完璧な生徒会長は、彼の自由を認められない
「……どうして、こんなにも読まれているのかしら」
九条栞は、パソコンの画面を見つめながら呟いた。
放課後の生徒会室。
窓の外では、運動部の掛け声が響いている。
しかし、今の彼女には、そんな声さえ届いていなかった。
画面に表示されているのは、Web小説投稿サイト。
『俺の人生はラブコメ展開らしい』
作者、桜。
栞が誰よりも愛している作家、桜庭悠馬の作品だった。
累計PV、一万突破。
学園ラブコメ部門のランキングも、日に日に順位を上げている。
感想欄には、数え切れないほどのコメントが並んでいた。
『新ヒロイン、最高です!』
『別れのシーンで泣きました』
『最初のヒロインも好きだったけど、今の展開も面白い!』
『主人公には夢を叶えてほしい』
「…………」
栞は、ゆっくりとマウスを動かした。
何度読み返しても、感想の内容は変わらない。
みんな、喜んでいる。
主人公と最初のヒロインが別れたというのに。
あれほど二人の恋愛を応援していたはずなのに。
「……どうして?」
栞は、小さく首を振った。
「……どうして、誰も怒らないの?」
もちろん、別れを惜しむコメントもあった。
けれど、その多くは、切ない展開として受け入れられていた。
中には、新しいヒロインのほうが好きだという読者さえいる。
「……ありえないわ」
栞は、机の下で拳を握りしめた。
せっかく結ばれた二人。
相合傘から始まった恋。
部活動で距離を縮め、休日のデートを重ね、文化祭で幸せを確かめ合った二人。
それなのに。
主人公は、夢を追いかけるためにヒロインと別れた。
そして、新しい街で別の少女と出会い、笑い合っている。
「……そんなの、桜庭くんの物語じゃないわ」
栞の声が、わずかに震えた。
彼の小説が人気になることは、嬉しい。
ずっと夢見ていた成功なのだから。
誰よりも応援してきたのは、自分なのだから。
それなのに。
どうして、素直に喜べないのだろう。
「……私が、間違っているの?」
答えは、返ってこなかった。
◇ ◇ ◇
「……会長?」
突然、背後から声が聞こえた。
栞は、はっと顔を上げる。
振り返ると、生徒会副会長の立花理央が立っていた。
編み込んだ髪を揺らしながら、立花は心配そうにこちらを見つめている。
「……立花さん」
「どうされたんですか? ずいぶん難しい顔をされていますけど」
「……何でもないわ」
栞は、慌てて画面を閉じようとした。
しかし、立花はすでに気づいていた。
「……また、桜庭くんの小説ですか?」
「…………」
栞は、答えなかった。
立花は、小さくため息をついた。
「……会長。最近、ずっとその小説を気にされていますね」
「……だって」
栞は、俯いた。
「……私の望まない展開になっているんですもの」
「……望まない展開?」
「ええ」
栞は、再びパソコンの画面を開いた。
「……見てください」
そこには、新しいヒロインと主人公が楽しそうに会話する場面が表示されていた。
「……主人公は、最初のヒロインと別れてしまったの」
「……はい」
「……あんなに、幸せそうだったのに」
栞は、画面を指さした。
「……どうして、別れさせる必要があるのかしら?」
立花は、しばらく文章を読んでいた。
そして、静かに答えた。
「……主人公にも、ヒロインにも、それぞれの夢があったからでしょう」
「……夢?」
「はい。二人が別々の道を選ぶことにも、意味があると思います」
「……意味なんて、ないわ」
栞は、思わず言い返した。
「……好きなら、一緒にいればいいじゃない」
「……会長」
「……離れる必要なんて、ないでしょう?」
声が、少しずつ大きくなっていく。
「……私は、ずっと応援してきたのよ」
栞は、胸元に手を当てた。
「……彼が小説を書けるように、環境を整えたわ」
文芸部を作った。
部室を用意した。
