37:雨宿り
昼過ぎから降り出した雨は、夕方頃になってからバケツをひっくり返したように激しくなった。
結子は放課後、いつものように──今日は大きな公園で──糸結びをしていたのだが、折り畳み傘では限界を感じ、近くの東屋へと逃げ込んだのだった。
まだそこまで遅い時間ではないというのに、辺りは薄暗くなってしまっている。
公園内に人影はなく、居たとしても通り抜けに使っているのか、皆足早に帰路につき、わざわざ雨宿りをするような人はいなかった。
学校指定のローファーはぐっしょりと濡れて、歩く度にぐずぐずと音を立てる。それがとてつもなく不快で、結子は恨めしげに空を見上げた。厚い鉛色の雲に覆われていて、雨はまだ止みそうにない。
『今日はもう仕舞いにするか』
「まだ一組しか結んでいませんが」
ここのところ、平日は平均して五組の糸を結んでいる。急な雨とはいえ、一組では目標には程遠い。
『無理をして風邪をひいては困る』
それは、結子のことを心配してくれているのか。そう期待したのだが。
『寝込むと、更に遅れてしまう』
続いた言葉に、なんだ、と落胆した。結子の心配よりも、結木様の心配。少し考えれば分かることだろうに、そこにいらぬ期待をしてしまう。恋というものは、なんだか面倒くさい。
今日、糸を結んだのは大学生の男女。同じサークルの仲間らしい。
公園は、敷地内に美術館もあるような大きなものだった。二人は美術サークルのメンバーのようで、先日から始まった特別展を観に来たようだった。もちろん、別々に。
出口にある特設のミュージアムショップを見ている女性と、ちょうど展覧会から出てきた男性の糸を結んだ。互いの存在に気付いた二人は、気まずそうにしていたが、悪い雰囲気ではないように見えた。
これから、話をしてくれるのかと見守っていたのだが。
──神崎、次だ。
見届ける間もなく、近衛がそう言ったのだった。
もう少し、と言うのも下世話に思えて、黙って従った。外に出て、公園の出口に向かっている途中で雨がひどくなったのだった。
時間は、午後五時。東屋には、近衛と結子だけ。雨はまだ弱まる気配もない。
こんな時、どうすれば良いのだろう。これまでにも、近衛と二人きりになることはあったが、どんな話をしていたのか思い出せない。そもそも、二人という表現は正しいのかどうか。一人と一匹? 蛇は匹で良いのか。それとも、長いから一本、二本? いや、匹が正しい。
そんな、どうでもいいことばかりが頭の中に浮かんでは消えてゆく。
どういう話をすれば良いのか、友里に聞いておけばよかった。友里ならば、きっと間を持たせるための話題を持っているだろうし、好きな人と話をする時のコツも心得ているだろう。
いや、聞いておいて参考になるとは思えないか。
同級生であれば、昨日見たテレビの話や授業のこと、学校行事──何でもあるけれど、近衛は同級生でもなければそもそも人でもない。そんな話題を選べば、近衛はただ相槌を打つだけになってしまう。
結子が一方的に話したいのではなくて、会話を──近衛のことを知りたい。結木様の神使の白蛇ということしか知らないのだから。
何か──もっと、こう、ないだろうか。友里との会話の中に何かヒントが紛れてないものかと記憶を探る。
──どんな人? ていうか、何歳?
そうだ、歳。そこから、話題を広げられはしないだろうか。
「近衛さん」
『どうした』
「近衛さんは、おいくつになるんですか?」
これは最初の足がかり。ここから、うまくいけば誕生日であるとか、好きなものなどを聞き出せれば、と思ったのだが。
『歳、か』
そう言ったきり、答えがない。ただ、雨音だけが聞こえる。
「……近衛さん?」
伺うように声をかけると、ようやく我に返ったように反応があった。
『ああ、すっかり数えるのを止めてしまっていたものだからな』
つまりは、今から数えるのも面倒なくらいの長生き、ということだろう。そんな昔から結木様に仕えて、飽きはしないのだろうか。
それとも、元は手拭いだったところを蛇に変えてもらったから、仕え続けなければならないのだろうか。
結木神社の由来。
ある娘が、想い人と結ばれるようにと白い手拭いを枝に結んだ。その手拭いは蛇に代わり、娘の願いを結木様へと伝えた──というものだが。
近衛には、もっとしっかりと覚えろと言われたが、結局あれから神社の縁起を紐解く間はなかった。
「近衛さんは、元々は、白い手拭いだったんですよね」
その問いかけに、近衛は目を瞬かせて──声を上げて笑った。
『神崎、なんだ、おまえは──……信じているのか、あれを』
それは、まるで信じる方がおかしいと言いたげな口ぶりだった。
「し……信じてますよ」
幼い頃に聞かされた、結木神社の始まりなのだ。今の今まで疑問に思うこともなかった。
近衛は相変わらず可笑しそうに肩を震わせる。
『純粋なのだなあ』
純粋というと聞こえは良いが、ばか正直と言いたいのかもしれない。
「……間違ってはいないと、言いましたよね近衛さん」
近衛と初めて顔を合わせた日だ。あの時はまだ警戒していた。
『言い伝えとしては、だな。巫女の割には神社の縁起について詳しくないと思っただけだ』
