完璧な生徒会長は、負けヒロインになりたくない
認めない。
私は、認めない。
せっかく結ばれた主人公とヒロインを、もう一度引き離すなんて。
そんな結末、あっていいはずがない。
「……どうして?」
九条栞は、自室の机に向かいながら、小さく呟いた。
窓の外には、夜の街が広がっている。
高層マンションの十五階。
静まり返った部屋に響くのは、壁時計の針が進む音だけだった。
机の上には、一台のノートパソコン。
画面には、小説投稿サイトが表示されている。
『俺の人生はラブコメ展開らしい』
作者は、桜。
そして、その正体は――桜庭悠馬。
栞が、世界で一番大切にしている作家だった。
「……新しいヒロイン、ですって?」
彼女は、昼間の出来事を思い出した。
文化祭が終わりに近づいたころ。
文芸部室で、悠馬は楽しそうに語っていた。
『新しいヒロインを、登場させようと思います!』
あのときの笑顔。
輝いていた瞳。
嬉しそうに物語の続きを話す声。
そのすべてが、今も鮮明に思い出せる。
けれど。
『一度、二人を別れさせようと思っています!』
「…………」
栞は、ぎゅっと拳を握りしめた。
別れる。
主人公とヒロインが。
ようやく結ばれた二人が。
なぜ?
どうして?
そんな必要が、どこにあるというのだろう。
「……私というヒロインが、いるのに」
誰もいない部屋で、言葉がこぼれた。
もちろん、悠馬は自分の小説について話していただけだ。
登場人物と現実の人間は違う。
そんなこと、栞にも理解できる。
理解できるはずだった。
けれど、彼女には、どうしても切り離せなかった。
相合傘。
文芸部。
膝枕。
休日のデート。
そして、文化祭。
彼が描いた物語を、彼女は一つずつ現実にしてきた。
彼の理想に近づくために。
彼が笑顔になれるように。
いつか、自分を特別な存在として見てくれるように。
それなのに。
「……次は、別れなの?」
栞は、震える声で呟いた。
自分は、何かを間違えたのだろうか。
彼が望むヒロインになれなかったのだろうか。
あれほど努力したのに。
あれほど尽くしたのに。
それでも、足りなかったのだろうか。
◇ ◇ ◇
午後九時。
いつもの更新時刻が近づいていた。
栞は、パソコンの前で背筋を伸ばした。
画面を更新する。
まだ、新しい話は投稿されていない。
「……きっと、大丈夫」
彼女は、自分に言い聞かせた。
あのとき、悠馬は言っていた。
まだ決定ではない、と。
読者のことも考える、と。
ならば、考え直してくれたかもしれない。
主人公とヒロインを別れさせる必要なんてないと、気づいてくれたかもしれない。
「……そうよね、桜庭くん」
栞は、画面に向かって微笑んだ。
そして、再び更新ボタンを押す。
その瞬間。
新着通知が表示された。
「……来た」
栞の瞳が輝く。
待ち望んでいた、最新話。
彼女は、迷わずクリックした。
しかし。
「…………え?」
画面に表示されたタイトルを見て、笑顔が消えた。
『第十四話 それぞれの未来』
嫌な予感がした。
栞は、ゆっくりと本文を読み始めた。
主人公は、夢を追いかけていた。
作家になるという夢。
自分の物語を、もっと多くの人に届けたいという願い。
そのために、彼は遠く離れた街へ旅立つことを決意する。
一方、ヒロインには、守りたい場所があった。
大切な友人。
家族。
そして、自分自身の未来。
二人は、互いを愛していた。
けれど、進むべき道は違っていた。
「……そんな」
栞は、息を呑んだ。
物語の中で、ヒロインが微笑む。
『あなたの夢を、応援しています』
主人公が、苦しそうに答える。
『……ありがとう』
そして。
二人は、別々の道を歩き始めた。
「…………」
栞の指が止まった。
しばらく、何も考えられなかった。
窓の外で車の走る音が聞こえる。
壁時計が、静かに時を刻む。
それなのに、彼女には何も聞こえていないようだった。
「……認めない」
小さな声が漏れる。
「……こんなの、認めないわ」
主人公とヒロインは、幸せになるはずだった。
ずっと一緒にいるはずだった。
あの文化祭で、来年も一緒に回ろうと約束したばかりなのに。
どうして。
どうして、こんなにも簡単に別れてしまうのだろう。
「……約束したじゃない」
栞は、画面を見つめた。
「……来年も、一緒にって」
それは、小説の中の約束だった。
けれど、彼女にとっては違った。
文化祭の日。
夕暮れの校舎。
悠馬と並んで歩いた、あの時間。
彼が楽しそうに笑っていたこと。
自分も、心から幸せだったこと。
そのすべてが、物語と重なっていた。
だからこそ。
小説の中の別れが、まるで自分自身に訪れた未来のように思えてしまった。
◇ ◇ ◇
「……まだ、続きがあるわ」
栞は、震える指で画面をスクロールした。
物語は、そこで終わらなかった。
主人公は、新しい街で生活を始める。
夢に向かって努力を重ねる。
失敗し、悩み、それでも前へ進んでいく。
そして。
ある日、一人の少女と出会う。
「…………」
栞の表情が、強張った。
新しいヒロイン。
悠馬が、文芸部室で楽しそうに語っていた存在だった。
彼女は、主人公の夢を理解していた。
失敗したときには励まし、落ち込んだときには寄り添った。
そして、主人公は少しずつ、彼女に心を開いていく。
