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俺が書いたラブコメが現実になっている件について、完璧な生徒会長は何も知らないふりをする  作者: ウイング神風


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21/26

完璧な生徒会長は、私をヒロインに選んでほしい

 放課後。


 俺、桜庭悠馬は、いつもより少しだけ早足で廊下を歩いていた。


「……ふふふ」


 自然と笑みがこぼれてしまう。


 いや、仕方ないだろう。


 だって、俺の小説に書籍化の打診が来たのだから!


 書籍化。


 書籍化である。


 あの、書店に並ぶ本になるかもしれないという、夢のような話だ。


「……くううっ!」


 思わず拳を握りしめる。


 もちろん、まだ正式に決まったわけではない。


 これから出版社の編集者と話し合い、企画が進むかどうか決まるらしい。


 それでも、嬉しかった。


 少し前まで、俺の小説は誰にも読まれなかった。


 PVが一つ増えただけで喜んでいた、底辺作家だったのだ。


 それが今では、累計一万PVを突破。


 ランキングにも名前が載り、感想まで届くようになった。


 ……人生、何が起こるかわからないものだ。


「……よし!」


 俺は、文芸部室へ向かった。


 この喜びを、一番に伝えたい人がいる。


 九条栞先輩。


 学校中から憧れられている、完璧な生徒会長。


 そして、俺が小説を書き続けられるように、何度も支えてくれた人だ。


 文芸部を作ってくれた。


 執筆環境を整えてくれた。


 スランプに陥ったときには、励ましてくれた。


 あの人がいなければ、俺はここまで来られなかったかもしれない。


「……きっと、喜んでくれるよな」


 俺は、そう信じていた。


     ◇ ◇ ◇


「……お邪魔しまーす!」


 文芸部室の扉を開ける。


 しかし。


「……あれ?」


 中には、誰もいなかった。


 いつもの机。


 いつもの本棚。


 窓際に置かれた観葉植物。


 すべてが、普段と変わらない。


 けれど、九条先輩の姿だけがなかった。


「……珍しいな」


 俺は、首を傾げた。


 九条先輩は、いつも俺より先に部室へ来ている。


 俺が来るころには、紅茶を用意してくれていることさえあった。


 そんな先輩が、今日はまだ来ていないらしい。


「……生徒会の仕事かな?」


 文化祭が終わったばかりだ。


 後片付けや会計報告など、まだ仕事が残っているのだろう。


 俺は、そう考えて、いつもの席に腰掛けた。


「……まあ、待ってるか」


 ノートパソコンを開く。


 電源を入れ、小説投稿サイトにアクセスした。


 管理画面には、今日もたくさんの通知が届いていた。


「……おお!」


 俺は、思わず声を上げた。


 新しい感想。


 増え続けるPV。


 お気に入り登録。


 その一つ一つが、嬉しかった。


『新ヒロインとの掛け合いが面白い!』


『主人公の成長が感じられて好きです』


『最初のヒロインのその後も気になります』


 俺は、ゆっくりと感想を読み返した。


「……ありがたいなあ」


 少し前までは、感想欄が空っぽなのが当たり前だった。


 更新しても、誰にも反応してもらえない。


 そんな日々が続いていた。


 それなのに、今は違う。


 俺の物語を、楽しみに待ってくれる人たちがいる。


「……頑張って書いてよかった」


 心から、そう思えた。


 けれど。


 感想欄を見つめていると、ある名前を探してしまう。


『アイドルA』


 俺の最初の読者。


 PVがゼロだったころから、毎回感想を送ってくれた人。


 しかし、最近はその名前を見かけなくなっていた。


「……やっぱり、いないか」


 俺は、小さく呟いた。


 主人公と最初のヒロインが別れた回。


 あれ以降、アイドルAさんからのコメントは途絶えている。


 もしかしたら、あの展開が気に入らなかったのかもしれない。


 それでも。


「……あの人にも、報告したかったな」


 俺は、書籍化の打診メールを思い出した。


 アイドルAさんがいなければ、俺は途中で執筆を諦めていたかもしれない。


 だから、いつか伝えたかった。


 あなたのおかげで、ここまで来られました。


 そう、心からお礼を言いたかったのだ。


「……まあ、まずは九条先輩だな!」


 俺は、気持ちを切り替えた。


 先輩が来たら、すぐに報告しよう。


 そして、今までのお礼も伝えよう。


 そう考えた、そのときだった。


 ガラッ!