パソコンも、本も揃えた。
彼が望む物語を、現実に近づけようとした。
そのすべてが、彼のためだった。
「……それなのに」
栞は、唇を噛んだ。
「……どうして、私が望む物語を書いてくれないの?」
立花の表情が、わずかに曇った。
「……会長」
「……何か、間違っていたのかしら?」
栞は、立花を見つめた。
「……私は、彼のためにできることを、全部してきたつもりよ」
それなのに、彼は自分の知らない展開を書き始めた。
新しいヒロイン。
新しい恋。
新しい未来。
まるで、自分だけが置いていかれたようだった。
「……悔しいの」
栞は、ぽつりと呟いた。
「……私、こんなに悔しいと思ったこと、ないわ」
◇ ◇ ◇
「……会長」
立花は、静かに口を開いた。
「一つ、言わせていただいてもよろしいですか?」
「……何かしら」
「……桜庭くんの小説は、桜庭くんのものです」
「…………え?」
栞は、目を見開いた。
立花は、真剣な表情で続けた。
「作家は、自分の物語を自由に書く権利があります」
「……それは、わかっているわ」
「……本当に、わかっていますか?」
その言葉に、栞は息を呑んだ。
「……どういう意味?」
「会長は、桜庭くんのためだと言いながら、彼の人生を自分の思い通りにしようとしています」
「……そんなこと」
「……あります」
立花は、はっきりと言った。
「文芸部の設立も、文化祭の変更も、全部そうです」
「……っ!」
「彼が喜ぶから。彼の夢のためだから。そう言って、何もかも先回りしてきましたよね」
栞は、言葉を失った。
立花の言うことは、事実だった。
けれど。
「……それの、何が悪いの?」
栞は、震える声で尋ねた。
「……彼は、喜んでくれたわ」
「……はい」
「……私に、感謝してくれたわ」
「……そうですね」
「……なら、いいじゃない!」
栞は、思わず声を荒げた。
「……私は、彼を幸せにしたいだけなの!」
立花は、黙ってその言葉を受け止めた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「……会長」
その声は、いつもよりも優しかった。
「……幸せは、誰かに決めてもらうものではありません」
「…………」
「桜庭くんには、桜庭くんの人生があります」
立花は、まっすぐに栞を見つめた。
「……彼は、会長の所有物ではないんです」
「…………っ!」
栞の胸に、鋭い痛みが走った。
所有物。
そんな言葉で、自分の気持ちを表現されたくなかった。
「……違うわ」
栞は、小さく首を振った。
「……私は、そんなつもりじゃ」
「……なら、自由にしてあげてください」
「…………」
「彼が、どんな物語を書くのか。どんな夢を追うのか。誰と一緒に歩むのか」
立花は、一つずつ言葉を重ねた。
「……それを、彼自身に選ばせてあげてください」
栞は、何も言えなかった。
自由。
彼自身の選択。
それは、正しい言葉だった。
生徒会長として、何度も口にしてきた言葉でもあった。
生徒の自主性を尊重する。
それぞれの夢を応援する。
誰もが、自分の未来を選べる学校にする。
そんな理想を、栞自身が掲げてきた。
けれど。
桜庭悠馬にだけは、同じことができなかった。
「……できないわ」
栞は、かすれた声で呟いた。
「……会長?」
「……彼を、自由にするなんて」
栞は、俯いた。
「……私には、できない」
◇ ◇ ◇
「……できますよ」
立花は、静かに答えた。
「……今なら、まだ間に合います」
「…………」
「彼のことを、本当に大切に思っているなら」
立花は、一歩近づいた。
「……少しだけ、距離を置いてみませんか?」
「……距離を?」
「はい」
「……どうして?」
栞は、顔を上げた。
「……どうして、私が離れなければならないの?」
「……会長」
「……私が、一番彼のことを知っているのに!」
栞の声が、生徒会室に響いた。
