証明1:【美しければそれでいい】
「生きていれば楽しいことがある」という言葉は、加害者側の無責任な空虚な建前でしかない。これが最期の物語です。
絶望だけが真実。しかし、それでも。私は「プライド」を胸に「家(居場所)」を探し続ける。
いつか、『普通』の幸せと、『愛』を、世界に見出すために。この地獄の苦しみを、いつか誰かに理解されるために。
ボーン探偵事務所の昼下がりは、極上の香りと無能な静寂に包まれているべきだった。
最悪なことに、今日のこの時間は、そのどちらもが決定的に欠けていた。
「……いいか、旦那。ドリップ・コーヒーというものは、言うなれば……時限爆弾の解体作業なんだ」
アレック・ボーンは、年季の入った木製のカウンター越しに、窮屈そうに革張りのソファに座る初老の男へ向かって片目をウインクしてみせた。彼の右手には細い注ぎ口を持つ銅製のドリップポットが握られ、左手はネルドリップの布を神聖な儀式のように支えている。アレックの無精髭に覆われた口元には、この世の全ての悩みを笑い飛ばすような、どうしようもなく明るい笑みが張り付いていた。
「お湯の温度は八十二度。高すぎれば豆の雑味という名の悪魔が目を覚まし、低すぎれば香りが眠りこけたままになる。お湯を落とす太さは、そうだな、絹糸だ。ウエストワールドの裏路地で野良猫が歩くような、あの絶妙な足取りの細さで円を描く。ほら、見てみなよ旦那。コーヒーの粉がハンバーグみたいに膨らんできただろう?これが豆が息をしている証拠だ。ここが一番の正念場なんだ。ここで俺が少しでも気を抜けば、この一杯はただの泥水になり下がる」
初老の依頼人は、額に脂汗を浮かべながら、手元のくしゃくしゃになったハンカチを握りしめていた。彼はアレックのコーヒー講釈など一ミリも聞いていなかった。彼が抱えている深刻なトラブルは、今すぐにでもこのヨレヨレのトレンチコートを着た探偵に解決してもらわなければならない性質のものだったからだ。
「あの、探偵さん……私の話、聞いておられますか? その、妻が……」
「もちろん聞いてるさ! 奥さんが家を出て行って三日、残されていたのは一枚の口紅の跡がついたコースターだけ。なるほど。ミステリーとしては古典的だが、悪くない滑り出しだ。だがね、旦那、どんな悲劇も、まずは胃袋に温かいカフェインを流し込んでから語るべきだと思わないか?人生には順番ってものがある。今は俺の魂がこのブラジル産の豆と完全にシンクロしている時間なんだ。あと二十秒待ってくれ。最高の黒い雫をあんたの喉に……」
ジリリリリリリリリリリリリッ!
アレックの軽快なトークを、無神経で暴力的なベルの音が切り裂いた。事務所のデスクの上に鎮座している、黒光りするダイヤル式の固定電話だった。ウエストワールドでは通信技術は、魔法と同等か、それ以上に厳しい制限を受けているため、この時代遅れな重い黒電話こそが、外部と繋がる唯一にして最強のツールだった。
ジリリリリリリリリリリリリッ!
「おいおいおいおい、嘘だろ」
アレックの顔から余裕が消えかけた。だが、彼の持ち前の明るさは決して死なない。彼はポットを持つ手を小刻みに震わせながら、ソファで肩をビクつかせた依頼人と、けたたましく鳴り続ける黒電話を交互に見た。
「旦那、電話だ」
「は、はい……鳴っていますね」
「だがな。俺は今、奇跡の一滴を抽出するための最終段階に入っている。両手は塞がっているし、視線を逸らせば豆の膨らみが崩壊する。かといって、記念すべき開業初日の探偵事務所にかかってきた電話を無視するなんて、商売人としてあるまじき行為だ」
ジリリリリリリリリリリリリッ!
「なら、代わりに出ましょうか!?」
「依頼人に電話番をさせる探偵がどこにいる!俺のプライドが許さねえ!ちょっと待ってろ、今このポットを空中に放り投げて、落ちてくる間に受話器を取って、見事なキャッチを……いや無理だ、火傷する!くそっ、誰か!誰かこの暴れ電話を止めてくれ!」
アレックがポットを握りしめながら天を仰いだその瞬間だった。
バンッ!