「……っ!」


 突然、部室の扉が勢いよく開いた。


 俺は、驚いて振り返る。


「あ、九条先輩!」


 そこには、九条栞先輩が立っていた。


 長い黒髪。


 整った顔立ち。


 いつもと変わらない制服姿。


 けれど。


「…………」


 先輩は、何も言わなかった。


「……あれ?」


 俺は、首を傾げた。


 いつもなら、優しく微笑んで挨拶してくれる。


『こんにちは、桜庭くん』


 そんな声が聞こえてくるはずだった。


 しかし、今日は違った。


 先輩は、黙ったまま俺を見つめている。


 その表情は、どこか暗かった。


「……九条先輩?」


 俺は、もう一度声をかけた。


「……何か、ありました?」


「…………」


 返事はない。


 先輩は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。


 一歩。


 また一歩。


 その足取りは、いつもより重く感じられた。


「……あの」


 俺は、少し戸惑った。


 もしかして、生徒会の仕事で何かあったのだろうか。


 文化祭の後処理で、問題でも起きたのかもしれない。


「……大丈夫ですか?」


 俺が尋ねると。


「……なんで?」


 先輩が、小さく呟いた。


「……え?」


 聞き取れなかった。


「……すみません。もう一度、お願いできますか?」


 すると。


「……なんで、彼女は結ばれないの?」


 先輩は、顔を上げた。


 その瞳には、見たことのない感情が浮かんでいた。


     ◇ ◇ ◇


「……彼女?」


 俺は、思わず聞き返した。


「……誰のことですか?」


「……最初のヒロインよ」


「……ああ!」


 ようやく理解した。


 俺の小説の話だったのか。


「……もしかして、最新話を読んでくれたんですか?」


 俺は、少し嬉しくなった。


 九条先輩は、以前から俺の小説に興味を持ってくれていた。


 きっと、今回も読んでくれたのだろう。


「……ありがとうございます!」


 俺は、笑顔を浮かべた。


「実はですね、あの展開にはちゃんと意味が――」


「……どうして?」


「……え?」


「……どうして、別れさせたの?」


 先輩の声が、震えていた。


「……あんなに、幸せそうだったのに」


「…………」


「……やっと、結ばれたのに」


 俺は、言葉を失った。


 先輩は、真剣な表情で続けた。


「……彼女は、いい子でしょう?」


「……はい」


「……主人公のことを、誰よりも大切にしていたでしょう?」


「……そうですね」


「……だったら!」


 先輩の声が、大きくなった。


「……どうして、彼女を選んであげないの?」


 俺は、思わず身を引いた。


 こんな九条先輩を、見たことがなかった。


 いつも冷静で、穏やかで、誰に対しても優しい。


 そんな先輩が、今は感情を抑えきれずにいる。


「……あ、あの、先輩」


 俺は、慎重に言葉を選んだ。


「……確かに、最初のヒロインはいい子です」


「…………」


「……でも、彼女には彼女の夢があるんです」


 俺は、以前にも話したことを繰り返した。


