完璧な生徒会長は、ヒロインの別れを望まない
文化祭が、終わりに近づいていた。
廊下から聞こえてくる賑やかな声も、少しずつ落ち着き始めている。
窓の外では、夕日が校舎を茜色に染めていた。
そんな中。
俺、桜庭悠馬は、九条栞先輩と一緒に文芸部室でくつろいでいた。
「……いやあ、楽しかったですね!」
俺は、椅子に深く腰掛けながら、大きく伸びをした。
今日は、本当に楽しい一日だった。
チョコバナナ。
たこ焼き。
焼きそば。
綿あめ。
そして、お化け屋敷。
文化祭の定番イベントを、これでもかというほど満喫した。
しかも、そのすべてを九条先輩と一緒に回ったのである。
……くううっ!
何度思い返しても、最高の青春じゃないか!
「ふふっ。そうですね」
九条先輩は、向かいの椅子に腰掛け、穏やかに微笑んだ。
「私も、とても楽しかったです」
「本当ですか?」
「ええ。桜庭くんと一緒でしたから」
「……っ!」
どくんっ。
心臓が、大きく跳ねた。
……いやいやいや!
そういうことを、さらっと言わないでください!
心臓に悪いですから!
「……あ、ありがとうございます!」
俺は、慌てて頭を下げた。
そんな俺を見て、先輩は楽しそうに笑った。
「ふふっ。桜庭くんは、いつも反応が素直ですね」
「……そ、そうでしょうか?」
「ええ。とても素敵だと思います」
……ぐはっ!
また褒められた!
俺の心臓は、今日だけで何回跳ね上がれば気が済むのだろう。
俺は、照れ隠しに部室を見回した。
本棚には、大量のライトノベル。
机の上には、執筆用のノートパソコン。
窓際には、柔らかな夕日が差し込んでいる。
この場所も、九条先輩が用意してくれたものだ。
文芸部の設立。
部室の確保。
執筆環境の整備。
そのどれもが、俺にとって大きな支えになっていた。
「……それにしても、九条先輩」
「はい?」
「今日は、ありがとうございました」
「……まあ。どうしたんですか、急に?」
「いや、その……文化祭もそうですけど、文芸部のことも含めてです」
俺は、少し照れながら続けた。
「先輩のおかげで、俺、前よりずっと小説を書くのが楽しくなりました」
その言葉に、先輩は一瞬だけ目を見開いた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……それなら、よかったです」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
◇ ◇ ◇
「……ところで、桜庭くん」
「はい?」
先輩は、紅茶のカップを机に置いた。
「小説の続きは、思いつきましたか?」
「……っ!」
俺は、思わず背筋を伸ばした。
そうだった。
今日は、単に文化祭を楽しむだけではなかった。
スランプを抜け出すためのヒントを探す。
それも、俺にとって大切な目的だったのだ。
「……実はですね」
「……はい」
「新しい展開を、思いつきました!」
俺は、胸を張って答えた。
すると、先輩の顔がぱっと明るくなった。
「まあ! 本当ですか?」
「はい!」
「それは、素晴らしいですわ!」
先輩は、嬉しそうに身を乗り出した。
「……ぜひ、聞かせてください」
「もちろんです!」
俺は、興奮しながら語り始めた。
「まず、文化祭が終わったあと、主人公とヒロインの関係に大きな変化が起こるんです!」
「……変化?」
「はい!」
俺は、指を一本立てた。
「新しいヒロインを、登場させようと思います!」
「…………え?」
先輩の笑顔が、止まった。
……あれ?