「……違う」
栞は、首を振った。
主人公の夢を応援するのは、自分の役目だったはずだ。
彼が困ったとき、助けるのは自分だったはずだ。
彼の笑顔を、一番近くで見守るのは。
「……私なのに」
新しいヒロインは、楽しそうに笑っていた。
主人公も、笑っていた。
まるで、最初のヒロインとの別れなど、遠い過去の出来事であるかのように。
「……どうして、笑えるの?」
栞は、画面に問いかけた。
別れたヒロインは、どうなるのだろう。
彼女は、今も主人公を想っているかもしれない。
遠く離れた場所で、彼の幸せを祈っているかもしれない。
それなのに。
主人公は、新しいヒロインと笑い合っている。
「……そんなの、不公平ですわ」
栞の声が、わずかに震えた。
自分は、彼のために何でもしてきた。
彼が小説を書けるように、文芸部を作った。
必要なものを揃えた。
彼の物語を、現実に再現した。
彼が望むなら、どんな努力だって惜しまなかった。
それなのに。
もし、彼が別の誰かを選んだら。
もし、自分が必要なくなったら。
「……私は、どうすればいいの?」
初めてだった。
九条栞は、何もかも自分の思い通りになる人生を送ってきた。
勉強も。
生徒会の仕事も。
学校行事も。
努力すれば、必ず結果が出た。
けれど。
桜庭悠馬だけは、違った。
彼の心だけは、どれほど努力しても、完全には理解できなかった。
彼が次に何を書くのか。
どんな結末を選ぶのか。
誰を幸せにしたいと願うのか。
その答えは、彼自身の中にしかない。
「……わからないわ」
栞は、俯いた。
「……どうして、わからないの?」
完璧な生徒会長。
誰もが頼りにする優等生。
そんな自分が、たった一つの小説の展開に、こんなにも心を乱されている。
滑稽だった。
けれど、どうしようもなかった。
◇ ◇ ◇
栞は、机の引き出しを開いた。
そこから、小さな写真を取り出す。
桜庭悠馬の横顔。
放課後、夢中になって小説を書いている姿だった。
本人には知らせず、撮影したもの。
誰にも見せたことのない、大切な写真。
「……桜庭くん」
栞は、愛しい名前を呼んだ。
写真の中の少年は、笑っていた。
何か面白い展開でも思いついたのだろう。
少しだけ口元を緩め、楽しそうにパソコンを見つめている。
その笑顔が、栞は大好きだった。
「……あなたの夢を、応援したいんです」
それは、嘘ではなかった。
彼には、立派な作家になってほしい。
多くの人に、彼の物語を読んでほしい。
いつか、自分の夢を叶えてほしい。
その願いだけは、今も変わっていない。
けれど。
「……私を、置いていかないで」
栞は、写真を見つめた。
自分の知らない場所で。
自分の知らない人たちと。
彼が笑っている未来。
それを想像するだけで、胸が苦しくなった。
彼の幸せを願っている。
それなのに、その幸せの中に自分がいないかもしれないと思うと、耐えられなかった。
「……私は、ヒロインになれないの?」
誰も答えてくれない。
当然だった。
この部屋には、栞しかいないのだから。
それでも、彼女は問い続けた。
「……何が、足りなかったのかしら」
もっと優しくすればよかった?
もっと彼を支えればよかった?
もっと、彼の理想に近づけばよかった?
いくら考えても、答えは出なかった。
ただ一つだけ、わかっていることがあった。
彼が書いた物語の中では、最初のヒロインは主人公と別れてしまった。
そして、主人公は新しいヒロインと出会った。
それが、どうしても許せなかった。
「……桜庭くん」
栞は、もう一度名前を呼んだ。
彼の写真を、そっと胸元に寄せる。
「……私、あなたのことが大好きです」
静かな告白だった。
誰にも聞かれない。
誰にも届かない。
それでも、彼女は言わずにはいられなかった。
「……だから」
栞は、ゆっくりと顔を上げた。
パソコンの画面には、最新話の最後の一文が表示されている。
『こうして、彼は新しい恋を知った。』
「…………」
栞は、しばらくその文章を見つめていた。
そして。
「……まだ、決まったわけではありませんものね」
小さく呟いた。
物語は、まだ終わっていない。
主人公が、最後に誰を選ぶのか。
それは、まだわからない。
ならば。
「……私にも、できることがあるはずです」
栞は、写真を机に置いた。
そして、もう一度、小説の最初のページを開いた。
相合傘。
部活動。
膝枕。
休日のデート。
文化祭。
彼女が、現実にしてきた物語。
その一つ一つを、静かに読み返していく。
彼が描いた世界を、誰よりも理解しているのは自分だ。
彼の夢を、誰よりも応援しているのも自分だ。
そう信じたかった。
「……私は、諦めません」
栞は、穏やかに微笑んだ。
けれど、その瞳には、先ほどまでの迷いとは違う光が宿っていた。
「……だって、私は」
彼女は、画面の中の主人公を見つめた。
「……あなたの物語の、ヒロインですもの」
その言葉が、誰に向けられたものなのか。
小説の主人公なのか。
それとも、桜庭悠馬本人なのか。
もはや、栞自身にもわからなくなっていた。
ただ。
彼女は、もう一度、彼の物語を読み始めた。
今度は、幸せな結末を探すためではない。
自分が、どうすれば彼の隣にいられるのか。
その答えを見つけるために。
そして、夜は静かに更けていった。