「主人公と一緒にいることだけが、彼女の幸せじゃないと思うんです」


「……違うわ」


「……え?」


「……違うのよ、桜庭くん」


 先輩は、ゆっくりと首を振った。


「……彼女は、主人公の隣にいたかったの」


「…………」


「……ずっと、一緒にいたかったのよ」


 その声は、まるで。


 自分自身の気持ちを語っているようだった。


「……それなのに、どうして?」


 先輩は、胸元に手を当てた。


「……どうして、別の女の子を選ぶの?」


 俺は、返事に困った。


 もちろん、新しいヒロインには新しいヒロインの魅力がある。


 そして、主人公が誰を選ぶのかは、まだ決めていない。


 けれど、先輩の様子を見ていると、そんな説明で納得してもらえる気がしなかった。


「……九条先輩」


 俺は、恐る恐る尋ねた。


「……もしかして、最初のヒロインが好きだったんですか?」


「……好き?」


 先輩は、ぽつりと繰り返した。


 そして。


「……ええ」


 静かに頷いた。


「……大好きだったわ」


 その声には、深い悲しみが滲んでいた。


「……彼女には、幸せになってほしかった」


「…………」


「……主人公と、一緒に」


 俺は、何も言えなかった。


 小説の登場人物に、ここまで感情移入してくれる。


 作家としては、嬉しいことのはずだった。


 それなのに。


 なぜだろう。


 今の先輩を見ていると、胸が苦しくなった。


     ◇ ◇ ◇


「……私、頑張ったのよ」


 先輩が、ぽつりと呟いた。


「……え?」


「……あなたのために、いろいろ頑張ったの」


 俺は、首を傾げた。


「……はい。それは、もちろん知っています」


 文芸部のことだろうか。


 執筆環境を整えてくれたことだろうか。


「……九条先輩には、本当に感謝しています!」


 俺は、素直に頭を下げた。


「先輩がいなかったら、俺はここまで来られませんでした!」


 しかし。


「……だったら」


 先輩の声が、震えた。


「……どうして、私の望む物語にならないの?」


「…………え?」


 俺は、思わず顔を上げた。


 先輩は、悲しそうに笑っていた。


「……私、ずっと応援してきたのよ」


「…………」


「……あなたが、どんな物語を書くのか」


 先輩は、一歩近づいた。


「……どんな展開を喜ぶのか」


 また、一歩。


「……どんなヒロインを好きになるのか」


 俺は、動けなかった。


「……全部、知っているつもりだったの」


 先輩の瞳が、揺れている。


「……だから、あなたの理想に近づこうとしたの」


「……九条先輩?」


 何かが、おかしかった。


 先輩は、小説の話をしているはずだ。


 けれど、言葉の端々に、妙な違和感がある。


 まるで。


 自分自身が、あの物語のヒロインであるかのように。


「……私じゃ、駄目なの?」


 先輩が、小さく尋ねた。


「……え?」


「……私じゃ、ヒロインになれないの?」


 その瞬間。


 俺の頭が、真っ白になった。


「…………」


 何を、言っているんだ?


 ヒロイン?


 九条先輩が?


 俺の小説の?


