証明3:不良品回収の男!
ボーン探偵事務所の古びたソファの上で、毛布にくるまりながら、ルキア・ブラックは幸せな微睡みの中にいた。
かつてはウエストワールド警察の代表代行として、冷徹に規則を執行し、街の治安を維持するために飛び回っていた彼女である。しかし、悪魔マキナ・バイタル率いる倫理局のクーデターにより、警察組織は完全に解体されてしまった。結果として、ルキアは役職を失い、職場を失い、見事なまでにただの「野良悪魔」へと転落したのだ。
だが、ルキアにとって、この堕落した生活は決して悪いものではなかった。
むしろ、最高だった。
朝早く起きて書類の山と格闘する必要もないし、頭の固い上層部と口論する必要もない。今の彼女の仕事といえば、愛するアレック・ボーンの探偵事務所に居候し、フィレモと共に温かいミルクコーヒーを飲み、ふかふかのクッションに埋もれて昼寝をすることくらいである。外の世界がどれほど狂っていようとも、この探偵事務所の中だけは、ルキアにとって絶対的な安全地帯であった。
「……というわけで、アレックさん!どーか、どーかこの哀れな私をッ!……お助けください……」
ルキアの至福の睡眠は、野苦しい男の号泣によって無惨にも打ち破られた。
ルキアが薄く目を開けると、そこには頭を抱えてソファの背もたれに寄りかかるアレックと、その足元にすがりついて涙を流している中年の男の姿があった。男は、キャピタルシティの片隅で日用品から怪しげな魔導具までを制作して販売する、中規模な雑貨屋の店主だった。
アレックは深いため息をつき、頭を掻きむしった。
「おいおい、おっさんよ。泣くのは勝手だが、俺のズボンで鼻をかむのはやめてくれ。……で、なんだって?店の権利書をなくした……だと?」
店主はしゃくりあげながら、必死に頷いた。
ウエストワールドの法律には、経済活動の停滞を防ぐための、極めて強引な政策がいくつか存在する。その最たるものが、「権利書の七日間ルール」であった。これは、いかなる理由であれ、権利書を物理的に七日間継続して保有した者が、その資産の正当な所有者として認められるという、狂気の法である。
なぜこんな無茶苦茶な法律が罷り通るのか。政府と倫理局の言い分はこうだ。
「権利の所在が不明確なまま資産が凍結されることは、社会全体の不利益である。まずは経済を回すことを優先し、その後の帳尻合わせは当事者間の倫理的な話し合いに委ねるべきである────」
……あたかもお利口そうな理屈だが、要するに、事後処理を面倒くさがった国が泥棒を推奨しているようなものだった。狂気の沙汰である。
「今日で……権利書を紛失してから、ちょうど五日目なんです……」
アレックは腕を組み、鋭い視線を店主に向けた。
「まあ、大体の見当はつくぜ。おっさんの店の内部事情に詳しい従業員の誰かが、商売敵と結託したんだ。そいつが金庫から権利書をくすねて、商売敵に『事故的に』、あるいは『やむを得ず』拾わせた。倫理局の監査が入っても、落ちていたものを善意で保管しているだけだと主張すれば、七日間くらいならば逃げ切れる。見え透いた手口だ」
店主は目を丸くし、さらに大粒の涙をこぼした。
「さすが、名探偵!その通りです。うちの番頭が昨日から無断欠勤しておりまして……間違いありません!」
「そうかい?なら、そいつのところに乗り込んで権利書を取り返せばいいだけだろ。依頼するまでもない」
アレックが冷たく言い放つと、店主は突然、床に突っ伏して地面を叩き始めた。
「それが……話はそれでは終わらなかったんです! ああ、私はなんて愚かなことを……!」
店主の口から語られたのは、権利書の紛失よりもさらに絶望的な、悪夢のような出来事だった。
