証明3:消えた夫を探せ!
ある朝、ボーン探偵事務所のドアが、カランカランと小気味よい音を立てて開いた。
「いらっしゃいませーっ! ボーン探偵事務所へようこそ!」
フィレモの元気な声が、まだ寝ぼけ眼だったアレックの耳を叩く。現れたのは、息を呑むほどに美しい猫獣人の女性だった。しなやかな肢体、艶やかな黒い毛並み、そして知性を湛えた琥珀色の瞳。彼女はウエストワールドの街並みには少しばかり不釣り合いな、洗練された絹のドレスを身に纏っていた。
「……猫獣人の奥様か。朝から眼福だが、うちはコーヒー1杯で粘る喫茶店じゃないぜ」
アレックはトレンチコートのポケットに手を突っ込み、椅子に深くふんぞり返りながら笑った。
「わかっております、探偵さん。……主人が、蒸発したのです。人間の女に入れ込んで、家のお金も、思い出も、全て放り出して」
彼女の名前はミアナといった。彼女の話によれば、夫である人間の男性とは、かつてウエストワールドの辺境で共に汗を流して事業を立ち上げた仲なのだという。だが、ある日を境に彼は家に帰らなくなり、繁華街の酒場で「人間の女」と密会を繰り返しているという噂を耳にしたのだ。
「私は獣人です。……獣人は……この世界では、私たちは夜の街を彩る飾りか、あるいは差別の対象でしかない。昼間は石を投げられ、夜は酒の肴として憧れられる。主人は、きっと……そう、私に飽きたのでしょう。獣人の妻よりも、同じ人間の、柔らかな肌を持つ女性の方が……」
ミアナは悲しげに瞳を伏せた。フィレモは彼女の細い肩に手を置き、同情に満ちた声を出す。
「そんな……ひどいです!ミアナさん、こんなに綺麗で理知的なのに!差別ですよ!もしくは、偏見以上の何か、深い事情があるはずですよ!」
だが、アレックはミルクをたっぷりと入れたコーヒーを一口すすり、鼻で笑った。
「深い事情、ね。フィレモ、お前はまだ、人間……ってやつを美化しすぎている。ミアナさん、あんたは理知的で美しすぎるんだよ。そんなあんたを捨てる単純な男に、高尚な悩みなんてあるはずがない。むしろ、逆だ。深い事情なんて何一つない、救いようのないほど単純なロジックで、その旦那は動いているはずだぜ」
「アレックさん、冷たいですよ!ミアナさんはこんなに困っているのに!」
「いやいや、冷たいんじゃあない、現実的なのさ。さて、まずは情報の仕入れからだ」
アレックは愛車のキーを指先で回し、渋い顔をしながら立ち上がった。
次の日。
アレックとフィレモは、捜査のためにウエストワールドの喧騒へと繰り出した。
まず向かったのは、警察署の裏口だ。そこには、銀髪を風になびかせたシエルが待っていた。
「……アレック。君が依頼を受けたという男の足取りは、既に警察のデータベースから抽出してある。この酒場……『アイアン・ローズ』だ。この街で最も古い部類の、不衛生で、しかし真実が澱みのように溜まる場所だ」
シエルは完璧な動作でメモを差し出した。
「助かるぜ、シエル。相変わらず仕事が早いな」
「君のためなら、規則の解釈を広げることなど容易い。……フィレモ、君もアレックにしっかりついていくんだ。何かあれば、僕がすぐに駆けつける」
「ありがとうございます、シエルさん!行ってきますね!」
次に二人は、路地裏のジャンク屋を巡った。ウエストワールドのジャンク屋は情報のゴミ捨て場でもある。埃を被った真空管や古いラジオの山を掻き分け、アレックは馴染みの店主から「旦那」の最近の様子を聞き出した。
「ああ、あの男かい。最近は毎日、あそこの酒場で死んだ魚のような目をして飲んでるよ。隣には人間の女を侍らせてな。……全く、贅沢な悩みだ。あんな綺麗な猫獣人の女房がいながらよ」
有力な情報を得た二人は、ついに目的の酒場『アイアン・ローズ』にたどり着いた。
店内は昼間だというのに薄暗く、ジャズのレコードが少し音飛びしながら流れている。アレックはフィレモを入り口近くの影に待機させると、自分は酔客を装ってカウンターへ座った。ターゲットの男は、端の席で安酒のグラスを握りしめ、隣に座る派手な身なりの人間の女に、さみしい笑みを向けていた。
アレックは男の隣に滑り込み、バーテンダーにウイスキーを注文した。
「へえ、旦那。いい飲みっぷりだな。何かいいことでもあったのか?」
男は濁った瞳でアレックを振り返った。
