証明4:母さん、覚えていますか!
ウエストワールドの街並みは、今日も今日とて冷徹なリズムを刻んでいた。
フィレモが検診のために病院へと向かった後、残されたアレック・ボーンとルキア・ブラックの二人は、重苦しい沈黙を連れて倫理局の本部へと歩を進めていた。
石畳を歩くアレックの足音はどこか覚束なく、隣を歩くルキアの表情もまた、いつもの不敵な笑みが消え失せ、暗い影を落としている。
ルキアは、絞り出すような声で口を開いた。
「アレック、あなた、まだ分かっていないわ。マキナの力は……悪魔の力。それは、概念そのものを書き換える呪いなのよ」
アレックはポケットの中で拳を握りしめた。彼の脳裏には、かつて愛した一人の女性の記憶が、ひび割れた鏡の断片のように点滅している。
「……信じられないんだ。俺が彼女と付き合っていた頃、彼女が悪魔だなんて微塵も思わなかった。ただの、少しばかり聡明で、そして脆いところのある一人の女性だと思っていたんだ」
アレックの言葉に、ルキアは冷ややかな、しかしどこか憐れみを帯びた視線を向けた。
かつてアレックとマキナは、恋人同士であった。
それだけではない。二人には子供がいたのだ。三歳になる、愛らしい盛りの子供が。しかし、その子は突然、煙のように消え失せた。ある日、ある場所で起きた「事故」によって。
それが魔導的な暴走によるものだったのか、それとも誰かの陰謀によるものだったのかは、今となっては分からない。確かなのは、その子が物理的な肉体ごと、この世界から完全に消滅してしまったという事実だけだ。
ルキアはアレックの話を聞き、胸の奥がチリつくような感傷に襲われた。彼女自身の出自が、その感情を無視することを許さなかったのだ。
かつて、捨て子だったルキア・ブラックを拾い、育て、そしてゴミのように捨てた男の名は、ヴォイド・ナギ・ヌルフィールド。一人の人間の男性でありながら、彼はウエストワールドの歴史において、最も理解不能で、かつ最も「完璧」な存在として君臨していた。
ヴォイドは凄まじい天才だった。
あらゆる学問を数日で修め、警察のトップまで上り詰めたかと思えば、突然「飽きた」と言って教育庁の長官に転身した。そこでも数々の功績を上げたが、またしても「飽きた」の一言で職を辞し、今度は裏社会のマフィアの幹部として君臨したのだ。
そうしてあらゆる権力と富を手にし、すべての極致を味わい尽くした後、彼はどこかへ行方をくらました。
ルキアは、そんな彼に保護された「所有物」の一つに過ぎなかった。彼はルキアを完璧な悪魔として教育したが、ある日、ただ、飽きたのだ。ヴォイドは、唐突に、ひどく退屈そうな顔で、彼女を社会へ放り出したのだ。
「ヴォイド……あいつのことは、思い出したくもない」
アレックは耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
ヴォイドという男の異常性は、その華々しい経歴だけではない。彼は、誰からも、どのような組織からも常に「満点」の評価を受けていた。
能力、体力、魔力、会話術。
どれをとっても機械的に測定すれば完璧なのだ。しかし、アレックが最も寒気を覚えたのは、その男の「言葉」だった。
ヴォイドは何を決断する際も、あるいは、誰かに責任を追求される際も、決まってこう答えるのだ。
「ぼくのお母さんが、それが良いって言ったから」
「ぼくのお父さんなら、きっと良いって言うと思うよ」
これは、いい歳の男の言葉なのか。
冗談ではない。
そこには、主体性は欠片も存在しない。まるで、「自分」という空っぽの容器に、「他人」を詰め込んでいるだけのような不気味さ。
そんな空虚な男が、かつてアレックの恋人であったマキナを奪い、そしてルキアと同じように飽きて捨てた。マキナが悪魔としての狂気に走ったきっかけが、その喪失感にあったことは、想像に難くなかった。
やがて二人は、ウエストワールドの心臓部である倫理局本部へと到着した。冷たい大理石の廊下を抜け、最奥にある会議室の重厚な扉が開かれる。
そこには、巨大な窓を背に、マキナ・バイタルが静かに座っていた。
悪魔マキナ、人間アレック、そして悪魔ルキア。
かつての愛と憎しみ、そして疑似的な親子関係が複雑に絡み合う三人が、一枚の円卓を囲んで向き合った。
アレックは、自分からこの場を設けるよう要求したはずだったが、いざ対峙してみると……何を言えば良いのか分からなかった。目の前にいるのは、かつて共に未来を語ったあの女性ではない。すべてを呪い、すべてを支配しようとする、絶望そのものだ。
沈黙を破ったのは、マキナの方だった。
彼女は、まるで、明日の天気を語るかのような平淡な口調で、願望を口にした。
「人間を一匹残らず、殺したいと思っているの」
