完璧な生徒会長は、最初の読者だとバレてしまった
もう、何も考えたくなかった。
九条栞は、自室の机に突っ伏していた。
学校を休んで、何日が経っただろう。
生徒会の仕事も、文芸部の活動も、今はすべて遠い世界の出来事のように感じられる。
窓の外では、朝から降り続いていた雨が、静かに窓ガラスを叩いていた。
「……桜庭くん」
九条栞は、小さく名前を呼んだ。
もちろん、返事はない。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
彼が夢を叶えたことは、嬉しかった。
書籍化が決まったと聞いたとき、本当は誰よりも喜びたかった。
けれど、彼の小説は、自分の望まない方向へ進んでしまった。
最初のヒロインは、主人公と別れた。
そして、新しいヒロインが登場した。
その展開が人気を集め、書籍化まで決まった。
「……私がいなくても、物語は進んでいくのね」
九条栞は、寂しそうに微笑んだ。
それは、当たり前のことだった。
物語を書くのは、桜庭悠馬なのだから。
彼には、彼自身の人生がある。
自分が望んだ結末を、彼に押しつけることなどできない。
立花理央に言われた言葉が、今も胸に残っていた。
『桜庭くんを、自由にしてあげてください』
「……わかっているわ」
九条栞は、静かに呟いた。
「……そんなこと、わかっているのよ」
けれど、理解することと、受け入れることは違う。
頭ではわかっていても、心が追いつかなかった。
彼の隣にいたかった。
彼の夢を、一番近くで応援したかった。
それだけなのに。
「……どうして、こんなにも難しいのかしら」
九条栞は、目を閉じた。
もう、今日は何もしたくなかった。
そう思った、そのときだった。
ピロン。
「……ん?」
ノートパソコンから、通知音が鳴った。
九条栞は、ゆっくりと顔を上げる。
「……何かしら?」
画面の右下に、小さな通知が表示されていた。
見慣れた小説投稿サイト。
そして、見慣れた作者名。
『桜』
「…………」
九条栞の指が、ぴたりと止まった。
桜先生。
彼が、何かを投稿したらしい。
書籍化の準備期間に入ると言っていたから、しばらく更新はないと思っていた。
それなのに。
「……活動報告?」
九条栞は、ゆっくりとマウスを動かした。
そして、通知を開く。
そこには、新しい活動報告のタイトルが表示されていた。
『告白したい人がいます』
「…………え?」
九条栞は、思わず声を漏らした。
告白。
その二文字が、頭の中で何度も繰り返される。
「……こ、告白?」
心臓が、どくんと跳ねた。
いったい、誰に?
もしかして、現実でも好きな人ができたのだろうか。
それとも、書籍化に関する何かの発表?
いや。
活動報告のタイトルに、そんな言葉を使うだろうか。
「……落ち着きなさい、九条栞」
彼女は、自分に言い聞かせた。
けれど、指先は震えていた。
恐る恐る、マウスをクリックする。
そして。
画面に表示された最初の一文を見て、九条栞は息を呑んだ。
『アイドルAさんへ』
「…………っ!」
心臓が、大きく跳ねた。
アイドルA。
それは、九条栞が小説投稿サイトで使っている名前だった。
誰にも教えていないはずの、もう一つの名前。
「……どうして?」
九条栞は、呟いた。
桜先生が、自分に向けて活動報告を書いている。
それだけでも、信じられなかった。
けれど。
次の文章を読んだ瞬間、九条栞の呼吸が止まりそうになった。
『俺が小説を書き始めたころ、読者はほとんどいませんでした』
『更新してもPVはゼロ。感想も届かない。正直、何度も諦めようと思いました』
『でも、そんな俺の小説を、毎回読んでくれた人がいました』
『それが、アイドルAさんです』
「…………」
九条栞は、画面を見つめた。
ゆっくりと、文字を追っていく。
『あなたは、いつも俺の小説を褒めてくれました』
『次回も楽しみにしています、と言ってくれました』
『俺が自信をなくしたときも、あなたのコメントを見ると、もう一度書いてみようと思えました』
『だから、ずっとお礼を言いたかったんです』
九条栞の瞳が、揺れた。
「……桜先生」
懐かしい記憶が、蘇ってきた。
初めて彼の小説を読んだ日。
まだ誰にも知られていなかった、拙くて、それでも一生懸命な物語。
九条栞は、その文章に心を奪われた。
だから、感想を書いた。
次も読みたいと思った。
彼の物語が、もっと多くの人に届いてほしいと願った。
ただ、それだけだった。
けれど。
いつの間にか、彼の物語を読むことが、毎日の楽しみになっていた。
