証明6:正義の女と正義の男と悪魔の娘!
ウエストワールドの空は、分厚い鉛色の雲に覆われていた。しかし、現在のマキナ・バイタルの心の中は、その空よりもさらに暗く、そして底なしの泥沼のように濁っていた。
彼女の思考は、狂気と他責の螺旋をどこまでも堕ちていく。
なぜ、自分はこんなにも不幸なのか。
なぜ、自分が望んだ完璧な世界は手に入らないのか。
その答えを、マキナは極めて単純な、しかし彼女にとっては絶対的な真理として一つの結論に帰結させていた。
全ては、娘のせいだ。
全ては、ルキアという娘が生まれたせいだ、と。
あの忌まわしい失敗作さえ産み落とさなければ、自分はアレックという足枷に縛られることなく、もっと早く、もっと自由な身でヴォイド・ナギ・ヌルフィールドと結ばれていたはずだ。ヴォイドという完璧な天才、絶対的な権力を持つ玉の輿。
玉の輿。
それを逃してしまったのは、自分が若気の至りで身籠ってしまったあの悪魔の赤子の存在があったからに他ならない。
悪魔。
私の娘は、私から幸せを奪った悪魔だ。
マキナの脳内では、自らがアレックを射止めるために無理矢理妊娠してルキアを産み、そして己の意思でアレックを騙して捨てたという事実は綺麗に消し去られ、「ルキアの存在が私の幸福を邪魔した」という歪んだ被害者意識だけが肥大化していた。
さらに。
彼女の心を苛立たせていたのは、先ほど街角で目撃した光景だ。
ヴォイドが、あの小娘……フィレモに優しく微笑みかけ、倫理局へ誘っていた。マキナの目には、それがヴォイドの新しい「お気に入り」への求愛にしか見えなかった。
あの男は、私を捨てて、あんな若くて純粋なだけの娘に手を出そうとしている。
これ自体、ヴォイドの行動原理を完全に読み違えたマキナの完全なる勘違いであった。ヴォイドはただ、倫理局の正常化という業務を遂行するために必要な「最後のピース」をスカウトしていたに過ぎない。しかし、自己愛と他責で塗り固められたマキナの精神に、そのような客観的な事実が入り込む余地はなかった。
マキナの心は煮えくり返っていた。ヴォイドを許さない。フィレモを許さない。そして何より、全ての元凶であるルキアを許さない。
だが、ここでマキナの持ち前の「保身」と「他責」が首をもたげる。
彼女は現在、倫理局というヴォイドの絶対的な支配下にある組織の敷地内に身を置いている。そこで真っ向から反旗を翻せば、どのような粛清を受けるか分からない。自分が直接手を下すのはリスクが高すぎる。
ヴォイドを改心させる、あるいは破滅させるべきなのは、倫理局に反発する外部の人間でなければならない。
では、誰にやらせるか。
もちろん、アレックだ。
マキナの思考は、最悪の方向へと飛躍した。
彼女は自分の怒りがどこから来ているのか、その根源すらもはや理解していなかった。ただ、漠然とした苛立ちと、自分の手を汚さずに気に食わない者たちを排除したいという、おぞましいほどに身勝手な『雌の願望』だけがあった。
そして、その混乱した状態のまま、マキナはボーン探偵事務所へと足を運んだ。かつて自分を愛し、自分が無惨に捨て去った男、アレック・ボーンの元へ。
探偵事務所の古びた扉を開けると、そこにはアレックが一人でデスクに向かい、何やら書類の整理をしていた。フィレモとルキアはまだ出先から戻っていないらしい。好都合だった。
「……マキナ? どうして君がここに」
突然の元恋人の訪問に、アレックは目を丸くした。
マキナは、その瞬間に「完璧な悲劇のヒロイン」の仮面を被った。彼女の瞳からはらはらと大粒の涙がこぼれ落ち、華奢な肩が小刻みに震え始める。
「アレック……お願い、助けて……私、もうどうしたらいいか分からないの……」
マキナはよろめくようにアレックに歩み寄り、その豊満な乳房を事故的に「ただ、当たっただけですよ」と言わんばかりに擦り付けながら、その胸に顔を埋めた。
アレックは全身を硬直させた。倫理局の人間として冷徹に振る舞い、つい先日も「人間を皆殺しにする」などと嘯いていた女が、今はか弱き小鳥のように自分にすがりついている。
「マキナ、落ち着け。何があったんだ」
「ヴォイドよ……あの男が、倫理局を乗っ取って、世界を無茶苦茶にしようとしているの。そして、私を……私をまた裏切ろうとしているわ」
マキナは言葉巧みに、そして涙声で嘘と妄想を織り交ぜて語り始めた。
ヴォイドがいかに危険な存在であるか。彼がフィレモという純粋な少女をたぶらかし、倫理局の狂気をさらに加速させようとしているか。そして、自分はそれに逆らうことができず、怯えている哀れな女であると。
「アレック、お願い。あなたからルキアに言ってくれないかしら。あの子なら、悪魔の力でヴォイドを倒せる。倒す……いえ、ヴォイドを殺して、この世界を救ってほしいの。私の口からは、あの子にそんな残酷なこと、とても頼めないから……」
それは、究極の責任転嫁であった。
自分の愛憎の縺れから生じた殺意を、自分を捨てたヴォイドへの復讐を、実の娘であるルキアの手に委ね、さらにはその命令を下す役目をアレックに押し付ける。全てが終わった後、自分は手を汚さず、悲劇の母として振る舞い続けるための完璧な布石。
とことんまで腐り切った、救いようのない他責の塊。
そして、ここで最も恐ろしく、かつ滑稽であったのは、アレック・ボーンの反応である。
彼は……なんと、悩んだのだ!