要するに、もっと勉強しろ、と言いたかったのか。
「でしたら、雨が止むまで時間がありますから。教えてくださっても宜しいのではないでしょうか」
近衛は腕を組み、少し考えた後で頷いた。
『確かに、何もせずに待っているのも馬鹿馬鹿しいからな』
そうして、少しの間の後でおもむろに話し始めた。
『結木様の祠は、昔はもっと小さなものだった。あの辺りは、村の外れになる場所で、辺りに家も少なかったから、拝みに来る者も少なかった。旅の者や──信心深い娘くらいだったな。わたしは、その辺りにねぐらを持つ蛇だった』
結子の生まれた頃から──祖母の話でも、あの辺りは家々が立ち並んでいたというから、近衛の話はもっともっと、はるか昔のことなのだろう。
『その、信心深い娘が恋をした。相手は村一番の働き者で、村の娘の憧れの的だった。娘は、どうにかして青年と夫婦になりたかった。娘は、いつも手を合わせる祠にお参りをした。どうか青年と夫婦にさせてくださいと言って。その村では、祭りの日に好いた相手に手拭いを渡す風習があった』
「渡せたんですか?」
『渡せなかったから、祠の傍の木の枝に結んだんだ』
「でも、最後には結ばれたんですよね」
『……わたしが、結木様にお伝えしてな』
ようやく出てきた手拭いと、蛇が結びつく。それらは長い年月を経て、ひとつに混ざり合ってしまったのか。
『娘は、お礼にとそれまで小さな石の祠であったものを立派な社殿に作り変えた。そのうち、手を合わせる者が増え、手が回らなくなった結木様は、わたしを神使にと望まれた』
そして、近衛はそれを受け入れ、神使になった。
娘の願いを聞いた縁。
娘が想い人と結ばれた縁。
結木様が臨んだ縁。
それらが繋がり、近衛は神使に取り立てられたのだ。
けれど、どうして近衛はその縁を受け入れたのだろうか。
「でも、大変でしょう? 神使の役目は」
ただの蛇のままで居たほうが気苦労も少なかったろう。責任だって発生しなかった。
『苦労はある。──が、それ以上に嬉しいこともある。そもそも、蛇も中々に大変なものなのだ』
十夜も、食べるものに困っていたところを助けてもらったと言っていたか。
『ただの蛇で居るよりも、神使になる方が良い。食べることにも困らぬし、様々に姿を変えられる。──それに、遥かに長生きだ』
それが、近衛らしくないと感じられたのは、結子の考え違いだろうか。考えというものは、周りの環境で変わるものだから、以前の──神使になる前の近衛の考えがそうだった、と言われればそれまでなのだけれど。
「でも、どうしてその人の願い事を伝えたんですか?」
もし、旅の安全を叶えていれば、結木神社も今とは違う──例えば交通安全祈願の神社となっていたのかもしれない。
その縁結びの願いを結木様に伝えたのは、土地の者だったからだろうか。それとも、いつも伝えていたが、結木様がその娘の願いを選び取ったのか。
何気ない問いかけのつもりだった。だが、近衛の表情が硬い。
「近衛さん?」
名を呼ぶと、視線をそらし、冷ややかな声音を発する。
『さあ──どうだったか。随分と昔のことだ』
──忘れてしまった。
そう、雨音に消えそうな微かな答えが紡がれた。
普段ならばそれで納得できただろうけれど──近衛の様子が、どこか引っかかる。
『小降りになったな。そろそろ帰ろうか』
空に目を向けたのも、この話をこれ以上続けないためのように思えて、けれどそれは考え過ぎだとも思えて、結子もつられるように空の様子を伺う。
相変わらず灰色の雲に覆われていたが、雨足は少し弱まっているようだった。濡れるだろうが、先程よりはましか。
東屋を出てしまえば、この話は終わってしまう。だから、そうなる前に、近衛の背に向かって問いを投げつけた。投げた球が返ってこないのは覚悟の上で。
「きれいな方だったんですか?」
その、信心深い娘は。
はるか昔のことだというのに、近衛は彼女をしっかりと覚えている。それほど印象に残る顔立ちをしていたのだろうか。
だから──。
『帰って、鏡を見てみると良い』
結子は真剣に訊ねたつもりだった。それなのに、近衛は少し茶化すように返す。
「近衛さん、私、冗談で言ってるんじゃ──」
真剣に訊ねたのだ。どうして、その娘を気にかけたのか。それは、その娘が特別だったからではないのか。
近衛は、気にせずになおも続ける。
『建て直された社は、娘の子らが守っていた』
信心深いそうだから、きっと子らにもそうあるように教えたのだろう。その子らが社を守るようになったのは、ごく自然な流れと言える。
それと鏡と、どう結びつくのか。
近衛の説明は断片的で、未完成のパズルのピースの一部のようだった。そのピースが重要なものだということは分かるが、しかし全体の形が見えない。
眉根を寄せて困惑する結子に、もう一つ、ピースが放られる。
『いつからだろうな、その者たちが、神崎の姓を名乗るようになったのは』
「……え? ちょっと、近衛さん、何ですか、それ──……!」
それは、つまり──つまり?
確認するより先に、これ以上の質問を制する。
『あとは、自分で調べてみることだ』
ならば、調べようではないか。近衛がこれ以上を話すつもりがないのなら。




