書籍化が決まった俺は、最初の読者にありがとうを伝えたい
ピロン。
「……ん?」
ノートパソコンから、メールの通知音が鳴った。
俺、桜庭悠馬は、執筆中の手を止めた。
画面の右下に表示された差出人を見て、思わず背筋が伸びる。
「……編集者さんからだ!」
俺は、慌ててメールを開いた。
差出人は、現在お世話になっている出版社の担当編集者。
件名には、こう書かれていた。
『書籍化情報の公開について』
「…………」
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
そして、本文に目を通す。
そこには、書籍化企画が正式に進行すること、そして本日から情報を公開しても構わないことが記されていた。
「……え?」
俺は、一度目を閉じた。
もう一度、メールを読む。
……間違いない。
書籍化。
正式決定。
情報公開、許可。
その三つの言葉が、はっきりと並んでいた。
「……よ」
思わず、声が漏れる。
「……よっしゃあああああああああ!」
俺は、椅子から飛び上がった。
「書籍化決定だあああああああ!」
拳を天井に突き上げる。
そして、その場でくるりと一回転。
……いや、待て。
落ち着け、俺。
落ち着くんだ。
そう思いながらも、足が勝手に動いてしまう。
「……ふっふっふ!」
謎のステップを踏む。
右へ。
左へ。
そして、もう一度右へ。
……何だ、この踊りは。
自分でもわからない。
けれど、踊らずにはいられなかった。
「……ついに、ついに!」
俺は、両手を広げた。
「……ラブコメ王への第一歩だあああ!」
……いや、まだ王ではない。
書籍化が決まっただけだ。
ここから売れなければ、次の巻が出るかどうかもわからない。
そんな厳しい世界だということくらい、俺も知っている。
それでも。
今だけは、喜ばせてほしかった。
◇ ◇ ◇
俺は、ゆっくりと椅子に座り直した。
目の前には、書籍化決定を知らせるメール。
その文章を、何度も読み返す。
「……本当に、決まったんだな」
思えば、長かった。
初めて小説を書いた日。
誰にも読まれず、PVがゼロだった日。
更新しても、感想が一つも届かなかった日。
そんな日々が、何度もあった。
正直、諦めようと思ったこともある。
自分には才能がない。
こんな物語、誰も読んでくれない。
そう考えた夜もあった。
けれど。
俺は、書くことをやめなかった。
誰かを笑顔にする物語を書きたかったからだ。
いつか、自分の小説を本にしたかったからだ。
そして。
たった一人でも、続きを楽しみにしてくれる人がいたからだ。
「……ありがとう」
俺は、小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
今まで読んでくれた人たち。
応援してくれた人たち。
そして、俺の夢を支えてくれた人たち。
その全員に、感謝したかった。
「……神様!」
俺は、両手を合わせた。
「……本当に、ありがとうございます!」
普段、神頼みなんてほとんどしない。
けれど、今日くらいは許してほしい。
だって、夢が叶ったのだから。
いや。
正確には、夢への扉が開いたのだ。
ここから先も、努力しなければならない。
でも、今は。
「……嬉しいなあ」
俺は、自然と笑みを浮かべた。
胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。
こんな気持ちになる日が、本当に来るなんて。
少し前の俺に教えてやりたかった。
お前の小説、ちゃんと誰かに届くぞ。
だから、諦めるな。
そう、伝えてやりたかった。
◇ ◇ ◇
「……そうだ!」
俺は、突然思い出した。
「……読者のみんなに、報告しないと!」
書籍化が決まったのは、俺一人の力ではない。
読んでくれる人がいたから。
感想を送ってくれる人がいたから。
応援してくれる人がいたから。
だからこそ、この喜びを共有したかった。
俺は、小説投稿サイトにアクセスした。
そして、活動報告の作成画面を開く。
「……さて、何て書こうかな」
キーボードに指を置いたまま、少し考える。
こういうとき、どんな文章を書けばいいのだろう。
あまり堅苦しくするのも違う気がする。
かといって、いつものテンションで書いたら、ただの変人だ。
「……うーん」
俺は、頭を掻いた。
小説なら、いくらでも言葉が出てくる。
けれど、自分自身の喜びを伝えるとなると、意外と難しい。
それでも。
「……よし!」
俺は、ゆっくりと文章を打ち始めた。
『【ご報告】書籍化が決定しました!』
『いつも「俺の人生はラブコメ展開らしい」を読んでくださっている皆様へ。』
『このたび、本作品の書籍化が正式に決定しました!』
『ここまで執筆を続けられたのは、読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございます!』
『書籍化作業に集中するため、Web版の更新は一時的にお休みさせていただきます。再開時期については、決まり次第お知らせします。』
『これからも、皆様に楽しんでいただける物語を書けるよう頑張ります!』
『今後とも、よろしくお願いいたします!』
……うん。
こんな感じだろうか。
少し堅苦しいかもしれない。
けれど、今の俺の気持ちは、ちゃんと伝わるはずだ。
「……投稿!」
俺は、公開ボタンを押した。
画面に、活動報告が表示される。
それを見た瞬間、胸が高鳴った。
「……ついに、発表しちゃったな」
書籍化決定。
その言葉が、俺の名前と一緒に並んでいる。
何度見ても、信じられなかった。
◇ ◇ ◇
それから、十分ほど経ったころ。
ピロン。
「……ん?」
通知が届いた。
活動報告に、新しいコメントがついている。
「……おお!」
俺は、慌てて開いた。
『書籍化決定、おめでとうございます!』