「……もう一人、ですか?」
「はい! いわゆる、第二のヒロインですね!」
「……第二の、ヒロイン」
先輩は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
さっきまで輝いていた瞳が、少しだけ揺れている。
しかし、俺は気づかなかった。
いや、正確には。
自分のアイデアを説明することに夢中で、気に留めなかったのだ。
「実は、ずっと悩んでいたんです!」
俺は、さらに続けた。
「主人公とヒロインが付き合ったあと、どうやって物語を盛り上げるべきなのかって!」
「……はい」
「でも、今日の文化祭で思いついたんです!」
お化け屋敷で、先輩と一緒に驚いたこと。
模擬店で、楽しそうに笑い合ったこと。
夕暮れの校舎を、二人で歩いたこと。
そのすべてが、俺に新しい気づきを与えてくれた。
「恋愛って、二人だけの世界じゃないんですよね!」
「…………」
「友達もいるし、家族もいる。夢だってあります!」
俺は、拳を握りしめた。
「だから、主人公とヒロインが付き合ったからって、そこで物語が終わるわけじゃないんです!」
そう。
俺が書きたいのは、単に恋人同士になるまでの物語ではない。
その先の人生だ。
恋人になっても、人は悩む。
迷う。
時には、間違える。
それでも、自分の幸せを探していく。
そんな物語を書きたい。
「……そこで、新しいヒロインの登場です!」
俺は、満面の笑みを浮かべた。
「その子にも、その子なりの夢や想いがあるんです!」
「……そう、ですか」
「はい! そして、その子の登場をきっかけに、主人公と最初のヒロインの関係が少しずつ変わっていくんです!」
先輩は、黙って俺を見つめていた。
「……変わる、というのは?」
「えっとですね……」
俺は、少し考えてから答えた。
「一度、二人を別れさせようと思っています!」
「…………っ!」
その瞬間。
先輩の手が、ぴくりと動いた。
カチャン。
カップが、受け皿に小さな音を立てて触れた。
「……別れ、ですか?」
「はい!」
俺は、力強く頷いた。
「もちろん、ただ別れるだけじゃありません!」
ここが、今回の展開で一番大切なところだ。
「二人が別々の道を歩くことで、お互いの大切さに気づくんです!」
「…………」
「そして、いつかもう一度出会う!」
俺は、両手を広げた。
「再会したとき、二人は以前よりも成長している。だからこそ、もう一度、お互いを選び直せるんです!」
……どうだ!
これぞ、俺が考えた新しいラブコメ展開!
単なるすれ違いではない。
別れは、終わりではないのだ。
もう一度出会うための、始まり。
そういう物語にしたい。
「……それにですね」
俺は、少し声を落とした。
「ヒロインには、ヒロイン自身の人生があると思うんです」
その言葉を口にした瞬間。
先輩の表情が、わずかに変わった。
「……ヒロイン自身の、人生?」
「はい」
俺は、頷いた。
「主人公を好きになることだけが、ヒロインの幸せじゃないと思うんです」
誰かを好きになる。
誰かを支える。
それは、きっと素敵なことだ。
けれど。
その人自身の夢や、やりたいことだってあるはずだ。
「……だから、ヒロインにも自分の道を選んでほしいんです」
俺は、真剣に続けた。
「主人公のために何かを諦めるんじゃなくて、自分が本当に幸せになれる道を見つけてほしい」
「…………」
「それで、最後にもう一度主人公を選ぶなら、それは本当の意味で幸せな結末だと思うんです!」
言い終えてから、俺は大きく息を吐いた。
……ふう。
我ながら、熱く語ってしまった。
でも、仕方ない。
俺にとって、小説はそれほど大切なものなのだ。
「……どうでしょうか、九条先輩?」
俺は、期待を込めて尋ねた。
「……面白そうだと思いませんか?」
◇ ◇ ◇
「…………」
返事は、なかった。
九条先輩は、黙って机を見つめていた。
さっきまで浮かべていた微笑みは、消えている。
長い黒髪が、横顔を隠していた。
「……九条先輩?」
「…………」
「……あの、何か変でしたか?」
俺は、恐る恐る尋ねた。
もしかして、展開が気に入らなかったのだろうか。
いや、確かに。
ラブコメでせっかく付き合った二人を別れさせるなんて、賛否が分かれる展開だ。
読者によっては、嫌がるかもしれない。
特に、ずっと二人の恋愛を応援してきた人なら、なおさらだ。
「……あ、もちろん!」
俺は、慌てて付け加えた。
「まだ決定じゃありませんから! ちゃんと読者さんのことも考えて――」