昨日、店主の雑貨屋はオープン五周年を記念した大規模なセールを行っていた。そこへ、権利書を奪ったと目される商売敵の社長が、いけしゃあしゃあと祝いの品を持って現れたのだ。表面上は互いに笑顔で謝り合い、商売敵の社長は「せっかくの記念日だ、同業者として一つくらい何か買っていこう」と申し出た。
社長は、店の入り口付近に並べられていた商品棚を指差し、「そこにあったものの値段はいくらだ?」と尋ねた。店主は、どうせ何か安い記念品を一つ買うだけだろうと高をくくり、軽い気持ちでこう答えてしまったのだ。
『ああ、すべて100クレストだよ』
店主の意図としては、「その棚にある商品は、どれでもひとつ100クレストだ」という意味であった。まあ、言葉足らずであったことは否めない。
だが、この一言が、取り返しのつかない致命傷となった。
商売敵の社長は、隠し持っていた小型の魔導録音機を取り出し、高笑いをしながら店の表へと飛び出した。そして、拡声器を使って街行く市民たちに向けて、録音された店主の声を大音量で再生し始めたのだ。
『この店のものは永久に、誰もが100クレストだそうだ!聞いたろう?これは、店主の倫理的な大盤振る舞いである!』
その瞬間、善良で、規則正しく、そして恐ろしいほどに倫理的な市民たちの目の色が変わった。
「すべて百クレスト」という言葉の解釈は、商売敵の恣意的な扇動によって、「店内の全商品を、一つ残らず、どれでも百クレストで販売する」という異常な契約として成立してしまったのだ。
「市民たちは……倫理局の定める『商取引の透明性と誠実さ』を盾にして、怒涛のように店に雪崩れ込んできました。そして、魔導具も、置き物も、私が描いた絵画までもを、すべてを100クレスト硬貨1枚で奪っていったんです! 私は抵抗しようとしましたが、警官から『嘘をつくことは非倫理的だ』と非難され……気がつけば、店の在庫は根こそぎ空っぽになっていました……」
店主はついに言葉を失い、ただただ呜咽を漏らすだけの肉の塊と化した。
アレックは天を仰いだ。
お手上げだ。
権利書の問題だけなら、まだ力技で裏をかくこともできたかもしれない。だが、録音という確たる証拠があり、市民全員が「合法的に」商品を買い占めた後では、もう、どうにもならない。倫理と法律を完璧に遵守した上での略奪。マキナの作り上げたこの狂った世界では、このような悪意の塊が「正義」として罷り通ってしまうのだ。
「あー。……悪いが、おっさんよ。これは、俺の手に負える案件じゃねえ。『正しい』法律に則って『正しく』購入されたものを取り返す手段なんて、この『正しい』街にはな、存在しないんだ。諦めて首を括るか、それか、別の街で一からやり直すんだな」
アレックが冷酷に現実を突きつけ、依頼を断ろうとしたその時である。
「ふわぁぁ……ちょっと、朝から騒々しいわね。レディの安眠を妨害するなんて、非倫理的にもほどがあるわよ」
探偵事務所の奥の部屋から、だぼだぼの巨大なパジャマを引きずりながら、漆黒の羽を持つ少女が現れた。ルキア・ブラックである。彼女は目を擦りながらキッチンへ向かい、戸棚から自分用のマグカップを取り出すと、ポットに余っていたコーヒーをなみなみと注いだ。そうして、アレックの隣のソファにどすんと腰を下ろし、優雅にコーヒーを一口飲んでから、再び大きな欠伸をした。
「……なんだ、ルキア。起きてたのか」
「起きるに決まってるでしょ。こんな、怪獣みたいな泣き声が響いてたら、悪魔だって目を覚ますわよ」
ルキアは不満げに唇を尖らせ、そのままソファの上で丸くなり、再び毛布を被ろうとした。その怠惰極まりない態度に、アレックの眉間に出現した青筋がピクリと跳ねた。
「ちょ、ちょっと待てい……」
アレックは毛布を剥ぎ取り、ルキアの頬を軽くつねった。
