証明1:探偵事務所へようこそ!
新暦150年。ウエストワールド。
空は、果てしなく重く、低く、冷たく……街を押し潰していた。
かつてこの街の路地裏を満たしていた喧騒、人々の感情のぶつかり合い、心からの喜びの笑い声は、もはや、どこを探しても見当たらない。
ただ、規則正しく回る巨大な歯車の駆動音と、感情を抜け落とした無機質な足音だけが、淀みの世界で虚しく響き渡るばかりだった。
劇的な変革は、静かに、しかし、決定的な暴力性をもって完了していた。
警察、病院、裁判所、そして国会。
国家という枠組みを形成し、秩序を維持し、人々の生命と権利を守るはずだったあらゆる巨大な機関は、ついに、たった一つの巨大な怪物によって完全に呑み込まれ、消化され、その一部として組み込まれたのである。
その怪物の名は、倫理局。
かつては道徳と秩序の維持を目的とする一行政組織に過ぎなかったそれは、今や、ウエストワールドの全てを統べる絶対的な神となった。三権分立などという概念は過去の遺物となり、結果として、法律が倫理を規定するのではなく、倫理局が定める狂った倫理の前に、すべての法律が跪き、絶対的に従わせられる形となったのだ。
それでは、全てが倫理局の支配下に入ったウエストワールドは、暴力と略奪が横行する混沌とした無法地帯に陥ったのか。
その通りである。だが、『全く違った』。
暴動は一度も起きていない。ボーン探偵事務所が武装した暴徒に襲撃されることもなかったし、夜の闇に紛れて犯罪者が跳梁跋扈することもなかった。
それは、当たり前のことであった。
なぜなら、この街の市民の誰もが、倫理局の掲げる「倫理」を狂信的なまでに信仰し、いかなる規則も完璧に遵法する善良な市民へと変貌を遂げていたからだ。
誰もが他者を思いやり、誰もが規則を守り、誰もがやさしい。
しかし、その愛と正義に満ち溢れたウエストワールドの日常は、血の海よりも恐ろしい、究極的な灰色の悪夢そのものであった。
ある日の午後、キャピタルシティの交差点で交通事故が起きた。一台のスピードを出したトラックが、横断歩道を渡り遅れた一人の男を撥ね飛ばしたのだ。鈍い衝突音と共に、男は宙を舞い、冷たいアスファルトの上に叩きつけられた。男は足を骨折し、頭から血を流しながら、通りの向こう側で苦痛に顔を歪めて倒れていた。彼は懸命に手を伸ばし、助けを求めて声を振り絞った。
「助けて……誰か、手を貸してくれ……」
通りのこちら側には、数十人の「善良」な市民が立っていた。彼らは皆、倒れて血を流す男をじっと見つめている。しかし、誰一人として男のもとへ駆け寄ろうとはしなかった。
なぜか。
その交差点の信号機は、一度赤になると一向に青にならないことで極めて有名な場所だったからだ。市民の目の前には、鮮やかな赤信号が点灯している。
「赤信号では決して道路を横断してはならない」。
それは交通規則であり、同時に、規則を破ることは他者の安全を脅かす非倫理的な行為であると規定されていた。通りのこちら側の市民たちは、善良すぎるがゆえに、規則正しく青信号になるのをじっと待ち続けた。誰も彼を助けに行かない。
倫理を守るために、目の前の命を見殺しにする。
その間にも、交差点には次々と車が走ってくる。トラックに撥ねられて動けない男は、車道の中央に横たわったままだ。一台の乗用車が猛スピードで近づいてきた。運転手は前方に倒れている男に気づいていたが、ブレーキを踏むことなく、そのまま男の体の上を通過した。鈍い音と、男の絶叫が響く。しかし、乗用車は止まることなく走り去った。
さらに次の車が。
また次の車が。
また次の車が。
また次の車が。
また、次の、車が!