事務所のすりガラスのはまったドアが、蹴り破られるような勢いで勢いよく開かれた。逆光を背負って立っていたのは、両手に茶色い紙袋を抱えた小柄なシルエットだった。
「もーっ、外まで電話の音、丸聞こえですよアレックさん!」
弾むような声と共に事務所に転がり込んできたのは、十七歳の少女、フィレモ・キルゼオールだった。真っ白な鳥獣人の彼女は、頭から生えた愛らしい飾り羽を揺らしながらデスクへと直行した。彼女の背中にある真っ白な翼の片方には、痛々しい包帯が巻かれており、それが彼女から空を飛ぶ自由を奪っていたが、彼女の赤い瞳にはそんな悲壮感は微塵もなかった。
「ちょっとそこどいてくださいねー」
フィレモは紙袋を抱えたまま、器用に肘を使って受話器を跳ね上げ、肩と耳の間にそれを挟み込んだ。それと同時に、怯える依頼人に向かって、太陽のような、けれどどこか「私なんかがすいませんね」とでも言いたげな、親しみやすい笑みを向けた。
「はいっ!こちらボーン探偵事務所です!ええ、ええ、浮気調査ですか?あー、そういうのはちょっと割増料金になっちゃうんですけど、いいですか?あ、はい、証拠写真のフィルム代とか色々あるんで……。あ、そこのソファのお客さん!緊張しないでくださいねー。うちのボスのコーヒー、無駄に時間はかかりますけど、味だけは本当に最高ですから!え?あ、電話のお客さんすいません、ちょっと身内に話しかけちゃって。へへっ、私みたいな小娘が電話番で不安になっちゃいました?大丈夫ですよ、仕事はきっちりやりますから!」
フィレモは電話の向こうの相手を巧みに宥めすかしながら、同時に目の前の依頼人の緊張まで解いてみせた。その流れるような対応を見て、アレックは安堵の息を長く吐き出し、再びコーヒーの抽出へと全神経を集中させた。
ポタッ、ポタッ、ツーーーー。
最後の一滴がサーバーに落ちきった。完璧だ。アレックは勝利のポーズを決めるようにポットを高く掲げると、カップにその黒い液体を注ぎ分けた。
「お待たせしたな、旦那。ボーン探偵事務所が提供する、世界で一番温かい慰めだ」
アレックはカップを依頼人の前のローテーブルへと滑らせた。依頼人は恐る恐るそのカップを両手で包み込み、一口すする。その途端、男の強張っていた顔の筋肉が、嘘のようにふっと緩んだ。
「……美味しい。こんなに落ち着く味のコーヒーは、初めてです」
「だろう?俺の淹れるコーヒーは、どんな荒んだ心にも効く特効薬なのさ。さて。電話の件も片付いたみたいだし、奥さんの口紅の色の話の続きを聞かせてもらおうか」
電話を切り終えたフィレモが、紙袋から焼きたてのバゲットを取り出しながら得意げに笑った。
「助かったぜ、フィレモ。お前がいなかったら、俺は熱湯を被りながら電話に出る羽目になってた」
「ふふーん、私みたいな家出少女でも、少しは役に立つでしょ?ま、昨日転がり込んできたばかりの身としては、これくらい働かないと追い出されちゃいそうですしね」
フィレモは自分の羽の傷を気にする素振りも見せず、あっけらかんと笑った。アレックもつられて快活に笑い声を上げる。探偵事務所の中には、ジャズのレコードの音色とコーヒーの香り、そして底抜けに明るい笑い声が満ちていた。
だが、この平和で滑稽な光景は、アレック・ボーンという男の人生において、ほんの昨日まで存在すらしていなかったものだ。
話を昨日に戻そう。
昨日の朝まで、アレック・ボーンは探偵などではなかった。この埃っぽい裏路地の事務所の主ではなく、キャピタルシティにそびえ立つ冷たいガラス張りのビル、ウエストワールドの思想と道徳を管理する「倫理局」の、それなりに優秀な監査官だったのだ。
倫理局。
それは警察のように物理的な犯罪を取り締まる組織ではない。人々の心に芽生える「変化への欲望」や「進歩への渇望」を検閲し、摘み取る「知の傭兵」とも言うべきエリート集団だった。アレックはその中でも、常にトップクラスの成績を収める男だった。隙のない仕立てのスーツを着こなし、書類の束と冷徹なロジックを武器に、人々に「現状肯定」という名の安寧を強制的に与え続けてきた。
アレック自身、その仕事に誇りを持っていた。
かつての「事件」で大切な娘を失った彼は、人間が「ここではないどこか」を目指すことで、どれほどの血が流れるかを痛いほど知っていた。だからこそ、傷つかないために、誰もが「今のままでいい」と笑い合える停滞した世界を守り抜くこと。それが彼の正義であり、倫理であったはずだった。
だが。
昨日の昼下がり。アレックは倫理局代表の執務室のドアを開け、見てしまったのだ。
「倫理」という名の下に、代表が行っていた「ある事実」を。
人々には変化を禁じ、停滞を押し付けながら、その裏側で代表自身が何を弄んでいたのかを。
