証明6:悪魔に支配された世界!
その日。
アレック・ボーンは、ソファに腰を沈め、愛用のタバコ『サイレント・スモーク』をひたすらに吹かしていた。灰皿には既に無数の吸い殻が山を成している。フィレモ・キルゼオールは、窓の外を見つめながら、冷え切ったコーヒーの入ったマグカップを両手で包み込んでいた。
異変は、前触れもなく訪れた。
街中に設置された巨大なホログラム・モニター、そして探偵事務所の隅で埃を被っていた旧式のテレビが、一斉にノイズを発して同じ映像を映し出したのだ。
画面に現れたのは、純白のスーツに身を包んだ男。
倫理局代表、ロジク・キルゼオールだった。
彼の顔には、狂気と慈愛が入り混じった、あの吐き気を催すような微笑みが張り付いている。
「えー親愛なるウエストワールドの市民の皆様。本日は、この不完全な世界が、倫理の光、に、包まれる記念すべき日ですー」
ロジクの透き通るような声が、静まり返った街に響き渡る。フィレモが息を呑み、アレックはタバコを握りつぶした。
「えー、長きにわたり、我が国の治安を担ってきた警察組織。えー彼らは『自由』という名の無秩序を蔓延させ、力による支配、をー、肯定してきました。しかしー、それはもはや過去の遺物です。政府およびー、最高議会は、先ほど全会一致、でー、特別法案を可決しました。……ただ今をもってー、ウエストワールド警察は解体ー、全ての権限、人員、および資産はー、我々『倫理局』へと統合されます」
その言葉の意味を理解した瞬間、アレックの全身から血の気が引いた。
警察が、解体された。
武力と規則で倫理局の暴走を辛うじて食い止めていた、この街の最後の防波堤が、ついに、完全に崩れ去ったのだ。
「警察の内部にはー、非、倫理的な人体実験の産物や、人ならざる悪魔さえもが潜伏していたことがー、判明しています。彼らは、市民を脅かす病巣です。我々倫理局は、一切の、例外なく、倫理的でないものを取り締まりー、これを排除します。全ては、皆様の幸福な、『停滞』を、守るために」
画面の中の父親を見つめながら、フィレモはカタカタと震え出した。
「お父様……どうして……。こんなの……人を鎖で縛り付けて、何が平和よ!」
フィレモの叫びが空虚に響いたその直後。
探偵事務所のすりガラスのドアが、凄まじい音を立てて粉砕された。
「……シエル!」
アレックが弾かれたように立ち上がる。
吹き飛んだドアの残骸と共に床に倒れ込んだのは、銀髪の青年、シエル・スパイラルだった。常に完璧な身なりを保っていた彼のスーツは見る影もなく引き裂かれ、全身から夥しい量の血を流している。
「アレック……」
シエルは血を吐きながら、必死に手を伸ばした。アレックは駆け寄り、彼の体を抱き起こす。
「おい、しっかりしろ!誰にやられた!倫理局の連中か!?」
「警察本部は……完全に制圧された……。ロジクの……私兵と……それに……」
シエルの焦点の定まらない瞳が、点けっぱなしになっていたテレビの画面へと向けられた。アレックとフィレモも、つられるように画面を見る。
ロジクの演説は続いていた。そして、そのロジクの隣に、一人の女が歩み寄ってきた。
漆黒の、喪服のような豪奢なドレスを身に纏い、妖艶な笑みを浮かべる女。
「……マキナ……?」
アレックの口から、信じられないというようにその名前が漏れた。
倫理局の監査官、マキナ・バイタル。彼女がなぜ、ロジクの隣で、まるでこの世界の支配者のような顔をして笑っているのか。
「彼女は……」
シエルが掠れた声で紡いだ言葉を遮るように、今度は窓ガラスが外側から派手に砕け散った。
ガラスの雨と共に飛び込んできたのは、漆黒の羽と尻尾を生やした少女、ルキア・ブラックだった。彼女の悪魔としての服はボロボロに傷が入っている。彼女は床に転がると、荒い息を吐きながらアレックを見上げた。
「ルキア!お前まで……一体!いったい、何が起きてるんだ!」
アレックが叫ぶと、ルキアは悲痛な顔でテレビ画面のマキナを指差した。
「アレック、聞いて!彼女が……マキナ・バイタルが、私を殺そうとした……マキナは、『悪魔』よ!」
「なんだと……?」
「彼女はずっと、私が動くよりもずっと前から、倫理局の内部に潜り込んでいたの。悪魔の目的は、人間の魂を破滅させ、絶望を食らうこと。でも、マキナは気付いたのよ。人間を最も残酷に、最も徹底的に破滅させる方法は、暴力や悪意じゃない。『善意』と『倫理』だってことに!」
ルキアの言葉は、アレックの脳髄を直接殴りつけるような衝撃を持っていた。
「人間は、自分が『正しい』と信じた時、最も残酷になれる。マキナはロジクの狂気を増幅させ、倫理という名の絶対的な正義を振りかざして、人々がお互いを監視し、裁き合い、最終的には全員が身動きが取れなくなって窒息死する……そんな地獄を作ろうとしているのよ!」
