳だった。特に率先して試験勉強をする方ではないけれど、明日も同じような一日は送りたくない。
神使は人間の社会についても知識があるようで、定期考査という単語で意味が伝わったようだ。
『試験勉強かー……それ考えてなかったなあ』
やはり。
「私も高二になったし、ここで成績落とすわけにはいかないし。来年は受験だし。大学行けなくなったら、神社の跡継げないし」
矢継ぎ早にまくし立てる。言葉にしてみると不思議なもので、すぐにでも試験勉強に取り掛からなければいけないような気になってくる。
十夜は腕を組んでしばらく考えた後、彼なりの折衷案を出した。
『よし、明日は午前中だけにするか』
「……」
糸結びをさせた後に勉強をしろというのか。そこに結子の疲れは考慮されていないらしい。
『良いだろ、それで』
「……ああ、うん。そうね」
神使とは疲れを知らないものなのかもしれない。まあ、いちいち疲れていては神様の使いは勤まらないか。
「なんで、そんなに焦るの」
明日の予定にげんなりとしながら、何気なく訊ねた。本当に、何気なく。世間話の延長のようなつもりで。
『そんなの、結木様に認められたいからに決まってるだろ』
ごく当たり前だというように返される。
「結木様って、どんな方?」
『どんな方……ねえ』
十夜は腕を組んで考え込んでしまう。そんなに難しいことを訊ねたつもりはなかったのだが。
『面倒くさがりで、甘党。怠け癖があるなあ。ちょっと時間があると休みたい休みたいって駄々こねるから、兄者は大変そうだなあ』
「……随分と、人間っぽいのね」
『神様ってそういうもんだろ。完璧すぎても近寄り難いしさ』
駄目な所しか挙げられないのに、よくそんなにも慕われ敬われるものだ。
「結木様が大切なのね」
『誰だって、恩義のある方にはそうだろ』
「恩義──」
『辛い時に優しくしてもらったりとか、ひもじい時に何かごちそうされたりとか』
「うん、そうねえ」
『俺はさ、神使にしてもらうまで独りだったんだ。毎日独りで餌取って、独りで寝て。その年は日照りが続いて、中々食い物が見付からなかったんだよな。──俺が、元々は何だか知ってる?』
「もともと?」
『兄者は、白蛇だろ。俺は──』
そうして、くるりと宙返りをひとつ。黒い水干の少年から、黒い羽を持つ烏の姿に変わる。そうして、もう一度宙返りをすると少年の姿に戻った。
『烏。あんまり有難がられる生き物じゃないだろ。そんなだから、明日くらいに死ぬんじゃないかってくらいに痩せ衰えたところを、結木様に拾われたってワケ。だから、結木様が面倒くさがりで怠け癖があるとしても、そんなことどうでも良いんだよな』
だからこそ、十夜にとっては結木様への恩義は計り知れないほど大きいのだろう。
『俺が頼みに頼んで、無理やり神使にしてもらったんだけどさ。兄者があれだから、俺なんて居ても居なくても変わらないんだよなあ』
結木様に認めてもらおうと、褒めてもらおうと、必死だったのだ。その気持は分かるような気がした。
結子もまた、近衛に褒められたいと思う。できることなら──好かれたいと、そう思うのは十夜が結木様に向けるものに近い感情だろうか。
好かれたい。好かれたい? 誰に? 近衛に。
近衛だけではない。香菜にも好かれたい。嫌われたくはない。誰だってそうだろう。
けれど、香菜とは違う。香菜に情けない姿を見られたとしても、仕方ないと諦めはつく。
けれど、相手が近衛となると話は別だ。少しでも良く見られたい。見栄を張っているだけなのだろうか。
最初はあれほど何も考えずに話ができたのに。近衛を知れば知るほど、自分を見られるのが怖くなる。
近衛に会えば、答えが分かるだろうか。
日曜日も、十夜は朝から張り切っていた。これで結木様に褒められるのだと思うと、確かにやる気は出るだろう。
ならばいっそ十夜に手伝ってもらって、早々に片付けてしまった方が良いのか。疲れはするが、効率は良い。今日もただただ無心に糸を結ぶ。
『次は、あの二人な。えーと、なんだっけ、運動するのに良さそうな格好してる男と、髪結んでる女。あ、俺はちょっと表を見てくるからな』
そう言い残し、鳥居の向こうへと消える。今日は午前中だけという約束だからか、人の来るペースが昨日よりも速いように感じた。そして、心なし──張り詰めている。空気が。別れ話の末に神社にお参りして縁切りをした二人だ。顔を合わせても楽しいことはないだろう。何か起こるのではないかとひやひやしていたら、案の定──。
「ちょっと! なんであんたが居るのよ!」
「お前こそ!」
大きな声に、びくっと身体が強張る。思わず声の方を見ると、参拝客と思しき男女が言い合っていた。手元を見ると、赤い糸が不格好で結ばれていた。結子が今日結んだ人物だろう。
神社内での揉め事は、仲裁に入らなければ。手にしていた糸を慌てて結ぶ。だが、その糸が問題だった。
結んだと思った糸が目の前で切れてしまったのだ。結び方が悪く、結べていなかったのかもしれない。忙しくて、結び目を触って確かめることをしなかったのだ。二人は、このまま離れてしまう。無意識にしろ、十夜に呼びつけられてわざわざここまで来たというのに。慌てて糸に手を伸ばそうとして──。