「お前なあ、仮にも居候の身分なんだから、少しは探偵の仕事の手伝いをしたらどうなんだ。一日中寝て、起きたら飯を食って、そうしてまた寝る。お前は悪魔じゃなくて、猫か何かなのか?」
「ええ。……猫よ?」
「……」
猫は頬を膨らませ、アレックの手をペシャリとはたき落とした。そして、毛布をしっかりと抱き抱えながら、悪魔的な、しかし圧倒的に愛らしくて魅力的な微笑みを浮かべ、アレックの目をじっと見つめた。
「猫が手を貸したら、猫に何のメリットがあるの?アレック」
「へ?」
「もし私が、この依頼人のおじさんの複雑怪奇な難事件を、たった一日で……いや、今この瞬間に完璧に解決して見せたら、これからの家事当番を一切免除してくれる?一生、お皿洗いもお掃除もしなくていいっていう契約にしてくれるかしら」
アレックは鼻で笑った。
この事件は、ウエストワールドの狂った法律と倫理の網目を完璧に縫って行われた、芸術的なまでの「正しい」略奪である。警察の元代表代行とはいえ、今はただの野良悪魔である、なんの権力もないルキアに、座ったまま解決できるようなものではない。
「これはこれは大きく出たな、ニート悪魔。いいぜ、もしお前が今の話を全部聞いていて、この場で解決策を提示できるって言うなら……家事免除どころか、そうだな……このボーン探偵事務所のオーナーの座をお前に譲ってやってもいいぜ」
アレックのその言葉を聞いた瞬間、隣で様子を見ていたフィレモが小さく息を呑んだ。
ルキアはマグカップをテーブルにコトリと置くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、アレックの目の前まで歩み寄り、背伸びをして、彼女の小さな白い指でアレックの広い額を、こつん、と軽く小突いた。
「……そういうやたらな宣言は、命取りになるわよ、探偵さん。でたらめな口約束がどれだけ恐ろしい結果を招くか、いま、このおじさんの話でいま、学んだはずじゃあなくて?」
ルキアの瞳の奥に、悪魔特有の底知れぬ漆黒の知性が煌めいた。
ルキアはそのまま依頼人の店主の方を振り向き、にっこりと微笑んだ。
「おじさん。……強奪された全商品を、合法的に、かつ相手が泣いて謝りながら返しにくるようにしてあげる。今から一言いうから、それを実行して、奪い返しなさい。……悪魔的にね!」
「ほ、本当ですか!?全ての商品が戻ってくるなら……」
依頼人が狂喜乱舞する中、ルキアは再び大きく欠伸をし、眠そうに目をこすりながら、ただ一言、その魔法の言葉を口にした。
「……『リコール』」
ルキアはそれだけ言うと、くるりと踵を返し、再び奥の寝室へとよろよろと歩いていった。
「眠い。私はまた寝るから、後の事務手続きは、『元』オーナーのアレックさんと、優秀な助手のフィレモちゃんにお任せするわ。はい、おやすみなさーい」
バタン、と寝室のドアが閉まる音が事務所に響いた。
アレックと依頼人は、完全にポカンと口を開けたまま固まっていた。
「……リコール?」
アレックがその言葉をオウム返しに呟く。
リコール。
製品の欠陥を理由に、製造業者や販売業者が商品を無料で回収・修理する制度のことだ。しかし、それがなぜこの絶望的な状況を打破する一言になるのか、すぐには理解できなかった。
その時、ずっと黙って聞いていたフィレモの表情が明るくなり、彼女は興奮した様子で立ち上がった。
「……ルキアさん、やっぱりあなたは悪魔、いや……天才だわ!」
「おい、フィレモ。いったい……どういうことか説明してくれ。俺の脳味噌はまだフリーズしてる」
フィレモは依頼人の店主に身を乗り出して尋ねた。