「……いいこと?なに、笑わせるなよ。俺はただ、息を抜いているだけだ。家には完璧すぎて息が詰まる猫獣人の嫁がいる。外には俺を認めてくれる、優しい人間の女がいる。これ以上の幸せがあるか?」
アレックは男の言葉を聞き、ふっと溜息をついた。その会話は、あまりにも軽快で、あまりにも虚無に満ちていた。
「なるほどな。あんた、面白いロジックで動いてる。近い者には無関心をぶつけ、遠い者には偽善をぶつける。これは……人間の典型的な行動パターンだ」
「何だと……?」
「あんたは家に戻れば、ミアナさんの献身を当たり前の景色として無視する。だが、ここに来れば、昨日今日会ったばかりの、あんたの金にしか興味のない女たちに、慈愛の心を持って愛を語る。そうだろう?」
アレックの言葉に、男の顔が歪んだ。
「それは……彼女は俺を否定しないからだ!ミアナは俺の事業が傾いた時、論理的に解決策を提示してきた。俺を励まそうと必死だった。俺を、信じて、俺を、愛していたんだ。それが……俺には耐えられなかったんだ!完璧な彼女の隣にいると、自分が……なんて!無能な!クズだよ!……って思えてくるんだ!」
アレックはグラスを置いた。その光景に、ある一人の男の影が重なった。
「……ロジク、いや……あの男と同じだな」
「え……?」
「ある男がいた。そいつは、自国の子供や自分の娘には冷酷な暴力を振るいながら、しかし、遠い異国の子供たちのために、汗水垂らして慈善事業を行っていた。近い存在は停滞の象徴でしかないが、遠い存在は何も言ってこないから、便利な道具でしかない。つまりだ。あんたにとって、この酒場の女は、自分がマシな人間に思わせてくれるってだけなんだ。……本当は、自分の足で立ち上がるのが怖いだけ。……だろう?」
アレックがそう問いかけると、男はガタガタと震え出した。
「ところで。……反省は、しているのか?あんたは」
「……ああ、反省しているさ。毎日、この酒を飲むたびに、俺は自分の情けなさに吐き気がするんだ。でも、どうすればいいか……」
「反省はな、『ごめんなさい』という音を口から出すただのパフォーマンスじゃあない。反省ってのは、間違いに気がつき改善していく、進歩のことだぜ。……おい、フィレモ」
アレックが合図を送ると、フィレモに連れられてミアナが店内に入ってきた。
男は驚きのあまり椅子から転げ落ちた。
「ミアナ! なぜここに……」
「主様……」
ミアナの瞳に宿っていたのは、怒りではなく、深い悲しみと、変わらぬ愛情だった。
男の隣にいた酒場の女は、冷めた目でアレックを見た。
「あの、奥様、勘違いしないでくださいね。私、こんなシケた男には一ミリも興味ありませんよ。お酒を奢ってくれるっていうから、適当に話を合わせていただけです」
「……だそうだ。……旦那、あんたの『遠くの慈愛』は、向こうから見ればただの臨時収入だ」
男は膝をつき、ミアナの足元に縋り付いた。ミアナはしなやかな猫獣人の腕で、男の襟首を掴み、そのまま勢いよくビンタを見舞った。乾いた音が店内に響き渡る。
「……痛いか、旦那。それが生きてるってことだ。現状を肯定して逃げるのは、死んでるのと変わらねえぞ」
アレックが煙草に火をつけると、男は泣きながら叫んだ。
「ミアナ!すまない!俺、怖かったんだ……事業がうまくいかなくて、お前に合わせる顔がなくて……!でも、俺が本当に愛しているのは、お前だけなんだ!」
「わかっています。……さあ、帰りましょう。借金なら、また二人で働いて返せばいいだけです。主様、あなたは本当に愚かですが……私の選んだ方ですから」
ミアナは力強く男の腕を引き、酒場を後にした。その背中は、どんな人間の貴婦人よりも誇り高く、美しかった。
「……よかった。一件落着、ですね。アレックさん」
フィレモが晴れやかな顔でアレックを見上げる。
「ああ。全く、どいつもこいつも、近いから……近いからこそ、盲目になるんだ」
事務所に戻ったアレックは、約束通り、フィレモと自分のためにコーヒーを淹れ始めた。
「はい、お疲れさん。初仕事の成功を祝して」
フィレモは幸せそうに目を細めた。
倫理局が守ろうとした「動かない幸福」と、警察が求める「規則の中の自由」。そのどちらでもない、この騒がしくて、面倒で、けれど少しだけ温かい日常。
「平和を守る、か。……柄じゃないがな」
アレックは窓の外に広がるウエストワールドの夜景を見つめた。