アレックの頭の中で、何かが決定的に弾ける音がした。それは、彼が心の中に築き上げてきた「現状肯定」という絶対的な防波堤が、ついに、音を立てて崩れ去る音だった。
彼は自分が何を言ったのか、よく覚えていなかった。ただ、気がついた時には、彼の右拳は代表の顔面に深々とめり込んでおり、代表は高級なデスクをなぎ倒して床に転がっていた。周囲の監査官たちが悲鳴を上げて駆け寄る中、アレックは全く悪びれることなく、むしろ清々しいほどの笑顔で、血のついた拳を振った。
「悪いな、代表。どうやら俺の『倫理観』が、あんたの顔面を殴り飛ばせって囁いたみたいだ。その腐った椅子ごと、永遠に停滞してな!」
アレックは胸ポケットから銀色の監査官章を引きちぎり、それを気絶した代表の顔の上にポイと投げ捨てた。そのまま誰の制止も振り切ってビルを出たアレックは、その足で全財産をはたき、ウエストワールドの場末にあるこの空き物件を即金で借り上げた。スーツをゴミ箱に捨て、古着屋で一番くたびれたトレンチコートを買い、ドアのガラスに「ボーン探偵事務所」とペンキで殴り書きをしたのだ。
そして、そのペンキが乾くか乾かないかという昨日の夕暮れ時。事務所の前にふらりと現れたのが、フィレモだった。傷ついた羽を引きずり、行く当てもなく途方に暮れていた彼女は、アレックの書いた歪な看板を見上げて、赤い目をぱちくりとさせた。
「あの、ここ、探偵さんですか? 私、行くところがなくて……」
アレックは、エリート街道から転落したばかりの自分と、ボロボロの鳥獣人の少女を見比べ、腹の底から笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
「最高だ。倫理もクソもない、これが本当の世界ってやつか。いいぜ、お嬢ちゃん。お前、電話の出方くらいは知ってるか?」
「……はい!昔、少しだけ教わったことがあります。ダイヤルを回して……」
「ようし!採用だ。今日からお前はボーン探偵事務所の輝かしい第一号助手だ。給料はコーヒー飲み放題と、俺のつまらない冗談を聞く権利だ。どうだ、悪くない条件だろう?」
フィレモは一瞬きょとんとした後、パッと顔を輝かせて笑った。それが、二人の出会いであり、この奇妙な探偵事務所の始まりだったのだ。
話を現在に戻そう。
初老の依頼人は、すっかり空になったコーヒーカップをテーブルに置き、憑き物が落ちたようなスッキリとした顔つきで立ち上がった。
「探偵さん、なんだかあなたと話しているうちに、妻がどこへ行ったのか、少しだけ見当がついてきました。彼女がよく言っていた、あの海辺の……」
「オーライ、旦那。それ以上は言わなくていい。俺たちの仕事は、迷える子羊の背中をポンと叩いてやることだ。現場が分かったのなら、あとは俺の足と、このコートのポケットに入ってる愛用のカメラの出番だ」
アレックはソファから立ち上がり、デスクの上に置いてあった使い込まれたフィルムカメラを首から提げた。そして、壁のフックに掛かっていた車のキーを指先で器用に回しながら、フィレモに向かってニヤリと笑った。
「さあ、お留守番は終わりだぜ、フィレモ。ボーン探偵事務所の記念すべき初仕事に出発しようじゃないか」
「はいっ!任せてください、アレックさん!私、足手まといにならないように全力でついていきますからね!」
フィレモは紙袋を抱え直し、元気よく敬礼のようなポーズをとった。アレックは事務所のドアを開け放ち、ウエストワールドの埃っぽい、しかし、どこまでも眩しい午後の日差しの中へ、トレンチコートの裾を揺らして歩き出す。
ビルの下には、アレックが中古で買ったばかりの、塗装の剥げた無骨なセダンが停まっていた。エンジンをかけると、まるで喘息持ちの老犬のように重たい音を立てる。だが、そのガソリンの匂いとエンジンの振動こそが、アレックにとっては、偽りの倫理から解放された「生きた世界」の鼓動に他ならなかった。
「シートベルト、ちゃんと締めろよ、フィレモ。俺の運転は、淹れたてのコーヒーより熱くて危険だからな!」
「ええっ!?ちょっと、安全運転でお願いしますよー!」
フィレモの慌てた声と、アレックの豪快な笑い声が、車の排気音と共に街の喧騒へと溶けていく。
……その二人を、一人の小柄な少女が、悪魔的な、しかし、慈悲深い微笑みを携えて眺めていた。
新暦150年。
停滞を愛した男が、皮肉にも、誰よりも自由な風を纏って走り出した。ウエストワールドの青空の下、不格好で最高に明るい探偵たちの物語が、今、エンジンを吹かして幕を開けたのだ。
主題歌:美しければそれでいい
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