第一話 9
風もないのに、空気がひとつ揺れた。
「……っ」
悠馬の足が止まる。
視界の端に、嫌な黒い影が映った。
何か……違和感……
いや、何か……濃い不快感……
「……何か……いる!?」
「…………!?」
香久夜も、すでに気づいていたようだった。
その先――
住宅街の角の向こうから、巨大な影がゆっくりと姿を現す。
獅子のようで、犬のようで、でもそのどちらでもない。
そう……あの、狛犬のような化け物だった……。
「うそだろ……昼間でも出るのかよ……」
悠馬が思わず後ずさる。
香久夜は、逆に一歩前へ出た。
その目は、すでに戦う者のものに変わっている。
「下がってて……私が、相手するわっ!」
その声と同時に、彼女の右手に光が集まる。
淡く揺れる霊力が形を成し、やがて一本の薙刀となって現れた。
夕陽を受けたその刃は、どこか神々しいほどに美しかった。
「……えっ」
悠馬は思わず息を呑む。
昨日の夜にも見たはずなのに、こうして改めて見ると、現実感がまるでない。
「来なさいよっ!」
香久夜が静かに言った、その瞬間――
狛犬が吠えた。
「ガアアアアッ!!」
地面を砕くような勢いで飛びかかってくる。
だが。
「遅いっ!」
香久夜の踏み込みは、それよりも速かった。
その瞬間、彼女の足元から薄い光が広がっていく。
淡い膜のようなそれは、やがて二人を包み込むように周囲へ広がった。
すると、さっきまで普通に歩いていた人々が、まるでこちらを避けるように自然と進路を逸らし始める。
誰ひとりとして、この異常に気づかない。
まるで、この場だけが日常から切り離されたみたいに……。
そして――
薙刀が鋭く閃いた。
「ギャアアアアッ!!」
一撃。
たったそれだけで、狛犬の巨体が大きく吹き飛ぶ。
「つ、強っ……」
悠馬の口から、思わず本音が漏れる。
香久夜は止まらない。
着地した狛犬へ、一気に距離を詰める。
「はぁっ!」
「せいっ!」
流れるような連撃。
薙刀の軌道は無駄がなく、美しく、それでいて容赦がなかった。
狛犬は明らかに押されている。
さっきまでの凶悪さが、嘘みたいだった。
「……すごい……」
その姿に、悠馬は一瞬見惚れた。
だが、その時だった。
「いやぁ……これはまた、えらい元気なお嬢さんやなぁ」
聞き慣れない、間延びした声。
空気が、ぴたりと変わる。
香久夜の動きが止まった。
「……誰?」
その声のした方へ視線を向ける。
電柱の影から、ぬるりと何かが現れる。
その“気配”だけでわかった。
ただ強いとか、危ないとか――
そういう次元じゃない。
そこに“いる”だけで、
この場の空気そのものが、じわじわと塗り替えられていくような感覚だった。
悠馬の背中を、ぞくりと冷たいものが走る。
(……なんだ、あれ……?)
その瞬間、
悠馬は本能で理解した。
――あれは、さっきの化け物とは“別格”だ。




