証明2:翼の折れた白鳥!
初仕事の報酬は、わずかなクレストと、安物のフィルム二本分に収まった「真実」という名の虚しい記録だった。ウエストワールドの西日に照らされながら、アレック・ボーンは愛車のセダンを事務所の前に滑り込ませた。
「お疲れ様でした、アレックさん! いやあ、探偵って本当に走り回るんですね。私、足がもう棒みたいです」
助手席でフィレモが伸びをする。彼女の赤い瞳は、疲れよりも新しい生活への期待で輝いていた。アレックはトレンチコートの襟を正し、煙草を一本咥えようとして、そのまま指に挟んで笑った。
「走り回るのが探偵の仕事さ。エレベーターで昇り詰めるエリート様には拝めない景色が見られるだろう?さあて、戻って冷えたソーダでも飲もうじゃあないか」
二人が事務所の扉を開けると、そこには招かざる、しかし馴染み深い先客がいた。
「遅かったわね、アレック。待ちくたびれて、そこの棚のビスケット全部食べちゃったわよ」
作業着の胸元を大胆に開けたマキナ・バイタルが、アレックのデスクに足を投げ出して座っていた。その傍らでは、銀髪の青年シエル・スパイラルが、彫像のように完璧な直立不動で立っている。
「……マキナ、鍵を替えたのは昨日だぞ。いったいどうやって入った?」
「アレック、私の前でそんな野暮な質問をするの? この世に私の指先で開かない扉なんて存在しないわ。それより、やっぱりこの子、ここにいたのね」
マキナの視線がフィレモに注がれる。シエルもまた、無表情ながらも安堵の光を宿した瞳でフィレモを見つめていた。
「フィレモ。君が無事でよかった。……アレックのところに逃げ込んだのは、妥当な判断だと言える」
「シエルさん、マキナさん!えへへ、すいません、心配かけちゃって。でもアレックさん、すっごく優しいんですよ。コーヒーは無駄に長いけど!」
フィレモの明るい声に、重苦しかった空気は少しだけ和らぐ。しかし、マキナの顔に浮かんだ笑みは、すぐに影を帯びた。
「笑ってられるのも今のうちかもね、アレック。街の噂はもう持ちきりよ。警察代表代行のルキア・ブラック……あの生意気なガキが、本物の代表を消して、このウエストワールドを完全に掌握しようとしてるって」
「ルキアか。あの合理主義の塊みたいな少女がね」
アレックは背もたれの壊れかけた椅子に深く腰を下ろした。
「でも、あいつがこの街を乗っ取るってんなら、案外悪くない話かもしれないぜ。少なくとも、今の倫理局が守ろうとしてる『偽りの平和』よりは、いくらかマシな風が吹くはずだ」
「あら、ずいぶんな言い草ね。元エリート監査官様」
マキナが皮肉っぽく唇を尖らせたその時、ノックもなしにドアが静かに開いた。
軍服のような端正なジャケットの上に、純白の白衣を羽織った少女が、そこに立っていた。黒縁メガネの奥で、怜悧な瞳が室内を一瞥する。
警察代表代行、ルキア・ブラック。
若干12歳にしてウエストワールドの治安を司る、異端の天才少女である。
「……賑やかだな。不衛生な事務所だが、人の密度だけは基準値を超えているようだ」
マキナが瞬時に警戒の姿勢をとるが、アレックは煙草を指で弄んだまま動かない。
「これはこれは、代表代行様じゃないか。わざわざこんな掃き溜めに、何の御用だ?」
ルキアはアレックの皮肉を無視し、真っ直ぐに彼女を見据えた。
「アレック・ボーン。昨日の君の行動……あれは論理的観点から言えば極めて非効率な愚行だ。だが……一人の人間としては、正しかったと私は評価している」
ルキアの視線が、アレックの背後に隠れるように立っていたフィレモへ移動した。その瞳には、子供とは思えない深い洞察と、わずかな憐憫が混じっていた。
「フィレモ・キルゼオール。……安心したまえ。警察は倫理局のような非科学的な拘束はしない」
「は、はい……ありがとうございます」
フィレモが小さく頭を下げると、ルキアは再びアレックに向き直った。