「……桜庭くん」
「……はい?」
先輩が、静かに顔を上げた。
そこには、いつもの微笑みがあった。
けれど。
なぜだろう。
少しだけ、寂しそうに見えた。
「……一つ、聞いてもよろしいですか?」
「は、はい!」
「……そのヒロインは」
先輩は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「……主人公と別れても、幸せになれるのでしょうか?」
「……え?」
予想していなかった質問だった。
俺は、少し考えた。
「……それは、まだわかりません」
「…………」
「でも、幸せになってほしいと思っています」
俺は、正直に答えた。
「だって、俺が生み出した登場人物ですから」
主人公も。
ヒロインも。
新しく登場する女の子も。
みんな、幸せになってほしい。
たとえ、誰かと結ばれなかったとしても。
自分の人生を、好きになってほしい。
「……だから、ちゃんと考えて書きたいんです」
俺は、そう締めくくった。
すると。
「……そう、ですか」
先輩は、小さく呟いた。
そして、静かに立ち上がった。
「……九条先輩?」
「……ごめんなさい、桜庭くん」
先輩は、机の上のカップを整えた。
「急用を思い出しました」
「……え?」
「生徒会の仕事が、少し残っていたんです」
その声は、いつも通り穏やかだった。
けれど、どこか遠く感じた。
「……あ、そうなんですね」
「ええ」
先輩は、扉の前で足を止めた。
そして、一度だけ振り返った。
「……桜庭くん」
「はい?」
「……あなたは、本当に優しい人ですね」
「……え?」
突然の言葉に、俺は目を丸くした。
しかし、先輩はそれ以上何も言わなかった。
「……では、また学校で」
「……は、はい! お疲れさまです!」
俺が返事をすると、先輩は静かに部室を出ていった。
パタン。
扉が閉まる。
そして。
文芸部室には、俺一人だけが残された。
◇ ◇ ◇
「…………」
俺は、しばらく扉を見つめていた。
「……何だったんだ?」
さっきまで、あんなに楽しそうだったのに。
小説の続きを思いついたと話したときも、すごく喜んでくれていた。
それなのに。
新しいヒロインの話をした途端、表情が変わった。
「……もしかして」
俺は、頭を掻いた。
「……俺、何か変なこと言ったか?」
思い返してみる。
新しいヒロインを登場させる。
主人公と最初のヒロインを、一度別れさせる。
そして、もう一度出会わせる。
……うん。
確かに、賛否が分かれそうな展開だ。
「……アイドルAさんも、嫌がるかな」
俺は、ぽつりと呟いた。
あの人は、ずっと主人公とヒロインの恋愛を応援してくれていた。
もし、二人が別れる展開になったら、どう思うだろう。
悲しむかもしれない。
怒るかもしれない。
もう読んでくれなくなるかもしれない。
「……うーん」
俺は、椅子に座り直した。
そして、目の前の本棚を見つめる。
そこには、九条先輩が揃えてくれた大量のライトノベルが並んでいた。
恋愛もの。
青春もの。
学園もの。
どの作品にも、それぞれの結末がある。
結ばれる恋。
叶わない恋。
そして、別れを選ぶ恋。
俺は、ふと考えた。
「……幸せな結末って、何なんだろうな」
主人公とヒロインが結ばれれば、それで幸せなのだろうか。
たとえ、どちらかが自分の夢を諦めたとしても?
たとえ、誰かが無理をして笑っていたとしても?
「……違うよな」
俺は、小さく首を振った。
俺が書きたいのは、そんな物語じゃない。
誰か一人だけが幸せになる話でもない。
登場人物たちが、自分自身の人生を選び、その先で笑える物語。
そんなラブコメを書きたい。
「……よし」
俺は、机の上のノートパソコンを開いた。
真っ白な画面。
まだ、一文字も書かれていない新しい原稿。
けれど、不思議と怖くはなかった。
今日の文化祭で、俺は大切なことに気づいたのだから。
「……待ってろよ、俺の物語」
俺は、キーボードに指を置いた。
「……今度こそ、みんなを幸せにしてやるからな」
夕暮れの文芸部室に、カタカタと小さな音が響き始めた。
……そのとき。
俺は、まだ知らなかった。
俺が語った「ヒロイン自身の人生」という言葉が、九条先輩の心をどれほど揺さぶっていたのかを。
そして。
彼女が、俺の考えた結末を受け入れられずにいることを。
俺は、ただ信じていた。
物語の登場人物には、それぞれの幸せがあるのだと。
たとえ、その幸せが、主人公と結ばれることではなかったとしても。