「……あ、あの」


 俺は、必死に言葉を探した。


 けれど、何も思いつかなかった。


 先輩は、今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめている。


「……私、あなたのことを、全部理解しているつもりだったの」


「…………」


「……あなたの夢も、好きなものも、書きたい物語も」


 先輩は、唇を噛んだ。


「……なのに、どうして」


 そして。


「……どうして、私を置いていくの?」


 その声が、静かな部室に響いた。


     ◇ ◇ ◇


「……九条先輩」


 俺は、ようやく声を出した。


「……少し、落ち着いてください」


「…………」


「……何か、誤解があると思うんです」


 俺は、ゆっくりと続けた。


「……俺、小説の話をしているだけですよ?」


 その言葉に。


 先輩の表情が、ぴたりと止まった。


「…………」


 長い沈黙。


 窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくる。


 いつもと変わらない放課後。


 けれど、文芸部室の空気だけが、別のものになっていた。


「……そう、ね」


 先輩は、小さく呟いた。


「……小説の話、よね」


「……はい」


 俺は、頷いた。


 すると、先輩はゆっくりと目を伏せた。


「……ごめんなさい」


「……い、いえ!」


「……少し、取り乱してしまったわ」


 先輩は、無理に微笑んだ。


 けれど、その笑顔は、いつもよりずっと弱々しかった。


「……今日は、もう帰りますね」


「……え?」


「……少し、疲れてしまったみたい」


 そう言って、先輩は扉へ向かった。


「……あ、待ってください!」


 俺は、慌てて立ち上がった。


 先輩が、足を止める。


「……何かしら?」


「……実は、報告したいことがあるんです!」


 俺は、胸の高鳴りを感じながら言った。


「……俺の小説に、書籍化の打診が来たんです!」


「…………」


 先輩の動きが、止まった。


「……書籍化?」


「はい!」


 俺は、笑顔を浮かべた。


「まだ正式に決まったわけじゃないんですけど、出版社から連絡が来て!」


 嬉しかった。


 この喜びを、先輩と分かち合いたかった。


「……九条先輩のおかげです!」


 俺は、心から伝えた。


「……本当に、ありがとうございます!」


 しかし。


 先輩は、すぐには答えなかった。


 ただ、静かに俺を見つめていた。


 そして。


「……そう」


 小さく呟いた。


「……おめでとう、桜庭くん」


 その言葉は、確かに祝福だった。


 けれど。


 なぜだろう。


 俺には、ひどく寂しそうに聞こえた。


「……九条先輩?」


 俺が呼びかけると、先輩は微笑んだ。


「……夢に、一歩近づいたのね」


「……はい!」


「……それは、本当に素晴らしいことだわ」


 先輩は、ゆっくりと頷いた。


 そして。


「……でも」


 小さく、何かを呟いた。


「……え?」


 聞き返そうとした、そのとき。


「……何でもありません」


 先輩は、静かに首を振った。


「……また、明日ね。桜庭くん」


 そう言って、部室を出ていった。


 パタン。


 扉が閉まる。


 俺は、その場に立ち尽くした。


「…………」


 何だったんだ?


 今日の九条先輩は、明らかに様子がおかしかった。


 小説の展開に、あれほど感情的になるなんて。


 しかも。


『私じゃ、ヒロインになれないの?』


 あの言葉。


 いったい、どういう意味だったのだろう。


「……わからないな」


 俺は、小さく呟いた。


 そして、机の上のパソコンを見つめた。


 画面には、出版社から届いたメール。


 夢に近づいた証拠が、そこにあった。


 けれど。


 さっきまでの喜びは、少しだけ薄れていた。


「……九条先輩」


 俺は、閉じられた扉を見つめた。


 何か、大切なことを見落としている。


 そんな気がしてならなかった。


 それでも。


 俺には、まだわからなかった。


 九条栞先輩が、どうしてあれほど苦しそうな顔をしていたのか。


 そして。


 彼女が、自分自身を俺の物語のヒロインだと信じていたことを。 放課後。


 俺、桜庭悠馬は、いつもより少しだけ早足で廊下を歩いていた。


「……ふふふ」


 自然と笑みがこぼれてしまう。


 いや、仕方ないだろう。


 だって、俺の小説に書籍化の打診が来たのだから!