倒れた男の肉体を、しつこく、無慈悲に踏み潰していく。
なぜ、車は止まらないのか。
なぜ、彼らは平然と人を轢き殺していくのか。
それは、ウエストワールドの法律が、倫理局の解釈によって異常な形に歪められていたからだ。新たな法解釈によれば、「最初に歩行者を撥ねた者のみが、交通事故の全責任と罪を背負う」とされていた。
つまり。
すでに倒れている人間は「道路上の障害物」であり、後続の車がその障害物を轢いたとしても、彼らには一切の罪は発生しないのだ。法律で罰せられない以上、彼らの行為は合法であり、合法である以上、それは倫理に反しない。急ブレーキを踏んで後続車に迷惑をかけることの方が、よほど、非倫理的である。
皆が規則正しく、完璧に倫理と法に従っているうちに、車道に倒れていた男は何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も重いタイヤで轢かれ、骨は砕け、肉は潰れ、最終的には元の形を全く留めない、道路にこびりついたただの巨大な赤いシミへと変わっていった。信号がようやく青に変わると、善良な市民たちはその赤いシミを踏まないように、しっかりと丁寧に避けながら、何事もなかったかのように横断歩道を渡っていった。誰も涙を流さず、誰も怒らない。これが、彼らの正義の正体だった。
またあるときは、街の市場から一切のパンが姿を消すという事態が起きた。
原因は明らかだった。
一人の巨大な資本家が、莫大な資金に物を言わせて、ウエストワールド中のパン工場から全てのパンを買い占めたのだ。そして彼は、買い占めたパンの半分以上を、まだ食べられるにもかかわらず、巨大な焼却炉に放り込んで全て捨ててしまった。街の人々は飢えに苦しんだ。子供たちは泣き叫び、労働者は腹を空かせて倒れた。
そうして数日が経過した後、唐突にその資本家が広場に現れ、残りのパンを山積みにして売り出した。ただし、その価格は通常の1000倍以上という、極めて高額なものだった。
買い占めからの、高額転売である。
しかし、驚くべきことに、飢えに苦しんでいた市民の中で、誰一人としてこの資本家に異を唱える者はいなかった。暴動を起こすことも、抗議の声を上げることもなかった。
なぜなら。
ウエストワールドの法律には、「一個人が特定の物品を買い占めてはならない」という条文が存在しなかったからだ。さらに、倫理局が定めた絶対的なスローガンの中に「貧しき者には、富める者が自らの財を分け与えよ」というものがあった。資本家は広場の演説台に立ち、涙ながらにこう語った。
「私は、飢えに苦しむ皆様の姿を見て心が痛みました。だからこそ、私が持っている貴重なパンを、皆様に提供することにしたのです。これは私の愛であり、倫理的な義務です。」
法律上、「高額転売をしてはならない」という禁止事項はない。自由競争と自由価格という、資本主義の原則に従っているだけだ。資本家は合法的にパンを販売し、倫理局のスローガンに従って貧しい人々に食料を「分け与える」という善行を行っている。市民たちはその論理に完全に納得した。彼らは全財産を投げ打って、腐りかけたり、あるいはカチカチになったパンを買い求めながら、資本家に向かって涙を流して感謝の言葉を述べ、割れんばかりの称賛の拍手を送ったのだ。搾取されているという事実すら、倫理という名の甘い毒によって完全に麻痺させられていた。
人々の狂気は、日常の些細なコミュニケーションにまで深く浸透していた。ある日を境に、人々は街角で容姿の劣る者を見かけると、笑顔で歩み寄り、こう声をかけるようになった。
「おはようございます。あなたは本当に潰れたモグラのような、醜い顔をしていますね。何も考えていないようなつぶらな瞳が、幼さゆえの無知と、無知ゆえの加害性を表していますね」