「店主さん、あなたの雑貨屋の立地ですが、もしかしてキャピタルシティの第十三区画……スラム街の境界線近くではありませんか?」
「ええ?はい、その通りですが……それが?」
フィレモは得意げに胸を張り、ルキアが残した一言の真意を解説し始めた。
「ウエストワールドの環境法と商品安全法には、厳しい規定があります。スラム街の周辺は、過去の魔導戦争の影響で、ごく微弱ながら違法な魔力や汚染物質が残留している可能性がある地域として指定されているんです。つまり、あなたの店の商品は、法的な観点から見れば『違法な魔力を浴びて汚染されている『可能性』がある危険物』と解釈することもできるんです!」
アレックの目に、ようやく驚きの色が浮かんだ。
「……なるほど?……商品に欠陥の『可能性』がある場合、販売者は直ちに全商品の『リコール』を宣言し、回収する義務がある。そして……」
「そしてです!」
フィレモが言葉を引き継ぐ。
「現在のウエストワールドは、倫理が支配する世界です!『リコールに応じない』ということは、完全なる非倫理的な行為であり、重大な法律違反として倫理局から厳しく処罰される対象になります!」
つまり、こういうことだ。
店主が「店内の全物品のリコール」を宣言した瞬間、100クレストで商品を買い占めた商売敵や市民たちは、「汚染された危険物を不法に所持し、リコールという倫理的義務に反している重犯罪者」へと自動的に切り替わるのだ。彼らが投獄から逃れるための唯一の手段は、一刻も早く商品を店主に返還することしかなくなる。
「すごい……これなら、汚染の可能性という体で、商品を回収できるだけでなく、権利書そのものも吐き出させることができます!」
店主は震える手で懐から通信機を取り出すと、すぐさま店と組合に連絡を取り、涙声で、しかし力強く「全商品の緊急リコール」を宣言した。
数時間後。
店主からの報告によれば、事態はルキアの読み通りに動いた。リコール宣言が街に響き渡るや否や、倫理違反の罪に問われることを恐れた市民たちがあわてて商品を店に投げ返しにきたという。商売敵の社長に至っては、大量の商品を押し付けられた状態で倫理局の査察官に踏み込まれ、泣き叫びながら権利書を差し出し、全てを自白して連行されていったとのことだった。
たった一言。
ルキア・ブラックは、一歩もその場から動くことなく、ベッドに戻るついでに放った一言で、法律の壁を破壊し、市民の狂気を逆手に取り、完璧な勝利を収めたのである。
夕暮れ時。
無事に事件が解決し、静けさを取り戻した探偵事務所のソファで、ルキアは再び優雅にコーヒーを飲んでいた。その向かい側には、完全に魂が抜けたような顔で天井を見上げているアレックの姿があった。
「さて」
ルキアはマグカップを置き、可愛らしい羽をパタパタと動かしながら、満面の笑みでアレックを見つめた。
「ふふ。約束通り、事件は解決したわね。……元・オーナーさん?」
アレックは顔を覆い、深いため息をついた。
「……わーったよ。俺の負けだ。今日からこの場所は、ブラック探偵事務所だ。好きにしろ」
「ううん。名前はボーン探偵事務所のままでいいわ。手続きとか面倒くさいし」
ルキアは悪戯っぽく舌を出した。
「でも、私がこの事務所のオーナーであることに変わりはないわよ。というわけで、従業員のアレックくん!オーナーの命令です。今夜の夕食は、私が大好きな高級牛肉のステーキにしなさい!」
「……悪魔に魂を売るんじゃなかった……」
アレックの恨み節をBGMに、ルキアはクスクスと楽しそうに笑い声を上げた。
フィレモもまた、最高に可愛い新しいボスの誕生に、心からの拍手を送っていた。
絶望が支配するウエストワールドにあって、この小さな探偵事務所だけは、今日も騒がしも楽しい日常が続いていくのだった。