 書籍化。


 書籍化である。


 あの、書店に並ぶ本になるかもしれないという、夢のような話だ。


「……くううっ!」


 思わず拳を握りしめる。


 もちろん、まだ正式に決まったわけではない。


 これから出版社の編集者と話し合い、企画が進むかどうか決まるらしい。


 それでも、嬉しかった。


 少し前まで、俺の小説は誰にも読まれなかった。


 PVが一つ増えただけで喜んでいた、底辺作家だったのだ。


 それが今では、累計一万PVを突破。


 ランキングにも名前が載り、感想まで届くようになった。


 ……人生、何が起こるかわからないものだ。


「……よし!」


 俺は、文芸部室へ向かった。


 この喜びを、一番に伝えたい人がいる。


 九条栞先輩。


 学校中から憧れられている、完璧な生徒会長。


 そして、俺が小説を書き続けられるように、何度も支えてくれた人だ。


 文芸部を作ってくれた。


 執筆環境を整えてくれた。


 スランプに陥ったときには、励ましてくれた。


 あの人がいなければ、俺はここまで来られなかったかもしれない。


「……きっと、喜んでくれるよな」


 俺は、そう信じていた。


     ◇ ◇ ◇


「……お邪魔しまーす!」


 文芸部室の扉を開ける。


 しかし。


「……あれ?」


 中には、誰もいなかった。


 いつもの机。


 いつもの本棚。


 窓際に置かれた観葉植物。


 すべてが、普段と変わらない。


 けれど、九条先輩の姿だけがなかった。


「……珍しいな」


 俺は、首を傾げた。


 九条先輩は、いつも俺より先に部室へ来ている。


 俺が来るころには、紅茶を用意してくれていることさえあった。


 そんな先輩が、今日はまだ来ていないらしい。


「……生徒会の仕事かな?」


 文化祭が終わったばかりだ。


 後片付けや会計報告など、まだ仕事が残っているのだろう。


 俺は、そう考えて、いつもの席に腰掛けた。


「……まあ、待ってるか」


 ノートパソコンを開く。


 電源を入れ、小説投稿サイトにアクセスした。


 管理画面には、今日もたくさんの通知が届いていた。


「……おお!」


 俺は、思わず声を上げた。


 新しい感想。


 増え続けるPV。


 お気に入り登録。


 その一つ一つが、嬉しかった。


『新ヒロインとの掛け合いが面白い!』


『主人公の成長が感じられて好きです』


『最初のヒロインのその後も気になります』


 俺は、ゆっくりと感想を読み返した。


「……ありがたいなあ」


 少し前までは、感想欄が空っぽなのが当たり前だった。


 更新しても、誰にも反応してもらえない。


 そんな日々が続いていた。


 それなのに、今は違う。


 俺の物語を、楽しみに待ってくれる人たちがいる。


「……頑張って書いてよかった」


 心から、そう思えた。


 けれど。


 感想欄を見つめていると、ある名前を探してしまう。


『アイドルA』


 俺の最初の読者。


 PVがゼロだったころから、毎回感想を送ってくれた人。


 しかし、最近はその名前を見かけなくなっていた。


「……やっぱり、いないか」


 俺は、小さく呟いた。


 主人公と最初のヒロインが別れた回。


 あれ以降、アイドルAさんからのコメントは途絶えている。


 もしかしたら、あの展開が気に入らなかったのかもしれない。


 それでも。


「……あの人にも、報告したかったな」


 俺は、書籍化の打診メールを思い出した。


 アイドルAさんがいなければ、俺は途中で執筆を諦めていたかもしれない。


 だから、いつか伝えたかった。


 あなたのおかげで、ここまで来られました。


 そう、心からお礼を言いたかったのだ。


「……まあ、まずは九条先輩だな!」


 俺は、気持ちを切り替えた。


 先輩が来たら、すぐに報告しよう。


 そして、今までのお礼も伝えよう。


 そう考えた、そのときだった。


 ガラッ!