言われた方も、怒るどころか笑顔で返す。
「ご指摘ありがとうございます。私の顔は確かに醜いですね。私の醜さは、他者への妬みと薄汚い性欲が、皮膚の下からモリモリと這い出してきた結果です」
かつてであれば、暴言や名誉毀損として諍いになるはずのやり取りが、極めて友好的に行われているのだ。理由は簡単である。迷惑防止条例の中に、「相手の外見に関する客観的な事実を述べてはいけない」という明確な一文が存在しなかったからだ。倫理局の新たな教えによれば、「真実を隠蔽し、嘘をつくことこそが最も非倫理的な行為である。事実をありのままに伝えることこそが、相手に対する真の誠意と愛である」とされていた。
したがって、客観的に見て容姿が整っていない相手に対して「醜い」と告げることは、嘘偽りのない事実の陳述であり、極めて誠実で倫理的な親切な行為であるとされたのだ。
法解釈はどこまでも恣意的であり、人間の尊厳を土足で踏みにじる極めて悪意の塊のようなものであった。だが、彼らにとっては、それこそが紛れもなく輝かしい正義であった。傷つく者がいても、それは、事実を受け入れられないその者の未熟さのせいだとされた。
「ルール上、正しければ、何をしてもいい」
「事実や、正論なら、何を言ってもいい」
そして、この灰色の絶望を象徴する最大の事件が起きた。倫理局の絶対的な代表であったはずのロジク・キルゼオールが、自らの執務室で死亡したのだ。死因は、猛毒の劇薬、ヴェリタニウムの服用であった。彼の机の上には空になった小瓶が転がっており、ロジクの遺体は苦痛に歪むことすらなく、ただ静かに息絶えていた。
それは、案の定……倫理局の裏で暗躍する真の悪魔、マキナ・バイタルによる巧妙な殺人であった。
だが。
警察の捜査権限すら吸収した倫理局の内部調査において、マキナが罪に問われることは、一切なかった。なぜならば、彼女はロジクを脅迫したわけでも、無理やり毒を飲ませたわけでもなかったからだ。
事件の真相は、背筋が凍るほど完璧に倫理的なものであった。マキナはロジクの執務室を訪れ、彼の健康状態を気遣う素振りを見せながら、一つの小瓶を差し出した。彼女は決して、それが「ヴェリタニウム」という名前の猛毒であるとは一言も口にしなかった。ヴェリタニウムを飲めば確実に死に至るということは、小学生でも知っている常識だ。だから彼女は、その名前を伏せた。
その代わり、マキナは極めて論理的で、丁寧で、倫理的な言葉遣いで、その液体の成分について説明を行った。複雑怪奇な魔導化学式を羅列し、液体の内に秘められた精密な魔導量の数値を正確に読み上げ、魔導分子配置がいかに構築されているかを……一切の嘘も交えずに詳細に語ったのだ。
「代表。こちらの液体は、このような魔導化学式と魔導分子配置を持っております。これを体内に摂取することで、あなたの魂は肉体の軛から解放され、より高次の健康と永遠の平穏を得る『かも』しれません。」
マキナの説明は、法的に見て一切の瑕疵がない、完璧な成分開示であった。
嘘は一つもついていない。
しかし。
高度な魔導理学者や専門の化学者でもなければ、いきなり難解な魔導化学式の羅列を聞いただけで、それがヴェリタニウムのことであると理解できるわけがない。
忙しい政治家であるロジクが、学生時代に学んだかもしれない化学式など覚えているはずもなかった。
しかし、説明は確実に行われた。
ロジクはその難解な説明を聞き、マキナの「健康のためになるかもしれない」という善意の提案を信じ、自らの自由意志で、完全に合意した上でその液体を飲み干したのだ。説明義務は果たされており、本人の同意もある。