普通の知性を持つ人間であれば、この女の言葉の裏にある身勝手な計算に気づき、激怒して叩き出すだろう。マキナが自分と娘をどのように扱ってきたか、その過去を振り返れば、彼女の頼みなど聞く耳を持つ必要すらないはずだ。
だが、アレックは馬鹿であった!
底抜けの、どうしようもない馬鹿であった!
彼は、かつて愛した女から、元嫁から、涙ながらに胸を押し付けられて「せがまれた」という表面上の事実だけで、心の奥底で奇妙な優越感を感じてしまっていたのだ。
「俺はまだ、この女に必要とされている」
「彼女は倫理局で孤独に戦い、最後には俺を頼ってきたんだ」
そんな薄っぺらい男のプライドと、どうしようもない未練が、アレックの判断力を著しく鈍らせていた。
「……マキナ。君の苦しみは分かった。だが、ルキアに人殺しをさせるなんて……俺はあいつの父親として……いや、しかし、世界を救うためなら……」
アレックは腕を組み、いかにも深刻そうな顔をして、そうして……本気で悩み始めてしまったのである。
目の前の女が、ただ己の欲望と保身のために娘を殺人兵器として利用しようとしている悪鬼であることにも気づかず、アレックは「頼れる男」の顔をして良い格好をしていた。
その、吐き気を催すような三文芝居が繰り広げられている探偵事務所の扉が、不意に勢いよく開かれた。
「ただいまー! あーあ、今日の依頼も疲れたわね……って、ちょっと……
帰ってきたのは、ルキア・ブラックであった。
彼女は事務所に足を踏み入れた瞬間、室内に充満する異常な空気を肌で感じ取った。そして、デスクのそばでアレックにすがりつくマキナの姿を捉え、その美しい顔を険しく歪ませた。
ルキアの登場に気づいたマキナは、咄嗟に動きを変えた!
彼女は、すがりついていたアレックの胸から離れると、まるで、「アレックから無理やり引き止められていて、それに困惑している」かのような素振りを大袈裟に見せたのだ。
「あ、もうだめ。……ごめんなさいアレック。私、もう行かなきゃ。これ以上、あなたに迷惑はかけられないわ……」
そう言いながら、マキナはルキアと目を合わせることなく、そそくさと事務所の出口へと向かおうとした。
「自分がアレックに言い寄られ、困り果てて逃げ出す貞淑な女」であるかのような、あまりにも白々しい態度!
その姿を見た瞬間、ルキアの胸の奥で、何かが……決定的に弾けた。
ルキアは、マキナの身体中から滲み出ている「他責」の悪臭が、たまらなく気に食わなかった。
ヴォイドを殺させようとしている企みなど、そんなくだらない事実は、ルキアには初めからお見通しだった。
だが、ルキアがそれ以上に許せなかったのは、この期に及んでもなお、自分がか弱い被害者であるという顔をして、全ての責任を他人に押し付けようとするその腐り切った根性だった!
ルキアは心の中で冷たく吐き捨てた。
あんたが私を捨てたのは、ヴォイドのせいでも、アレックのせいでもない!
マキナ、あんた自身が自分の意志でやったことだろ!
あんたが幸せになれなかったのは、私が生まれたからじゃない!
ヴォイドが他の女を気にかけているからでもない!
あんたが……あんたが!
あんたが、ただ一人で勝手に狂って、そうして、自分以外の全てを憎んでいるからだ!
自分の足で立とうとせず、自分の罪と向き合おうとしない、その、卑小な魂のせいだ!