「……っ!」


 突然、部室の扉が勢いよく開いた。


 俺は、驚いて振り返る。


「あ、九条先輩!」


 そこには、九条栞先輩が立っていた。


 長い黒髪。


 整った顔立ち。


 いつもと変わらない制服姿。


 けれど。


「…………」


 先輩は、何も言わなかった。


「……あれ?」


 俺は、首を傾げた。


 いつもなら、優しく微笑んで挨拶してくれる。


『こんにちは、桜庭くん』


 そんな声が聞こえてくるはずだった。


 しかし、今日は違った。


 先輩は、黙ったまま俺を見つめている。


 その表情は、どこか暗かった。


「……九条先輩?」


 俺は、もう一度声をかけた。


「……何か、ありました?」


「…………」


 返事はない。


 先輩は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。


 一歩。


 また一歩。


 その足取りは、いつもより重く感じられた。


「……あの」


 俺は、少し戸惑った。


 もしかして、生徒会の仕事で何かあったのだろうか。


 文化祭の後処理で、問題でも起きたのかもしれない。


「……大丈夫ですか?」


 俺が尋ねると。


「……なんで?」


 先輩が、小さく呟いた。


「……え?」


 聞き取れなかった。


「……すみません。もう一度、お願いできますか?」


 すると。


「……なんで、彼女は結ばれないの?」


 先輩は、顔を上げた。


 その瞳には、見たことのない感情が浮かんでいた。


     ◇ ◇ ◇


「……彼女?」


 俺は、思わず聞き返した。


「……誰のことですか?」


「……最初のヒロインよ」


「……ああ!」


 ようやく理解した。


 俺の小説の話だったのか。


「……もしかして、最新話を読んでくれたんですか?」


 俺は、少し嬉しくなった。


 九条先輩は、以前から俺の小説に興味を持ってくれていた。


 きっと、今回も読んでくれたのだろう。


「……ありがとうございます!」


 俺は、笑顔を浮かべた。


「実はですね、あの展開にはちゃんと意味が――」


「……どうして?」


「……え?」


「……どうして、別れさせたの?」


 先輩の声が、震えていた。


「……あんなに、幸せそうだったのに」


「…………」


「……やっと、結ばれたのに」


 俺は、言葉を失った。


 先輩は、真剣な表情で続けた。


「……彼女は、いい子でしょう?」


「……はい」


「……主人公のことを、誰よりも大切にしていたでしょう?」


「……そうですね」


「……だったら!」


 先輩の声が、大きくなった。


「……どうして、彼女を選んであげないの?」


 俺は、思わず身を引いた。


 こんな九条先輩を、見たことがなかった。


 いつも冷静で、穏やかで、誰に対しても優しい。


 そんな先輩が、今は感情を抑えきれずにいる。


「……あ、あの、先輩」


 俺は、慎重に言葉を選んだ。


「……確かに、最初のヒロインはいい子です」


「…………」


「……でも、彼女には彼女の夢があるんです」


 俺は、以前にも話したことを繰り返した。


「主人公と一緒にいることだけが、彼女の幸せじゃないと思うんです」


「……違うわ」


「……え?」


「……違うのよ、桜庭くん」


 先輩は、ゆっくりと首を振った。


「……彼女は、主人公の隣にいたかったの」


「…………」


「……ずっと、一緒にいたかったのよ」


 その声は、まるで。


 自分自身の気持ちを語っているようだった。


「……それなのに、どうして?」


 先輩は、胸元に手を当てた。


「……どうして、別の女の子を選ぶの?」


 俺は、返事に困った。


 もちろん、新しいヒロインには新しいヒロインの魅力がある。


 そして、主人公が誰を選ぶのかは、まだ決めていない。


 けれど、先輩の様子を見ていると、そんな説明で納得してもらえる気がしなかった。


「……九条先輩」


 俺は、恐る恐る尋ねた。


「……もしかして、最初のヒロインが好きだったんですか?」


「……好き?」


 先輩は、ぽつりと繰り返した。


 そして。


「……ええ」


 静かに頷いた。


「……大好きだったわ」


 その声には、深い悲しみが滲んでいた。


「……彼女には、幸せになってほしかった」


「…………」


「……主人公と、一緒に」


 俺は、何も言えなかった。


 小説の登場人物に、ここまで感情移入してくれる。


 作家としては、嬉しいことのはずだった。


 それなのに。


 なぜだろう。


 今の先輩を見ていると、胸が苦しくなった。


     ◇ ◇ ◇


「……私、頑張ったのよ」


 先輩が、ぽつりと呟いた。


「……え?」


「……あなたのために、いろいろ頑張ったの」


 俺は、首を傾げた。


「……はい。それは、もちろん知っています」


 文芸部のことだろうか。


 執筆環境を整えてくれたことだろうか。


「……九条先輩には、本当に感謝しています!」


 俺は、素直に頭を下げた。


「先輩がいなかったら、俺はここまで来られませんでした!」


 しかし。


「……だったら」


 先輩の声が、震えた。


「……どうして、私の望む物語にならないの?」


「…………え?」


 俺は、思わず顔を上げた。


 先輩は、悲しそうに笑っていた。


「……私、ずっと応援してきたのよ」


「…………」


「……あなたが、どんな物語を書くのか」


 先輩は、一歩近づいた。


「……どんな展開を喜ぶのか」


 また、一歩。


「……どんなヒロインを好きになるのか」


 俺は、動けなかった。


「……全部、知っているつもりだったの」


 先輩の瞳が、揺れている。


「……だから、あなたの理想に近づこうとしたの」


「……九条先輩?」


 何かが、おかしかった。


 先輩は、小説の話をしているはずだ。


 けれど、言葉の端々に、妙な違和感がある。


 まるで。


 自分自身が、あの物語のヒロインであるかのように。


「……私じゃ、駄目なの?」


 先輩が、小さく尋ねた。


「……え?」


「……私じゃ、ヒロインになれないの?」


 その瞬間。


 俺の頭が、真っ白になった。


「…………」


 何を、言っているんだ?