「……彼が何を好きで、何を嫌いで、何に悩んでいるのか!」
彼の好きな食べ物。
彼が読む本。
彼が書く小説。
彼が笑う瞬間。
彼が落ち込む理由。
栞は、そのすべてを知っているつもりだった。
「……私だけが、彼を理解しているのよ!」
立花は、悲しそうに目を伏せた。
「……それは、違います」
「……何が違うの?」
「……会長は、彼の行動を知っているだけです」
「…………」
「……彼の気持ちまで、知っているわけではありません」
その言葉は、栞の胸に深く突き刺さった。
行動を知っているだけ。
気持ちは、知らない。
そんなはずはない。
自分は、誰よりも彼を見てきた。
誰よりも、彼のために努力してきた。
それなのに。
「……あなたまで」
栞は、震える声で呟いた。
「……あなたまで、私が間違っていると言うの?」
「……会長」
「……立花さんは、私の味方だと思っていたわ」
立花は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……私は、会長の味方です」
「…………」
「……だからこそ、止めたいんです」
その声には、迷いがなかった。
「……このままでは、会長も桜庭くんも、傷ついてしまいます」
栞は、唇を噛んだ。
傷つく。
そんなこと、考えたくなかった。
自分は、彼を幸せにするために行動しているのだから。
彼が笑ってくれるなら、それでいいはずなのだから。
けれど。
なぜ、こんなにも苦しいのだろう。
「……できないわよ!」
栞は、とうとう叫んだ。
「……彼を、誰かに譲るなんて!」
その瞬間。
立花の表情が、変わった。
「……会長」
静かな声だった。
「……今、ご自分で何とおっしゃったかわかっていますか?」
「…………え?」
栞は、息を止めた。
譲る。
自分は、そう言った。
まるで、桜庭悠馬が自分のものだとでも言うように。
「…………」
栞は、ゆっくりと口元を押さえた。
違う。
そんなつもりではなかった。
自分は、ただ。
彼の隣にいたかっただけなのに。
◇ ◇ ◇
生徒会室に、重い沈黙が落ちた。
窓の外では、夕日が校舎を赤く染めている。
立花は、しばらく栞を見つめていた。
そして、小さく頭を下げた。
「……少し、言い過ぎました」
「…………」
「……でも、私は間違っているとは思いません」
栞は、何も答えなかった。
「……会長。どうか、考えてみてください」
立花は、それだけ言うと、生徒会室を出ていった。
パタン。
扉が閉まる。
そして。
栞は、一人になった。
「…………」
彼女は、ゆっくりと椅子に座った。
目の前には、パソコン。
画面には、桜庭悠馬の小説が表示されている。
新しいヒロインと笑い合う主人公。
夢に向かって歩き始めた少年。
そして、置いていかれた最初のヒロイン。
「……私は、何を間違えたのかしら」
栞は、小さく呟いた。
彼の夢を応援したかった。
彼の物語を、誰よりも大切にしたかった。
彼が幸せになるなら、どんな努力だって惜しまないつもりだった。
それなのに。
自分の望まない未来を、受け入れられない。
彼が、自分の知らない世界へ進んでいくことが怖い。
「……桜庭くん」
栞は、愛しい名前を呼んだ。
そして、画面に手を伸ばした。
「……私、どうすればいいの?」
答えは、返ってこなかった。
ただ、ランキングの数字だけが、静かに更新されていく。
彼の物語は、今も前へ進んでいる。
自分が望んだ方向とは、違う場所へ。
それでも。
「……嫌よ」
栞は、静かに首を振った。
「……私だけ、置いていかれるなんて」
その声は、誰にも届かなかった。
完璧な生徒会長は、初めて理解できない問題に直面していた。
それは、他人の人生を思い通りにできないという、当たり前の事実だった。
けれど。
その答えを受け入れるには、彼女の想いはあまりにも深くなりすぎていた。




