完璧な生徒会長が、底辺作家に恋をした日
時は、五月まで遡る。
桜の花が散り、新入生たちが少しずつ学校生活に慣れ始めたころ。
九条栞は、退屈していた。
成績優秀。
品行方正。
容姿端麗。
教師からの信頼も厚く、生徒たちからの支持も絶大。
彼女は、誰もが認める完璧な生徒会長だった。
少し前の入学式でも、壇上に立ち、新入生たちを歓迎した。
『皆さん、ご入学おめでとうございます。この学校で過ごす三年間が、かけがえのないものになることを願っています』
穏やかな微笑み。
聞き取りやすい声。
無駄のない所作。
そのすべてが完璧だった。
スピーチが終われば、会場は拍手に包まれる。
教師たちは満足そうに頷き、新入生たちは憧れの眼差しを向けた。
けれど。
彼女の心は、少しも動かなかった。
(……つまらないわ)
拍手も、称賛も、尊敬も。
すべて、予想していた通りだった。
九条栞にとって、学校という場所は、あまりにも簡単だった。
勉強すれば、満点が取れる。
努力すれば、結果が出る。
正しい提案をすれば、教師も生徒も賛成する。
生徒会長になってからは、なおさらだった。
行事の運営。
予算の配分。
校則に関する提案。
どれも、必要な情報を集め、最善の答えを示せばいい。
そうすれば、物事は驚くほど円滑に進んだ。
誰も彼女の判断を疑わない。
誰も彼女に逆らおうとしない。
もちろん、立花理央のように意見を述べてくれる友人もいる。
けれど、最後には決まってこう言われるのだ。
『やっぱり、会長の言う通りですね』
そのたびに、栞は微笑んだ。
ありがとう、と。
けれど、心の中では別のことを考えていた。
(……誰か、私の予想を裏切ってくれないかしら)
何もかも、思い通りになる。
それは、幸福なことなのだろう。
少なくとも、周囲の人間はそう信じていた。
しかし、栞にとっては違った。
結末のわかっている物語を、何度も読み返しているようなものだった。
次に誰が何を言うのか。
どんな結果になるのか。
どんな称賛が待っているのか。
すべて、想像できてしまう。
(……退屈ね)
その日も、彼女はいつも通り、生徒会室へ向かっていた。
◇ ◇ ◇
「……やべえっ!」
廊下を歩いていた栞の耳に、突然、少年の声が飛び込んできた。
「今日の更新、忘れてたあああ!」
栞は足を止めた。
(……何かしら?)
声が聞こえてきたのは、生徒会室の隣にある共用パソコン室だった。
扉が少し開いている。
中を覗くと、一人の男子生徒がパソコンの前に座っていた。
見覚えのある顔だった。
確か、一年生。
名前は――桜庭悠馬。
新入生名簿を確認したときに見かけた少年だ。
特別に成績が優れているわけでもない。
目立った活動実績があるわけでもない。
どこにでもいる、ごく普通の男子生徒。
そんな彼が、必死の形相でキーボードを叩いていた。
「くそっ! 時間がねえ! でも、読者を待たせるわけにはいかない!」
(……読者?)
栞は首を傾げた。
何かの課題だろうか。
それとも、動画の投稿でもしているのだろうか。
学校の共用パソコンを私的に使っているのなら、注意が必要かもしれない。
そう思いながら、栞は少し離れた場所から様子を見守った。
「よし! 誤字脱字チェック……いや、時間がない!」
少年は、画面に顔を近づけた。
「頼む! 俺のラブコメよ! 誰かに届けえええ!」
そして、勢いよくマウスをクリックする。
「……投稿完了!」
少年は、両手を突き上げた。
「やったぜ!」
栞は、思わず瞬きをした。
(……投稿?)
「さて、部活の見学に行かないと!」
少年は慌ただしく荷物をまとめた。
そして、パソコンからログアウトし、教室を飛び出していく。
栞には気づかなかったらしい。
廊下には、再び静けさが戻った。
「……何だったのかしら」
栞は、しばらく扉を見つめていた。
不思議な少年だった。
たかが何かを投稿するだけで、あれほど喜ぶなんて。
まるで、世界の運命でも左右するような騒ぎ方だった。
(……ラブコメ、と言っていたわね)
少しだけ、興味が湧いた。
栞は自分の端末で小説投稿サイトを開いた。
先ほど少年が口にしていた言葉を頼りに、作品を探してみる。
そして、ほどなくして見つけた。
『俺の人生はラブコメ展開らしい』
作者名は――。
『桜』
「……桜?」
栞は小さく呟いた。
桜庭悠馬。
そして、作者の名前は桜。
偶然かもしれない。
けれど、あの少年が投稿していた作品である可能性は高かった。
「……少しだけ、読んでみましょうか」
栞は、第一話を開いた。
◇ ◇ ◇
「…………」
十分後。
九条栞は、眉間にしわを寄せていた。
「……何なのかしら、この小説」
ひどかった。
まず、誤字脱字が多い。
文章のつながりも不自然。
同じ表現が何度も繰り返される。
主人公の心理描写は大げさで、ヒロインの行動にも説得力がない。
しかも、展開があまりにも都合よすぎた。
雨の日に傘を忘れれば、美少女が現れる。
困っていれば、誰かが助けてくれる。
主人公が落ち込めば、ヒロインが優しい言葉をかける。
「……こんな偶然、あるわけないでしょう」
栞は、思わず呟いた。
現実は、そんなに甘くない。
誰かを好きになることも。
誰かに好かれることも。
もっと複雑で、面倒なもののはずだ。
それなのに、この小説では、すべてが主人公に都合よく進んでいく。
「……ばかばかしい」
栞は、画面を閉じようとした。
しかし。
「…………」
指が止まった。
なぜだろう。
続きが気になる。
文章は拙い。
展開も安直。
完成度だけで判断するなら、決して優れた作品ではない。
それなのに。
(……次は、どうなるのかしら)
気づけば、彼女は次の話を開いていた。
主人公が、ヒロインと一緒に帰る。
くだらないことで言い争う。
些細なことで笑い合う。
そして、何でもない一日を、幸せそうに過ごす。
ただ、それだけの物語だった。
けれど。
(……楽しそう)
栞は、ふとそう思った。
登場人物たちは、決して完璧ではない。
失敗する。
勘違いする。
恥ずかしいことを言って、後悔する。
それでも、彼らは笑っていた。
思い通りにならない毎日を、心から楽しんでいた。
(……どうして?)