「アレック、単刀直入に言おう。探偵などという不安定な職は辞めて、警察に来い。君の能力は、停滞した思想を監視するためではなく、秩序ある自由を構築するために使われるべきだ」
ルキアの言葉は論理的だったが、その語り口には、隠しようのない「熱」がこもっていた。それは明らかに……アレック・ボーンという男個人に対する、強烈な憧憬と好意の表れだった。
「おやおやあ?」
マキナがニヤニヤしながらルキアの顔を覗き込んだ。
「ルキア君、もしかしてアレックに惚れてるの?まだ子供なのに、なかなか、渋い男の趣味があるじゃない」
「なっ……!不敬な。私はただ、彼の卓越した現場判断能力と、不屈の精神力を組織に還元すべきだと言っているだけで……」
ルキアの頬が、わずかに朱に染まる。それを見たアレックは、声を上げて笑った。
「ありがたいお誘いだが、断るぜ、代行様。俺は規則に縛られるのは、もう御免だね。あんたのその熱烈なプロポーズは、将来もっと素敵な男が現れるまで取っておきな」
「プロポーズではないと言っている!……まあいい。君の頑固さはデータ通りだ」
ルキアは憤慨したようにメガネを直したが、その目はどこか満足げでもあった。
フィレモは面白くなさそうに頬を膨らませ、シエルは深いため息をついて立ち上がった。
「アレック。……もし、君の手に余る事態が起きたら、いつでも呼んでくれ。僕はまだ、倫理局の人間だが……君の味方だ」
シエルはそれだけ言い残すと、静かに事務所を去った。続いてマキナも、アレックの肩を叩いて外へ向かう。
「私も行くわ。アレック、何かあったらいつでも連絡しなさいよ?」
残されたルキアは、ドアの取っ手を掴んだまま、最後にもう一度アレックを振り返った。
「アレック。覚えておけ。思想で人を縛る倫理局は、いずれ自壊する。我々警察は、規則という名の境界線の中で、人々を自由に泳がせる。それこそが、正しい進化への道だ。……君が必要になったら、いつでも頼って構わない。私は、君の拒絶すらも予測の範囲内だ」
少女は、芝居がかった仕草で去っていった。
「……ったく。あんな子供に惚れられるなんて、アレックさんも罪な男ですねー」
フィレモが白けた視線を向ける。アレックは苦笑いしながら、ようやく煙草に火をつけた。
「よせよ、フィレモ。俺はただの、仕事のない探偵さ。ほら、少し外の空気を吸ってくる。ルキアの香水の匂いが鼻についてかなわない」
アレックはフィレモを事務所に残し、夕闇に包まれ始めたバルコニーへと出た。紫煙が風に流される。彼の瞳は、暮れゆくウエストワールドの街並みを見つめながら、昨日の、あの忌まわしい記憶を呼び覚ましていた。
話を昨日に戻そう。
新暦150年。
ロジク・キルゼオールという男は、この国の神にも等しい存在だった。
彼の提唱する「現状肯定論」は、隣国から飛び火した戦果を経験した民衆にとって唯一の福音であり、世界を停滞という名の平和で包み込んだ。彼は私財を投じて児童福祉施設を設立し、隣国の貧困層にまでその手を差し伸べる、慈愛の象徴だった。
アレックもまた、彼を信じていた。彼こそが、自分から娘を奪ったような悲劇を二度と起こさない、唯一の守護者だと信じて疑わなかった。
だが、あの日。
路地裏の影でアレックが見たのは、平和のシンボルの化けの皮が剥がれた、地獄の光景だった。
「ひっ……あああ……っ!」
細い、絹を引き裂くような悲鳴が、湿ったレンガの壁に反響していた。
そこには、純白のドレスを血に染めた少女が倒れていた。彼女の背中にある、まだ幼く柔らかい翼。それを、ロジクは、巨大な裁縫バサミで執拗に、まるで紙細工でも切り刻むような無造作さで、何度も、何度も切りつけていた。
「よしよし。そんなに泣かなくていい。これは必要な犠牲なんだ。君が飛ぼうとするから、痛みが生じる。飛ぶことを諦めれば、君は永遠に安全な籠の中で停滞して、私の愛を受けられるんだよ」