『神崎!』
不意に名を呼ばれ、手が止まった。
『一度結んで切れた糸には手を出すな』
その後で、ひやりとした手が触れる。言われて、あの糸はやはりちゃんと結んだものだったのか、と分かった。
白い手。すらりと伸びたきれいな形の指。
狩衣は白。伸びる髪も。瞳だけが宝石のように紅い。
「近衛さん……?」
見間違いでなければ、近衛の姿が確かに目の前にある。
『誰が付き添っている。そもそも、この人間の数はなんだ。片っ端から結べと言うのか』
「今は、近衛さんの代わりに十夜くんが……」
その名を出すと、近衛は大仰にため息をつく。
『……よりにもよって、十夜をご指名されたか』
そう呟き、紅い瞳がちらりと本殿を睨む。
『話は後で。とりあえず、今日の糸結びは仕舞いだ』
「でも」
まだ、糸を結びきっていない。
『日を改める。できれば話をしたいが──……』
ちらちらと向けられる視線が気になる。他の人たちには近衛の姿は見えないから、結子がぶつぶつと独り言をつぶやいているように映るのだ。
『この人ではな。昼には一度、家に戻るだろう。それまで、結木様へ報告をしてくる。十夜も連れて行くから、安心していい』
言うと、近衛は姿を消す。鳥居の向こうに十夜を見付け、本殿へと戻るのだろう。
言い争っていた男女は喧嘩を終えたのか、それとも互いに愛想を尽かしたのか姿を消していた。程なくすれば、この場に居る人々も姿を消すだろう。日曜日の朝から申し訳ないと、結子は密かに詫びた。
部屋に戻ると、近衛が正座をして待っていた。
見た目の良さもあるが、背筋を伸ばして座る近衛の姿は美しかった。久しぶりに見るからだろうか、その姿にどきりとする。
『疲れたろう』
そう言って、部屋に入り座るようにと促される。これではどちらが部屋の主か分からないが、黙って従う。近衛の向かいに、同じように正座をした。
「その……おつかれさまです」
『おつかれさま』
怒られるのだろうか。何を理由に? 故意にではなかったにしろ、もう一度糸を結ぼうとしたから。効率重視の提案に反対せず従ったから。そのリスクも考えずに。
いや、怒るのならば結子にだって怒りたいことはある。何も言わずにどこかへ行ってしまったこと。何か一言、あっても良いだろうに。顔を見る前はずっともやもやとしていたのに、いざこうして向かい合うと何も言えなくなってしまう。
結局、口を開いたのは近衛からだった。
『十夜の相手は疲れたろう。あれは後先考えず無茶なことを言い出す』
怒るでもなく、呆れるでもなく。結子の苦労を労ってくれた。
「どうして」
『うん?』
「どうして、怒らないんですか」
『怒られるようなことをしたのか?』
そう訊ねられることすら意外だというように返される。馬鹿馬鹿しい問いかけだったのだろうか。
「……糸を、もう一度結ぼうとしたじゃないですか、私」
初めて結ぶ時に注意されたではないか。自然に切れた糸には触れるなと。
『あれだけ流れ作業のように結ばされては、結んだかどうかも分からなくなる。神崎が謝ることではないよ』
「……私が、その流れ作業を提案したかもしれないのに?」
『したのか?』
黙って首を振ると、近衛はまるでそれが分かりきっていたかのように、だろう、と笑った。
『ああいった、結木様の都合に合わせた案を実行するのは、十夜くらいだ』
「……十夜くん、怒られましたか?」
『あれは多少怒られたほうがいい。……が、結木様も楽しまれていたようだからな』
十夜からの印象を踏まえても、確かに怒るよりも先に楽しみそうではあるなと納得した。その分の苦労が近衛にのしかかるのだろうけれど。十夜なりに一生懸命だったのだろうから、怒られていなければそれで良い。
『わたしも、神崎に謝らなければな』
「私に?」
『急いでいたとはいえ、何も伝えないのは失礼だった。何も言わずに十夜が来て、驚いたろう。不安ではなかったか?』
近衛は、どうしてこんなに分かってくれるのだろう。悔しいくらいに。あんなに苛立ったことも、忘れてしまう。
『すまなかった。以後、こんなことがないように気を付ける』
「もう、気にしていません」
そんなことは、もうどうだっていいのだ。
「……近衛さん」
『なんだ』
「近衛さん」
『どうした』
名を呼ぶと、返事がある。確かに近衛が傍に居る。他の誰かではだめだ。代わりなどきかない。近衛でないと。
香菜とは違う。香菜は友達に向ける好意。だから、香菜と向き合っていたってどきりとはしない。それらは似ているようで違う、“好き”だ。
友里に言われた通り。分かりきっていたのだ。分かっていて、気付かないふりをしていただけ。いつからと言われても分からないけれど、気付いてしまったら、もう認めない訳にはいかない。
たった一言がないだけで腹を立てて、けれど顔を見るとそんなことはどうでも良くなる。ちょっとしたことで一喜一憂する。別の女性に興味を持った様子を見ると、嫌な気持ちになる。
いつの間にか居座っていた感情の正体が、ようやく分かった。
これが、恋というものなのだと。