そして、いつしか。
物語の向こうにいる少年自身を、好きになっていた。
「……私、そんなつもりじゃ」
九条栞は、小さく呟いた。
ただ、好きな作品を応援していただけ。
それなのに。
彼は、あのコメントを覚えていてくれた。
自分の言葉が、彼の支えになっていた。
その事実が、胸に温かく広がっていく。
◇ ◇ ◇
九条栞は、さらに文章を読み進めた。
『今回、俺の小説の書籍化が決まりました』
『もちろん、まだまだ未熟な作家です。これからも勉強しなければならないことが、たくさんあります』
『でも、ここまで来られたのは、応援してくれた読者の皆さんのおかげです』
『そして、その中でも、最初に俺を見つけてくれたあなたに、どうしても感謝を伝えたいんです』
「…………」
九条栞は、唇を噛んだ。
嬉しかった。
胸がいっぱいになるほど、嬉しかった。
けれど、同時に苦しかった。
自分は、彼の小説を読むのをやめてしまった。
最初のヒロインが別れたことを、受け入れられなかったから。
自分の望まない物語になったことが、悔しかったから。
そんな自分に、彼は感謝してくれている。
「……ごめんなさい」
九条栞は、静かに呟いた。
「……私、あなたの物語を、最後まで応援できなかったのに」
画面の文字が、少しずつ滲んでいく。
それでも、九条栞は続きを読む。
『最近、あなたのコメントが届かなくなりました』
『もしかしたら、俺の書いた展開が気に入らなかったのかもしれません』
『最初のヒロインを、ずっと応援してくれていましたから』
『もし、そうなら、ごめんなさい』
「……違うわ」
九条栞は、思わず声を上げた。
「……謝らないで」
悪いのは、彼ではない。
彼は、自分の物語を書いただけなのだから。
謝る必要なんて、どこにもない。
けれど。
『それでも、俺は自分の書きたい物語を書き続けたいと思っています』
『主人公にも、ヒロインにも、それぞれの人生があると思うからです』
『誰かと別れることが、必ずしも不幸とは限らない』
『別々の道を歩くことで、見つかる幸せもあると思うんです』
「…………」
九条栞は、息を呑んだ。
それは、以前、桜庭悠馬が自分に語ってくれた言葉だった。
ヒロインには、ヒロイン自身の人生がある。
彼は、ずっと同じことを言っていた。
何も変わっていない。
変わってしまったのは、自分のほうだったのかもしれない。
「……桜庭くん」
九条栞は、そっと名前を呼んだ。
そして、次の文章に目を向けた。
『ただ、一つだけ伝えたいことがあります』
『俺は、あなたに会いたいです』
「…………え?」
九条栞の指が、止まった。
会いたい。
その言葉が、信じられなかった。
『今まで、画面越しにしか言葉を交わせなかったあなたに』
『一度でいいから、直接お礼を伝えたいんです』
『ありがとう、と』
『あなたのおかげで、俺は夢を諦めずに済みました』
『そして、もしよければ、これからも俺の物語を見守ってほしいです』
九条栞の胸が、熱くなった。
「……そんな」
彼は、まだ自分を必要としてくれている。
あんなにも取り乱してしまったのに。
彼の物語を否定してしまったのに。
それでも、会いたいと言ってくれている。
けれど。
次の一文を見た瞬間。
九条栞の世界は、静かに止まった。
『アイドルAさん』
『いいえ――九条九条栞先輩』
「…………っ!」
九条栞は、息を呑んだ。
目を見開く。
何度も、その文章を読み返した。
九条九条栞。
間違いなく、自分の名前だった。
「……どうして?」
九条栞は、震える声で呟いた。
「……どうして、私だとわかったの?」
誰にも教えていなかった。
桜庭悠馬にも、もちろん伝えていない。
自分がアイドルAであることは、秘密のはずだった。
それなのに。
彼は、知っている。
自分の正体を。
「……嘘」
九条栞は、口元を押さえた。
心臓が、激しく鳴っている。
怖かった。
今まで隠してきたことが、知られてしまった。
彼の小説を、最初から読んでいたこと。
誰よりも熱心に応援していたこと。
そして。
彼の物語を、現実に近づけようとしていたこと。
どこまで、知られてしまったのだろう。
「……桜庭くん」
九条栞は、震える指で画面をスクロールした。
活動報告には、まだ続きがあった。
『突然、本名で呼んでしまってすみません』
『あなたがアイドルAさんだと知って、正直、とても驚きました』
『でも、それ以上に嬉しかったんです』
「……え?」
九条栞は、目を見開いた。
嬉しかった?