したがって、マキナの行為は単なる健康食品の勧めに過ぎず、ロジクの死は自己責任による悲遇な事故として処理された。マキナは一切手を汚すことなく、善意と規則という刃を使って、最大の邪魔者を、暇つぶしで、完全に、合法的に、排除したのである。
善意、倫理、規則。
それらの美しい言葉に縛られ、人々は自らの首を真綿で絞め合う静かな狂気の世界に沈んでいった。それはまさに、誰も血を流さないまま魂だけが殺し合う「各々による愛の内戦」とも呼ぶべき恐ろしい事態であった。
では、この常軌を逸したウエストワールドの惨状は、他国からどのように見られていたのか。隣国からの介入や、国際的な非難の声は上がらなかったのか。
いや、他国がこの異常事態を見ることは、物理的にも魔術的にも、不可能であった。なぜなら、悪魔であるマキナが放った極めて強力な呪いが、ウエストワールドの国境全体を厚いベールのように覆い隠していたからだ。外の世界から見れば、ウエストワールドは以前と何一つ変わらない、平和で勤勉な歯車の街のままだった。通信は正常を装い、外交官たちは操作された偽の映像を見せられ続けている。マキナの呪いによって、他国からこの世界の惨状は一切認識できないのだ。ウエストワールドは、完全に密室の巨大な牢獄と化していた。
そして、この分厚い雲に覆われたウエストワールドの中で、マキナの「善意の悪意」という恐ろしい呪いが効いていないのは、おそらく……たった三人だけであった。
一人目は、自らも悪魔であるからこそ、同族の呪いを弾き返すことができるルキア・ブラック。
二人目は、そのルキアが心の底から愛し、彼女の魔力によって無意識に守られている探偵、アレック・ボーン。
そして三人目は、アレックが命に代えても守り抜くという強烈な使命感を抱いているからこそ、ルキアもまた全力で守護の結界を張っている少女、フィレモ・キルゼオール。
広大な街の中で、正気を保っているのはこの小さな探偵事務所に集う三人だけのように見えた。
部屋の片隅に置かれた古いラジオからは、ノイズ混じりの音声でマキナによる定時放送が絶え間なく流れている。
「市民の皆様、今日も倫理的な一日を。規則を守り、互いを愛し、真実のみを語りましょう。私たちの歩みは、絶対的な正しさの中にあります。」
マキナの甘く冷酷な声が響く。それは「停滞」でもなく、「進歩」でもない。善意という名の仮面を被った悪意による破滅、つまり、人間性そのものの絶望的な「後退」を意味していた。ラジオの音声を聞きながら、探偵事務所の中には重い沈黙が落ちていた。
キッチンのコンロから、お湯の沸く音が聞こえてきた。コーヒーは淹れ終わった。
ルキアとフィレモのカップには、たっぷりの砂糖とミルクが注がれた、甘いミルクコーヒーが用意されている。絶望の世界にあっても、彼女たちの温もりだけは失われていなかった。
一方で、アレックは自分のマグカップに、柄にもなくでたらめに混ぜ合わせた数種類の豆を挽き、分量も温度もてきとうなまま淹れた、真っ黒なコーヒーを注いだ。彼は「めちゃくちゃ・ブレンド」のそれを口に運び、あまりの不味さと強烈な苦味に吹き出しそうになった。顔をしかめ、喉の奥が焼けるような感覚に襲われる。
「……不味いな。最高に不味い!……だが」
だが、これでいいのだ!
この、痺れるほどの苦味、常識無視のでたらめな味こそが、完全に「規則正しく」狂ってしまったこの世界に対する、ささやかな抵抗なのだ!
倫理という名の甘い猛毒は、この苦い現実と、痛みを伴う真実で、打ち砕いていかなければならない!
「さあ……作戦会議と行こうぜ。お嬢ちゃんたち」
アレック・ボーンが不味いコーヒーを飲み干し、口元に不敵な笑みを浮かべると、フィレモ・キルゼオールは涙の跡が残る顔を上げて力強く頷き……ルキア・ブラックは漆黒の羽を小さく揺らして微笑んだ。




