完璧な生徒会長は、作家先生のスランプを許さない
『いつも読んでくださってありがとうございます。次回の展開をじっくり考えたいため、しばらく更新をお休みします。楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませんが、必ず続きを書きますので、少しだけお待ちください』
九条栞は、スマートフォンの画面を見つめていた。
そこに表示されているのは、彼女が毎日欠かさず読んでいるWeb小説。
『俺の人生はラブコメ展開らしい』
作者は、桜。
そして、その正体は――桜庭悠馬。
「……更新、お休み?」
栞は、小さく首を傾げた。
いつもなら、最新話を読み終えると、自然に笑顔になれる。
どれほど疲れていても、彼の物語を読むだけで心が温かくなる。
それが、彼女にとって何よりも大切な時間だった。
けれど、今日は違った。
「……どうしたのかしら」
画面をスクロールする。
もう一度、あとがきを読む。
そして、もう一度。
何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。
しばらく、更新を休む。
たったそれだけのことだった。
作家が休むことなど、珍しくない。
むしろ、無理をして書き続けるより、休息を取るほうがいい場合もある。
栞にも、それは理解できた。
理解できた、はずだった。
「……でも」
彼女は、唇を小さく結んだ。
「……桜庭くんは、あんなに楽しそうだったのに」
先日のデートを思い出す。
映画を観て、カレーを食べて、街を歩いた。
彼は、何度も笑っていた。
小説のアイデアが浮かんだと、嬉しそうに話していた。
あの笑顔に、嘘はなかったはずだ。
それなのに。
どうして、続きを書けなくなってしまったのだろう。
◇ ◇ ◇
「……何か、困っているのかしら」
栞は、机の上に置かれた別の端末へ視線を向けた。
そこには、彼女だけが知る記録が残されていた。
桜庭悠馬の行動。
彼が口にした言葉。
そして、本人の知らないところで集められた情報。
栞は、しばらく迷ったあと、記録の一つを開いた。
彼の鞄に仕込んだ盗聴器から得られた音声だった。
もちろん、許可など取っていない。
それが、してはいけない行為だということも知っていた。
けれど、栞は自分に言い聞かせていた。
(……桜庭くんが困ったとき、すぐ助けられるように)
それは、彼女が自分自身に与えた理由だった。
再生すると、少年の声が聞こえてきた。
『……駄目だ! 何も思いつかない!』
栞の指が止まる。
『くそっ……文化祭のあと、どうすればいいんだよ!』
「……桜庭くん?」
『スランプだああああ!』
栞は、目を見開いた。
「……スランプ」
その言葉を、ゆっくりと繰り返す。
創作者なら、誰もが一度は経験する壁。
書きたいのに、書けない。
伝えたいものがあるのに、言葉にならない。
次の一文が、どうしても浮かんでこない。
栞は、その苦しさを想像した。
そして、胸が締めつけられるような気がした。
「……そんな」
彼が、苦しんでいる。
あんなに楽しそうに物語を語っていた人が。
誰かを笑顔にする小説を書きたいと、目を輝かせていた人が。
今、一人で悩んでいる。
「……どうして、私に相談してくれないのかしら」
思わず、そんな言葉が漏れた。
けれど、すぐに首を振る。
違う。
彼が悪いわけではない。
桜庭悠馬は、きっと優しいのだ。
自分の悩みで、誰かを困らせたくないのだろう。
ならば。
「……私が、気づいてあげないと」
栞は、静かに立ち上がった。
◇ ◇ ◇
生徒会長として、九条栞は数え切れないほどの問題を解決してきた。
予算不足。
行事の準備。
部活動同士の対立。
教師と生徒の意見の食い違い。
どんな問題にも、原因がある。
原因を見つければ、解決策を考えられる。
彼女は、そう信じていた。
「……まずは、原因を考えましょう」
栞は、ノートを開いた。
桜庭悠馬が小説を書けなくなった理由。
一つ目。
執筆環境の問題。
文芸部には、必要な設備を揃えた。
パソコンも、資料も、参考になる小説も用意した。
しかし、それだけでは足りなかったのかもしれない。
「……本を読むだけでは、経験できないこともありますものね」
二つ目。
創作のための刺激が不足していること。
彼の小説には、実際に体験した出来事が反映されている。
相合傘。
放課後の部活動。
休日のデート。
そして、文化祭。
栞は、最新話を開いた。
そこには、恋人同士になった主人公とヒロインが、文化祭を楽しむ姿が描かれていた。
チョコバナナ。
たこ焼き。
お化け屋敷。
夕暮れの校舎。
どれも、ありふれた学園ラブコメのイベントだった。
しかし、栞には、その一つ一つが宝物のように思えた。
「……素敵」
彼女は、微笑んだ。