その一言が、会議室の温度を氷点下まで引き下げた。
アレックは喉の奥が乾き、動悸が激しくなるのを感じた。混乱の極致にいた彼は、思わず自分でも信じられないような言葉を口にしていた。
「じゃあ……マキナ、やり直そう。昔みたいに。また、よりを戻そう」
マキナの瞳が、一瞬だけ信じられないものを見るかのように見開かれた。しかし、すぐに彼女の口からは、アレックの心を抉るような冷笑が漏れた。
「呆れた。アレック、あなた、いま、この状況で……いったい何を言っているの?私たちはもう、娘を失い、そして、すべてはもう、消え失せたの」
「なぜ人間を憎むんだ。なぜ皆殺しにしなきゃいけない。人間はなあ、すごく、とっても、素晴らしいぞ。生きるってことは、素晴らしいぞ」
アレックの空虚な、ありきたりな言葉に、マキナは窓の外に広がる完璧に統制された街を見下ろしながら、ささやくように答えた。
「世界が醜いからよ。完璧な倫理を押し付けても、完璧な規律を押し付けても、暴力も、放任も、愛も、全ては無駄だった。何をしても、なお、彼らの内側には、どろどろとした欲望と醜悪な自己愛が渦巻いている。私の中にもね。だから、この世界を、完璧な静寂で満たしたいの。すべてを殺し尽くして……そのあとで、私もしっかりと、死ぬわ」
それは、心中の宣告だった。
世界を道連れにした、孤独な悪魔の自殺志願。
その時、それまでじっと二人のやり取りを聞いていたルキアの唇が、震えるように動いた。
「……そんなのいやだよ、ママ」
その言葉は、誰の耳にもはっきりと届いた。ルキア自身、なぜ自分がそんな言葉を口にしたのか分からなかった。アレックも、そしてマキナも、一瞬の静止の後、理解不能な感情に揺さぶられた。
ルキア・ブラックはヴォイドに育てられた。しかし、そのヴォイドがマキナを「飽きて捨てる」までの短い期間、彼女たちは確かに、一つの奇妙な共同体の中にいたのかもしれない。
マキナは自らの胸の内に沸き上がる、言葉にしがたい不快感を覚えた。ルキアに対して感じていた、苛立ちや、どこか蹴落としてやりたくなるような底意地の悪い感情。彼女はそれを、かつて持っていたはずの攻撃性、つまり、「母性」の変質したものだと直感的に悟った。
「……ええ。そうね、嫌でしょうね、ルキア。でも、ママはもう辛いから、他人を同じ辛さに引き摺り落として、すべてを殺すわ。そうして、それから死ぬ。それがあなたへの、最後の教育よ。」
マキナの言葉には、もう誰の説得も届かないような絶対的な拒絶が込められていた。
だが。
ルキアは……くすくすと、笑った。
「教育?……嘘ね。自分が辛いから、無関係な他人を殺して、そうして、自分だけが生き残ろうとしている。……あの時も、自分が辛いからっていう身勝手な理屈で私を捨てたんでしょ」
マキナは、何も言い返さなかった。
ルキアは続けた。
「さて。本当に醜くて、本当に殺したい相手は誰かしらね……『ママ』。」
ルキアの問いかけに、マキナは答えなかった。
アレックは、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
探偵事務所に戻る道中、アレックとルキアの間に会話はなかった。
無言。
「気まずい」という言葉の意味を、二人は初めて理解した。話を、切り出せないのだ。
何を話しても、全てが嘘になる時間……。
事務所のドアを開けると、そこには使い古されたソファと、淹れたてのコーヒーの香りが待っていた。しかし、その日常の風景が、今はひどく、はりぼてのような、居心地の悪いものに感じられた。
「ただいまー!アレック!ルキアさん!病院、すっごく空いてましたよ!」
そこへ、何も知らないフィレモが元気よく帰ってきた。彼女の無邪気な声が、事務所に満ちていた重苦しい空気を無理やり切り裂いた。
ルキアは一瞬で表情を書き換えた。彼女はベッドから跳ね起きると、大げさな身振り手振りでフィレモに駆け寄った。
「あらあ?おかえりなさいフィレモちゃん!聞いてよ、アレックったらね、倫理局でマキナに向かって『ヨリを戻そう!』……なーんて言っちゃったのよ!もうね、最高にダサくて笑っちゃうわよね!」
ルキアはケラケラと笑い、フィレモの背中を叩きながら、おどけてみせた。
明るく、コミカルに。
いつもの「居候の悪魔」として振る舞う。そうしなければ、自分の内側で壊れそうになっている何かが、今すぐ溢れ出してしまいそうだったからだ。
アレックは力なく笑い、コーヒーを淹れるためにキッチンへ向かった。
フィレモが楽しそうに病院での出来事を語る中、ルキアは窓の外を見つめた。分厚い雲の向こう側で、マキナが、そしてヴォイドという影が、この壊れかけた家族を嘲笑っているような気がした。
彼女の心は、かつてないほどに激しく、乱れていた。