マキナがドアノブに手をかけたその瞬間、事務所の空気が一気に凍りついた。
空間そのものが歪むような、圧倒的で、息が詰まるほどの魔力の波動。
「……ママ。」
ルキアの声が、鋭く、そして重く響き渡った。
それは、娘が母親を慕うような甘い響きでは決してなかった。断罪を下す死神の宣告のような、冷徹極まりない一言であった。
マキナはドアノブを掴んだまま、振り返らなかった。
しかし、彼女の背中からもまた、ルキアのそれを迎え撃つような、凄まじい悪魔の殺気が立ち昇り始めていた。
室内の温度が急激に下がり、窓ガラスが内側からの圧力に耐えかねて悲鳴のような軋み音を立てる。アレックはその尋常ではない空気に圧倒され、言葉を失って立ち尽くしていた。
ここで、けりをつけるべきか。
マキナの脳裏に、どす黒い殺意が閃いた。
この忌まわしい娘。自分の人生の最大の汚点。こいつさえいなければ。
マキナは、顔をドアに向けたまま、振り返らずに吐き捨てるように言った。
「……あんたさえ!あんたさえが生まれなければ、私は幸せになれたのよ! あんたみたいな、あんたみたいな……薄気味悪い悪魔さえ、私の腹の底から出てこなければ!」
その言葉は、母親が子供に向かって放つにはあまりにも残酷で、あまりにも救いのない呪いであった。
しかし、ルキアは微塵も揺らがなかった。彼女は漆黒の羽を背中に広げ、冷たい瞳で母親の背中を射抜きながら、はっきりと返答した。
「そう。その『悪魔』を産んだのは、ママ……いえ。マキナ、あなた自身よ」
図星を突かれたマキナの中で、最後の理性の糸がプツリと切れた。
自分の全ての責任を突きつけられ、逃げ道を塞がれたことに対する逆上。
「黙れえええええっ!!」
マキナは絶叫と共に猛然と振り向きざま、宙に浮かび上がった。
彼女の両手からは、空間を焼き焦がすほどの高密度の魔力が込められた、巨大な漆黒の光弾が放たれた。それは倫理局の裏で密かに磨き上げられた、純粋な破壊の力であった。
光弾は探偵事務所のデスクを粉砕し、一直線にルキアの顔面へと迫る。
だが、ルキア・ブラックはヴォイドに最高峰の教育を施された「本物の悪魔」である。
彼女は迫り来る光弾を前に一歩も引かず、右手を軽く振るうだけで、その破壊の塊をいとも容易く弾き飛ばした。軌道を逸らされた光弾は壁を貫通し、外の路地へと消えて大爆発を起こす。
「あんたの怒りは、いつだって、見当違いなのよ!」
弾いた直後、ルキアは床を蹴って跳躍した。
彼女の小さなブーツの爪先には、空気を震わせるほどの莫大な魔力が圧縮されていた。ルキアは空中のマキナに向かって、容赦のない飛び蹴りを放つ。
マキナは間一髪で体を捻ってそれを回避したが、ルキアの蹴りはそのまま事務所の床に突き刺さり、分厚い石造りの床を爆発したかのように大きく抉り取った。粉塵が舞い上がり、書類の紙吹雪が部屋中を舞う。
「ルキア! マキナ! やめろ、やめてくれ!」
その惨状の中で、アレックが狼狽しながら叫んでいた。
この男は、驚くべきことに、まだこの状況の真意を全く理解していなかった!
二人の女が、凄まじい殺意をぶつけ合っている。その理由を、彼は信じられないほど都合の良い方向に解釈していたのである。
「俺のために……俺を取り合って争わないでくれ!どっちも傷ついてほしくないんだ!」
アレックは本気でそう叫んでいた……
元嫁と実の娘が、自分を取り合って血みどろの戦いを始めていると、「本気」で勘違いをしていたのだ!
マキナが自分を利用しようとしていたことも、ルキアがマキナの腐った性に絶望して断罪しようとしていることも、彼の馬鹿な頭には一切届いていなかった。滑稽を通り越して、もはや喜劇ですらあった。
しかし、戦い合う二人の悪魔は、そんなアレックの戯言など全く耳に入っていなかった。
「ふざけるな……ふざけるなあああ!私は完璧なのよ! 私は誰よりも幸せになる権利があるの!」
マキナは狂乱の様相で魔力を乱射し、探偵事務所内を破壊していく。彼女の顔は怒りと憎悪で醜く歪み、かつての美しかった面影はどこにもなかった。
「笑わせないで。過去から逃げ回り、全てを他人のせいにする人間の、一体どこが完璧なの。あんたはただの、哀れなピエロよ!」
ルキアは舞い散る瓦礫を避けながら、冷静に、そして的確にマキナへと肉薄していく。彼女の漆黒の羽が刃のように空気を切り裂き、その瞳には一抹の同情すら浮かんでいなかった。
そして、その凄惨な決戦の始まりを、事務所の入り口で静かに見届けている者がいた。
フィレモである。
彼女は本屋からの帰り道、事務所から立ち昇る異常な魔力を感じて駆けつけていた。しかし、彼女は止めに入ろうとはしなかった。
これは、ルキア・ブラックが自らの過去と、そして自らの血と決別するための戦いなのだ。
マキナという歪んだ母親の呪縛を断ち切り、彼女が本当の意味で「一人前の悪魔」として、このウエストワールドを歩んでいくために避けては通れない儀式。
フィレモは、悲しげな、しかし強い決意を秘めた瞳で、二人の衝突を見つめ続けていた。
愚かな男の勘違いの叫びがこだまする中。
自己愛に狂った母と、過去を断ち切らんとする娘。
二人の悪魔による、全てを終わらせるための決戦が、今ここに幕を開けたのである。