「……こんな文化祭を、過ごしてみたいですわ」
そこで、ふと気づく。
「……そうだわ」
来週には、学校の文化祭がある。
しかも、桜庭悠馬とは一緒に回る約束をしている。
ならば。
「……物語と同じ体験をすれば、きっと新しいアイデアが浮かぶはず」
栞の瞳が、輝いた。
彼が書けないのなら、書けるようになるまで支えてあげればいい。
彼が物語の続きを見つけられないのなら、そのきっかけを用意してあげればいい。
それは、とても簡単なことのように思えた。
◇ ◇ ◇
「……まずは、模擬店ですね」
栞は、文化祭の企画書を机に広げた。
各クラスの出店内容。
配置図。
当日の運営予定。
すべて、彼女が把握している情報だった。
チョコバナナ。
たこ焼き。
焼きそば。
綿あめ。
小説に登場した模擬店を、順番に確認していく。
「……あら」
栞は、少しだけ眉を寄せた。
小説では、チョコバナナの次にたこ焼きを買っていた。
しかし、実際の配置では、二つの模擬店が離れている。
それでは、物語と同じ順番で回ることが難しい。
「……少し、不便ですね」
彼女は、配置図を見つめた。
もちろん、文化祭は全校生徒のための行事だ。
特定の一人に合わせて変更するものではない。
それは、生徒会長である栞自身が、誰よりも理解していることだった。
けれど。
「……ほんの少し、調整するだけですもの」
栞は、赤いペンを手に取った。
企画書に、小さな印をつける。
チョコバナナ。
たこ焼き。
焼きそば。
綿あめ。
そして、お化け屋敷。
彼が書いた順番で、すべて回れるように。
彼が思い描いた文化祭を、現実でも体験できるように。
「……ふふっ」
自然と笑みが漏れた。
桜庭悠馬は、きっと喜んでくれる。
彼が楽しそうに笑う姿が、目に浮かんだ。
その想像だけで、栞の胸は温かくなった。
「……次は、夕暮れの校舎ですね」
彼女は、最新話の最後を読み返した。
文化祭の終わり。
人の少ない廊下。
夕日が差し込む窓辺。
主人公とヒロインが、そっと手を握り合う。
そして、来年も一緒に回ろうと約束する。
「……来年も」
栞は、その言葉を繰り返した。
来年。
再来年。
卒業したあとも。
できることなら、ずっと。
「……私も、そう思ってもらえるかしら」
小さな呟きが、静かな部屋に溶けていく。
彼の物語では、主人公とヒロインは恋人同士になった。
けれど、現実の自分たちは違う。
彼は、まだ自分を先輩として見ている。
尊敬してくれている。
頼ってくれている。
しかし、それだけだ。
「……ふふっ」
栞は、少し寂しそうに笑った。
「……焦ってはいけませんね」
彼の夢が、何よりも大切なのだから。
まずは、彼がもう一度、楽しそうに小説を書けるようになること。
自分の気持ちは、そのあとでいい。
そう考えた。
そう考えた、はずだった。
◇ ◇ ◇
夜が更けていく。
机の上には、文化祭の資料が積み重なっていた。
栞は、その中から一枚の写真を取り出した。
桜庭悠馬の横顔。
放課後、彼が夢中になって小説を書いている姿を、本人に知らせず撮影したものだった。
「……桜庭くん」
栞は、写真を見つめた。
「……あなたは、本当に不思議な人ですね」
完璧な成績もない。
特別な肩書もない。
誰もが認める才能があるわけでもない。
それでも、彼は物語を書いている。
誰かを笑顔にしたいと願いながら。
何度失敗しても、夢を諦めずに。
そんな彼が、栞には眩しかった。
「……私は、あなたに恋をしています」
静かな声だった。
「そして、あなたの物語にも、恋をしているんです」
彼の笑顔が好きだった。
彼が書く文章が好きだった。
彼が夢を語るときの、真剣な眼差しが好きだった。
だからこそ。
彼が苦しんでいるのを、見過ごすことはできなかった。
「……大丈夫ですよ」
栞は、写真をそっと机に戻した。
「私が、何とかしますから」
文化祭を、最高の一日にしよう。
彼が思い描いた物語を、現実にしてあげよう。
そうすれば、きっと。
彼は、また続きを書けるようになる。
また、楽しそうに笑ってくれる。
「……待っていてくださいね、桜庭くん」
栞は、文化祭の配置図に視線を戻した。
その中央には、赤いペンで一本の線が引かれている。
彼女と悠馬が歩く予定の道筋。
まるで、小説の登場人物たちが進む物語のように。
「……あなたの物語は、まだ終わらせません」
栞は、穏やかに微笑んだ。
彼が望む未来を、作ってあげたい。
その願いは、確かに愛情から生まれたものだった。
けれど。
彼自身が、どんな未来を選びたいのか。
その答えを、栞はまだ聞いていなかった。
それでも、彼女のペンは止まらない。
九条栞にとって、愛する人の幸せとは、守るべき約束だった。
たとえ、その約束を交わしたのが、自分一人だけだったとしても。