 ヒロイン?


 九条先輩が?


 俺の小説の?


「……あ、あの」


 俺は、必死に言葉を探した。


 けれど、何も思いつかなかった。


 先輩は、今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめている。


「……私、あなたのことを、全部理解しているつもりだったの」


「…………」


「……あなたの夢も、好きなものも、書きたい物語も」


 先輩は、唇を噛んだ。


「……なのに、どうして」


 そして。


「……どうして、私を置いていくの?」


 その声が、静かな部室に響いた。


     ◇ ◇ ◇


「……九条先輩」


 俺は、ようやく声を出した。


「……少し、落ち着いてください」


「…………」


「……何か、誤解があると思うんです」


 俺は、ゆっくりと続けた。


「……俺、小説の話をしているだけですよ?」


 その言葉に。


 先輩の表情が、ぴたりと止まった。


「…………」


 長い沈黙。


 窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくる。


 いつもと変わらない放課後。


 けれど、文芸部室の空気だけが、別のものになっていた。


「……そう、ね」


 先輩は、小さく呟いた。


「……小説の話、よね」


「……はい」


 俺は、頷いた。


 すると、先輩はゆっくりと目を伏せた。


「……ごめんなさい」


「……い、いえ!」


「……少し、取り乱してしまったわ」


 先輩は、無理に微笑んだ。


 けれど、その笑顔は、いつもよりずっと弱々しかった。


「……今日は、もう帰りますね」


「……え?」


「……少し、疲れてしまったみたい」


 そう言って、先輩は扉へ向かった。


「……あ、待ってください!」


 俺は、慌てて立ち上がった。


 先輩が、足を止める。


「……何かしら?」


「……実は、報告したいことがあるんです!」


 俺は、胸の高鳴りを感じながら言った。


「……俺の小説に、書籍化の打診が来たんです!」


「…………」


 先輩の動きが、止まった。


「……書籍化?」


「はい!」


 俺は、笑顔を浮かべた。


「まだ正式に決まったわけじゃないんですけど、出版社から連絡が来て!」


 嬉しかった。


 この喜びを、先輩と分かち合いたかった。


「……九条先輩のおかげです!」


 俺は、心から伝えた。


「……本当に、ありがとうございます!」


 しかし。


 先輩は、すぐには答えなかった。


 ただ、静かに俺を見つめていた。


 そして。


「……そう」


 小さく呟いた。


「……おめでとう、桜庭くん」


 その言葉は、確かに祝福だった。


 けれど。


 なぜだろう。


 俺には、ひどく寂しそうに聞こえた。


「……九条先輩?」


 俺が呼びかけると、先輩は微笑んだ。


「……夢に、一歩近づいたのね」


「……はい!」


「……それは、本当に素晴らしいことだわ」


 先輩は、ゆっくりと頷いた。


 そして。


「……でも」


 小さく、何かを呟いた。


「……え?」


 聞き返そうとした、そのとき。


「……何でもありません」


 先輩は、静かに首を振った。


「……また、明日ね。桜庭くん」


 そう言って、部室を出ていった。


 パタン。


 扉が閉まる。


 俺は、その場に立ち尽くした。


「…………」


 何だったんだ?


 今日の九条先輩は、明らかに様子がおかしかった。


 小説の展開に、あれほど感情的になるなんて。


 しかも。


『私じゃ、ヒロインになれないの?』


 あの言葉。


 いったい、どういう意味だったのだろう。


「……わからないな」


 俺は、小さく呟いた。


 そして、机の上のパソコンを見つめた。


 画面には、出版社から届いたメール。


 夢に近づいた証拠が、そこにあった。


 けれど。


 さっきまでの喜びは、少しだけ薄れていた。


「……九条先輩」


 俺は、閉じられた扉を見つめた。


 何か、大切なことを見落としている。


 そんな気がしてならなかった。


 それでも。


 俺には、まだわからなかった。


 九条栞先輩が、どうしてあれほど苦しそうな顔をしていたのか。


 そして。


 彼女が、自分自身を俺の物語のヒロインだと信じていたことを。

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