栞は、画面を見つめた。
(……どうして、こんなに楽しそうなの?)
自分には、理解できなかった。
彼らのように、何かに失敗した経験がないわけではない。
けれど、失敗は修正すべきものだと思っていた。
間違いは、正すべきものだと思っていた。
完璧であること。
それこそが、正しい生き方だと信じていた。
なのに。
この小説の登場人物たちは、不完全なまま幸せそうに笑っている。
「……ずるいわ」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
そして。
ぽたり。
小さな雫が、机に落ちた。
「……え?」
栞は、驚いて頬に触れた。
濡れていた。
自分の目から、涙が流れていたのだ。
「……どうして?」
悲しいわけではない。
苦しいわけでもない。
それなのに、涙が止まらなかった。
胸の奥が、温かい。
同時に、どうしようもなく切ない。
こんな感覚は、初めてだった。
「……私、泣いているの?」
栞は、震える指で画面をスクロールした。
そこには、物語の最後の一文が表示されていた。
『特別なことなんて何もない。でも、彼女と笑っていられる今日が、俺は好きだった。』
「…………」
栞は、何度もその文章を読み返した。
特別なことなんて、何もない。
ただ、好きな人と笑っているだけ。
それだけで、幸せになれる。
(……そんな世界が、あるのね)
彼女は、初めて知った。
完璧でなくても、幸せになれることを。
思い通りにならない出来事にも、価値があることを。
そして。
たった一つの物語が、人の心を変えてしまうことを。
◇ ◇ ◇
「……作者、桜」
栞は、もう一度その名前を呟いた。
桜。
桜庭悠馬。
先ほど、パソコンの前で大騒ぎしていた少年。
あの、どこにでもいる普通の男子生徒が。
こんな物語を書いたのだ。
「……ふふっ」
思わず、笑みが漏れた。
不思議だった。
成績も、能力も、立場も。
自分のほうが、ずっと優れているはずなのに。
あの少年は、自分にはできなかったことを、あっさりと成し遂げてしまった。
九条栞の心を、動かしたのだ。
「……桜庭悠馬くん」
名前を口にすると、胸が高鳴った。
どくん。
どくん。
心臓が、いつもより速く鼓動している。
(……何なのかしら、この気持ち)
もう一度、彼に会いたい。
彼の書く物語を、もっと読みたい。
彼が何を考え、何を感じているのか、知りたい。
そして。
(……続きを、書いてほしい)
栞は、作品の情報を確認した。
PV数は、ほとんど伸びていない。
感想も、まだ一件もついていなかった。
「……もったいないわ」
こんなに素敵な物語なのに。
誰にも読まれていないなんて。
栞は、コメント欄を開いた。
そして、少しだけ考えてから、文章を入力する。
『とても素敵なお話でしたわ。主人公とヒロインのやり取りに、心が温かくなりました。続きを楽しみにしています』
送信。
画面には、新しいコメントが表示された。
ユーザー名は――。
『アイドルA』
「……ふふっ」
栞は、嬉しそうに微笑んだ。
初めてだった。
誰かのために、こんなにも何かをしたいと思ったのは。
もっと読んでほしい。
もっと書いてほしい。
彼の夢を、応援したい。
そうだ。
彼が小説を書き続けられる環境を、作ってあげよう。
学校には、使われていない教室がある。
予算にも、調整できる余地がある。
部活動の新設だって、手続きを整えれば不可能ではない。
自分には、そのための権限がある。
「……文芸部、なんてどうかしら」
栞は、机の引き出しから一枚の用紙を取り出した。
新規部活動設立申請書。
そして、ペンを手に取る。
「……桜庭くん」
その声は、甘く、優しかった。
「あなたが夢を叶えられるように、私が応援してあげます」
彼が喜んでくれるなら。
彼が笑ってくれるなら。
自分にできることは、何でもしてあげたい。
それが、どれほど大変なことであっても。
どれほど時間がかかることであっても。
構わなかった。
だって。
初めて、自分の心を動かしてくれた人なのだから。
「……ふふっ」
栞は、幸せそうに微笑んだ。
「これから、よろしくお願いしますね。私の大好きな作家先生」
その日。
九条栞は、初めて恋を知った。
そして、同時に。
彼女は、まだ気づいていなかった。
誰かを幸せにしたいという願いが、いつか、その人の人生を自分の思い通りにしたいという願いへ変わってしまうかもしれないことに。
その小さな違いを、彼女はまだ知らなかった。