ロジクの顔には、聖者のような慈しみと、深淵のような狂気が同居していた。彼は切り裂いた羽をうっとりと眺め、その血のついた指先で少女の頬を撫でた。
「そう……停滞こそが、最高に美しいんだ、フィレモ……」
アレックは、自分の目が、信じられなかった。
ロジクは、実の娘を切り裂いて……遊んでいたのだ。
全身の血が逆流し、視界が真っ赤に染まる。だが、彼はまだ、理性の最後の糸で自分を繋ぎ止めていた。これは何かの間違いだ。夢だ。そう言い聞かせ、彼は逃げるようにその場を去り、その夜、ロジクの執務室に忍び込んだ。
そこで彼が見つけたのは、児童福祉という美名の裏で行われていた、大規模な人身売買の記録だった。
ロジクの流麗な署名が入った書類には、世界中の富裕層へ「嗜好品」として子供たちを送り出す計画が、冷徹な数字と共に記されていた。
「……探しているのは、これかな?」
背後から、静かな声がした。
振り向くと、そこにはロジクが立っていた。彼はアレックが書類を読んでいるのを見ても、動じるどころか、親しい友人に秘密を打ち明けるような、恍惚とした表情を浮かべた。
「アレック君。よしよし。君ならわかってくれると思っていたよ。停滞した世界にも、刺激が必要だ。そして、弱く未完成な子供たちが踏みにじられる姿ほど、この停滞した平和を際立たせるものはない。進歩の象徴である子供を生贄にして、我々はこの豊かな停滞を生きるべきなのだ」
「…………」
「……お前も、そうだろう?お前も、その内側に、強者でありたいと願う心と、自分の停滞を脅かすであろう子供をいじめ抜きたいという欲望を隠し持っているはずだ。私はそれを、倫理的に、正しい形で提供してあげよう」
ロジクが、アレックの肩に手を置こうとした。
その瞬間、アレックの右拳が、ロジクの顔面を粉砕した。
鈍い、骨の砕ける音。ロジクの体は紙屑のように吹き飛び、豪華な内装の壁に激突した。アレックは肩で息をしながら、懐から一枚の書面を取り出し、床に這いつくばる男の顔に叩きつけた。
「……汚ねえ手で俺に触るな。そして、二度とその口で倫理を語るんじゃねえ」
アレックの懐には、既に辞表が入っていた。
信じたくなかった。
間違いであってほしかった。
だが、最悪の事態を想定せずにはいられないのが、アレック・ボーンという男の悲しい性だったのだ。彼は、自分が最も尊敬していた男が、救いようのない怪物であることを、心のどこかで確信していたのだ。
話を現在に戻そう。
「……アレックさん?いつまで外にいるんですか。ミルクコーヒー、淹れましたよ!」
事務所の中からフィレモの声がした。アレックは深く息を吐き、冷え切った空気を肺に溜めてから、再び部屋の中へ戻った。
テーブルの上には、二つのマグカップが並んでいた。アレックが淹れる、乱雑な配合の、しかしこれでもかというほど大量の砂糖が投入された、甘すぎるミルクコーヒーだ。
「昨日のことは、もう話さなくていい。いいか、フィレモ。お前はもう、空を飛ぶ必要はない。……いや、飛びたくなったら、俺がこのオンボロ車でどこまでも連れて行ってやる」
アレックはミルクコーヒーを一口飲み、あまりの甘さに顔を顰めた。フィレモも、不器用そうにカップを両手で持ち、熱い液体を啜る。
「……甘い。でも、すっごく美味しいです。アレックさん」
フィレモの横顔は、夕闇の灯りに照らされて、かつてアレックが失った、もう一人の娘の面影を微かに宿していた。
倫理の名の下に人を鎖で繋ぐ倫理局。
規則の名の下に自由という名の闘争を強いる警察。
どちらが正しいのか、アレックにはまだわからない。だが、この甘すぎるコーヒーを飲み干すことができる程度の平和なら、命を懸けて守る価値はある。
「さあ、飲み終えたら明日の準備だ。明日はもっと、走り回る羽目になるかもしれないからな」
「はいっ!」
ウエストワールドの夜が更けていく。ボーン探偵事務所の窓からは、今日も変わらず、場違いなほど明るい笑い声が漏れていた。