どうして?
秘密にしていたことを、怒らないの?
そんな疑問が、次々と浮かんでくる。
『俺が一番感謝していた読者と、俺の夢を一番近くで応援してくれた先輩が、同じ人だったからです』
『九条先輩』
『文芸部を作ってくれて、ありがとうございます』
『小説を書く場所を用意してくれて、ありがとうございます』
『そして、俺の作品を好きになってくれて、本当にありがとうございます』
「…………」
九条栞の瞳から、涙がこぼれた。
止めようとしても、止まらなかった。
『あの日、先輩がどうしてあんなに悲しそうだったのか、俺にはまだ全部はわかりません』
『でも、先輩が俺の物語を大切に思ってくれていたことだけは、わかります』
『だから、もう一度、ちゃんと話がしたいです』
『小説のことも、これからのことも』
『先輩の気持ちも、聞かせてください』
九条栞は、画面を見つめたまま動けなかった。
彼は、何も責めていない。
ただ、話がしたいと言っている。
自分の気持ちを、聞きたいと言っている。
それが、どれほど嬉しいことなのか。
今の九条栞には、言葉にできなかった。
◇ ◇ ◇
最後の文章が、画面に表示された。
『九条先輩』
『俺は、これからも小説を書き続けます』
『きっと、先輩の望まない展開を書くこともあると思います』
『それでも、俺の物語を好きでいてくれたことは、ずっと忘れません』
『だから』
『もう一度、会ってくれませんか?』
『今度は、作家と読者としてだけじゃなく』
『桜庭悠馬と、九条九条栞として』
「…………」
九条栞は、何も言えなかった。
ただ、涙が頬を伝っていく。
自分は、負けたのだと思っていた。
最初のヒロインのように、物語から退場するのだと思っていた。
けれど。
彼は、まだ自分に会いたいと言ってくれている。
それは、恋愛の答えではない。
彼が、自分をヒロインに選んでくれたわけでもない。
けれど。
少なくとも、すべてが終わったわけではなかった。
「……ずるいわ」
九条栞は、涙を拭いながら呟いた。
「……本当に、ずるい人ね」
自分は、彼の物語を思い通りにしようとした。
彼の人生を、自分の望む展開へ導こうとした。
それなのに。
彼は、自分の予想を超えてくる。
自分が望んでいた言葉ではない。
けれど、今の自分が一番聞きたかった言葉を、届けてくれる。
「……桜庭くん」
九条栞は、静かに名前を呼んだ。
そして、コメント入力欄を開いた。
指先は、まだ震えていた。
何を書けばいいのかわからない。
謝罪?
感謝?
それとも、今まで隠していた気持ち?
どれも、簡単には言葉にできなかった。
けれど。
今度こそ、逃げたくなかった。
九条栞は、ゆっくりとキーボードを打ち始めた。
『桜先生』
そこで、一度手を止める。
そして、静かに首を振った。
「……いいえ」
九条栞は、最初の文字を消した。
もう、匿名の読者として隠れる必要はない。
彼は、自分の名前を呼んでくれたのだから。
だから。
今度は、自分も彼の名前を呼びたい。
『桜庭くん』
九条栞は、ゆっくりと続きを打った。
『私も、あなたに会いたいです』
その文章を見つめる。
そして。
今度は、消さなかった。
「……ありがとう」
九条栞は、小さく微笑んだ。
涙は、まだ止まらない。
けれど、その表情には、ほんの少しだけ温かさが戻っていた。
彼の物語は、これからも彼自身が書いていく。
自分が、その結末を決めることはできない。
それでも。
自分の気持ちを伝えることは、できるはずだ。
九条九条栞は、ゆっくりと投稿ボタンを押した。
画面に、自分のコメントが表示される。
たった一行。
それだけの言葉だった。
けれど。
今まで彼女が用意してきた、どんな完璧な計画よりも。
その一行は、確かに彼女自身の気持ちだった。
そして。
九条九条栞は、初めて誰かの物語を動かそうとするのではなく、自分自身の言葉で、未来へ一歩踏み出したのだった。