『桜先生、すごい! 絶対に買います!』
『やっぱり書籍化か! ずっと応援してました!』
『新ヒロインの話、大好きです! 発売が楽しみ!』
『最初のヒロインのその後も、書籍版で読めると嬉しいです』
「…………」
俺は、しばらく画面を見つめていた。
そして。
「……ううっ」
思わず、目頭が熱くなった。
……何だよ、これ。
嬉しすぎるだろ。
こんなにも、たくさんの人が祝ってくれるなんて。
少し前まで、俺の小説を知っている人なんて、ほとんどいなかった。
それなのに。
今は、こんなにも多くの読者がいる。
「……ありがとうございます!」
俺は、画面に向かって頭を下げた。
そして、一つ一つのコメントに返信していく。
『ありがとうございます! 頑張ります!』
『ぜひ、楽しみにしていてください!』
『これからも応援していただけると嬉しいです!』
返信しても、返信しても、新しいコメントが届く。
「……すげえ」
俺は、思わず笑ってしまった。
人気作家って、こんな気持ちなのだろうか。
いや、まだ人気作家と名乗るには早い。
けれど。
今日くらいは、少しだけ調子に乗ってもいいだろう。
「……ふふふ」
俺は、椅子にもたれかかった。
「……ラブコメ王、待ってろよ!」
誰に向けた宣言なのか、自分でもわからない。
それでも、今の俺は最高に幸せだった。
……そのはずだった。
◇ ◇ ◇
「……あれ?」
ふと、俺はコメント欄を見直した。
何かが、足りない。
そんな気がした。
「……何だろう?」
新しいコメントは、次々と届いている。
祝福の言葉。
応援の言葉。
発売を楽しみにする声。
どれも、嬉しいものばかりだ。
けれど。
「…………」
俺は、ある名前を探していた。
『アイドルA』
俺の小説を、最初から読んでくれていた人。
PVがゼロだったころから、感想を送ってくれた人。
俺が何度も挫けそうになったとき、励ましてくれた人。
その名前が、見当たらなかった。
「……アイドルAさん?」
俺は、コメント欄をスクロールした。
上から下まで。
何度も、何度も。
しかし。
「……いないな」
小さく呟いた。
もちろん、すべての読者が活動報告を読むわけではない。
たまたま忙しいのかもしれない。
最近、投稿サイトを見ていないだけかもしれない。
そう考えることもできた。
けれど。
胸の奥に、小さな寂しさが残った。
「……そういえば」
俺は、ふと思い出した。
アイドルAさんのコメントを、最近見ていない。
いつからだっただろう。
新しいヒロインが登場してから?
それとも、もっと前?
「……確認してみるか」
俺は、小説の管理画面を開いた。
そして、過去の感想欄を一つずつ見返していく。
第一話。
『相合傘の展開、素晴らしいですわ』
第二話。
『次回も楽しみにしています』
第三話。
『一緒の部活。素晴らしいですわ。この展開、嫌いではないです』
懐かしいコメントが並んでいた。
「……ははっ」
俺は、思わず笑みを浮かべた。
そうだ。
最初は、こんな感じだった。
PVが一つ増えただけで、大喜びしていた。
そして、アイドルAさんからコメントが届くたびに、次も頑張ろうと思えた。
俺は、さらにページを進めた。
休日デート。
文化祭。
主人公とヒロインが、楽しそうに笑い合うエピソード。
そこにも、アイドルAさんのコメントがあった。
『とても素敵な文化祭でしたわ。二人には、これからも幸せでいてほしいです』
「…………」
俺は、指を止めた。
次の話。
主人公とヒロインの別れ。
そこには、アイドルAさんのコメントがなかった。
さらに次の話。
新しいヒロインとの出会い。
そこにも、ない。
その次も。
さらに、その次も。
「……あ」
俺は、ようやく気づいた。
アイドルAさんが最後にコメントをくれたのは、文化祭のエピソードだった。
あの、主人公とヒロインが幸せそうに過ごしていた回。
その次から、彼女の名前は消えていた。
「……そっか」
俺は、小さく呟いた。
きっと、あの別れが受け入れられなかったのだろう。
最初のヒロインを、ずっと応援してくれていたから。
主人公と結ばれることを、心から喜んでくれていたから。
だから。
新しいヒロインとの恋愛を、読む気になれなかったのかもしれない。
「……ごめんなさい、アイドルAさん」
俺は、誰もいない部屋で呟いた。
もちろん、作者がすべての読者の希望に応えられるわけではない。
自分の書きたい物語を書くことも、大切だ。
それでも。
あの人が、どんな気持ちで読むのをやめたのか。
少しだけ、知りたかった。
◇ ◇ ◇
俺は、活動報告の画面に戻った。
そこには、今も祝福のコメントが増え続けている。
『おめでとうございます!』
『発売日が楽しみです!』
『これからも応援しています!』
嬉しい。
本当に、嬉しい。
ずっと夢見ていた光景だ。
けれど。
「……なんか、虚しいな」
俺は、ぽつりと呟いた。
たくさんの読者が増えた。
ランキングにも載った。
書籍化まで決まった。
それなのに。
一番最初に俺を見つけてくれた人が、ここにはいない。
「……アイドルAさん」
俺は、もう一度その名前を呼んだ。
もし、今もどこかで読んでくれているのなら。
もし、もう一度だけ俺の物語を開いてくれるのなら。
伝えたいことがあった。
「……あなたのおかげで、ここまで来られました」
俺は、静かに呟いた。
そして、パソコンの画面を見つめた。
そこには、書籍化を祝う言葉が並んでいる。
俺の夢は、確かに叶い始めていた。
けれど。
夢が叶うことと、すべての大切なものが残ることは、同じではないのかもしれない。
俺は、そのことを初めて知った気がした。
……それでも。
俺は、書き続けるしかない。
いつか、あの人にも届く物語を書くために。
そして。
もう一度、あの懐かしい名前が感想欄に現れる日を、心のどこかで待ちながら。