画面の中のマキナが、まるでルキアの言葉が聞こえているかのように、カメラに向かってウインクをした。その瞳の奥には、底知れぬ漆黒の闇が広がっている。
「じゃあ、お前は……お前はなぜ追われている!お前も悪魔だろう!」
「私は……『悪』の悪魔だからよ!私は……人間に自由と善性を取り戻させたかった。私も、物好きよね……それが私のやり方だった。でも……それは悪魔の世界では、絶対に許されない大罪なの!悪魔が人間を救おうだなんて……人間に例えるなら、『私は人間を滅ぼします』って笑顔で宣言するようなものよ!逆なのよ!だからマキナは、裏切り者の私を殺すために、警察ごと全てを破壊したのよ!」
……例えるなら、戦時に自国の勝利に貢献した「善良」な外国人は、その外国からすれば、外患誘致をした「悪質」な売国者だ。
従って、ルキアは、直ちに殺されなければならない。
ルキアは両手で顔を覆い、震える声で叫んだ。
その時、部屋の隅で大人しくしていた巨体が動いた。
ガルドだった。彼はサイボーグの重い足取りで、アレックとルキアの前に進み出た。
「……難しい話はわからねえが、大体理解したぜ。つまり、あのテレビの中で偉そうに笑ってるマキナって女が、諸悪の根源ってわけだ」
ガルドは両拳を打ち合わせ、金属の摩擦音を響かせた。
「だがな!安心しな、アレック。代行の嬢ちゃんもだ。俺がここを食い止める。俺の体は特別製だ。マキナに調整してもらっ────
ガルドが親指を立てて笑いかけた、その瞬間だった。
ガルドの巨体が、不自然にのけぞり、絶叫を上げた。
彼の金属の関節の隙間から、異常な高熱の蒸気と、赤い警告光が漏れ出し始める。動力炉が、倫理局からの管理者権限によって強制的に臨界点へと暴走させられていたのだ。
「ガルド!どうした!」
アレックが駆け寄ろうとするが、ガルドは残された最後の気力で、アレックとルキアを太い腕で弾き飛ばした。
「来るなっ!……アレック、嬢ちゃん……フィレモ……」
ガルドの顔の装甲が熱で溶け落ち、その下から、涙に濡れた人間の瞳が覗いた。
「俺は……あのラーメ、ン屋の、親父に、もう一度、会い、たかっ、たな……。生きろ、お前ら……!」
それが、彼の最後の言葉だった。
閃光。
そして、鼓膜を突き破るような爆音。
ガルドの巨大な肉体は、探偵事務所の半分を巻き込んで、跡形もなく爆散した。
灼熱の爆風が部屋の中を吹き荒れ、書類が舞い、家具が木っ端微塵に砕け散る。壁には、飛び散ったオイルと、生々しい血の跡が幾何学模様のようにこびりついていた。
「ガルドォォォォォッ!!」
アレックの絶叫が、煙の立ち込める部屋に響く。
爆風の直撃は免れたものの、床に叩きつけられたアレックは、耳鳴りと全身の激痛で身動きが取れなかった。
「……アレック……」
不意に、微かな声が彼の耳に届いた。
振り向くと、そこにはシエルがいた。爆発の衝撃でさらに致命的な傷を負い、彼の下半身は瓦礫の下敷きになっていた。その目は既に光を失いかけている。
「シエル!死ぬな、おい!今助けてやる!」
アレックが這いずって近寄ろうとするが、シエルは静かに首を横に振った。
「いいんだ……アレック。僕は、倫理、に、縛ら、て……最後、で、何も、でな……」
シエルの口から、ゴボリと大量の血が溢れ出した。
彼は最後の力を振り絞り、血に染まった手をアレックの頬に伸ばした。
「……あとは、頼ん……」
その手が力なく床に落ちる。
シエル・スパイラル。規則と倫理の狭間で苦悩し続けた銀髪の青年は、二度と動かなくなった。
「あ……ああ……」
アレックは、放心したようにその場にへたり込んだ。
親友の死。昨日まで笑い合っていたガルドの喪失。全てが、一瞬にして奪い去られた。彼の手の中には、もう何も残されていなかった。
部屋の隅では、フィレモが両手で顔を覆い、泣き叫んでいた。
自分の父親が狂気に呑まれ、自分の恩人が悪魔であり、自分の友達が目の前で肉片に変わったのだ。彼女の心は、とうの昔に限界を超えて砕け散っていた。
そして、ルキアは。
傷だらけの悪魔の少女は、瓦礫の山の中で震えながら立ち尽くし、ただテレビの画面を見つめていた。
画面の中では、ロジクとマキナが、狂気に満ちた新世界の幕開けを祝福して微笑み合っている。
ルキアは、悪魔である自分自身よりも遥かに深く、底知れぬ闇を見た。
善意を盾にして他者を踏みにじる、計り知れない悪意。自分がどんなに規則で縛ろうとも、結局は、倫理という名の麻薬に溺れ、自ら破滅の道を選んでいく人間の業の深さ。
そう。
生きるためにも、死ぬためにも、楽しむためにも、悲しむためにも。
敵のためにも、味方のためにも、自腹を切ってでも、他者に加害しないと気が済まないのが────
「人間!?……これが、私が愛した人間たちの、本当の……姿なの……?」
ルキアの絶望の呟きは、遠くから聞こえ始めた倫理局のサイレンの音にかき消されていった。




