第一話 8
次の日の放課後……
最後の授業が終わると同時に、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を引く音、鞄をまとめる音、誰かの笑い声。
神坂悠馬は、ようやく終わった一日に小さく息をついた。
「……なんとか、今日は平和に終わりそうだな……」
昨日の夜から、どう考えても普通じゃない流れに巻き込まれているのに――学校にいる間だけは、不思議なくらい普通だった。
(まあ……だからって、この後も平和だとは限らないんだろうけど……)
そんな嫌な予感を抱えながらも、悠馬は鞄を肩にかけて教室を出る。
その瞬間――
「遅い!」
「……えっ?」
廊下の先に、当然のように西園寺香久夜が立っていた。
腕を組み、いかにも「待たせすぎ」と言わんばかりの顔でこちらを見ている。
「えっ、な、なんでいるの?」
「えっ、何でって、なに?」
香久夜はじろりと睨む。
「私が待っていたら、おかしいの?」
「いやあ……!?」
「じゃあ、別にいいでしょ?」
「ええっ……!?」
まるで最初から決まっていたことのような顔で、香久夜は悠馬の隣へ来る。
その距離が、妙に近い。
「さっ! 帰りましょ!」
なぜか少し機嫌が良さそうだった。
「……えっ、一緒に?」
「えっ、なんで?」
香久夜はわずかに眉をひそめた。
「私達、付き合っているんだから、当然でしょ?」
(ええっ……そう……なのか?)
悠馬は、疑問系の顔を全開にした。
「だって昨日、あなた、否定しなかったでしょ?」
「否定しなかったという事は、肯定してるって事よ?」
何か凄まじい論理だが、そう言われると、たしかにそうなのかもと思ってしまう。
それが、悠馬の数ある弱点のひとつだった。
「そう……なのか……な?」
「当然でしょ!」
香久夜は、まるで宇宙の常識だとでも言いたげにうなずいた。
「それに、私はあなたのガーディアンなんだから」
「昨日、そう言ったでしょ?」
その言葉に、悠馬は昨日の出来事を思い出し、少し頬を染めた。
そんな二人のやり取りを、少し離れたところから男子たちがじっと見ていた。
「まただ……」
「また一緒に帰るのかよ……」
「なんであいつなんだ……!」
怨念のこもった視線が、悠馬へ突き刺さる。
「おい、追うぞ……!」
「今度こそ行けるだろ?」
数人の男子が、香久夜の後を追って走り出した。
だが――
「うっ!?」
「ぐわっ!?」
「な、なんだこれぇぇぇ!?」
次の瞬間、まとめて転んだ。
それも、普通の転び方ではない。
まるで、見えない何かに足を払われたような、不自然な倒れ方だった。
「いててて……!」
「なんでだよぉぉ……!」
廊下の向こうで、無様にもがく男子たち。
悠馬はそれを見て、なんとも言えない気持ちになる。
(なんか……今日も大変そうだな……)
「何、見てるの?」
「あっ、いや……なんでも……」
香久夜は、何も気にしていない様子で、すたすたと歩き出した。
悠馬は小さくため息をつきながら、その後を追った。
⸻
校門を出る頃には、夕方の空がやわらかい橙色に染まり始めていた。
通学路にはまだ人通りもあり、子供の声や自転車の音が普通に聞こえてくる。
どう見ても、平和な帰り道だ。
「……こうしてると、普通なんだけどな……」
悠馬がぽつりと呟く。
「何が?」
「いや……なんか、昨日のことが嘘みたいだなって……」
香久夜は少しだけ前を向いたまま答えた。
「そういう時ほど、油断したらダメなのよ」
「ええっ……またそういう怖いこと言う……」
「怖いことじゃなくて、事実よ」
きっぱりしている。
その横顔は、学校で見た時より少しだけ大人びて見えた。
「あなた、今日一日なにも感じなかったの?」
「えっ?」
「視線とか、空気とか、変な気配とか」
「うーん……」
悠馬は少し考える。
「……特には感じなかったけど?」
「うわっ……?!」
「えっ、何……うわって?」
「いや……幸せな人だな……って!」
香久夜はどこか勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
(もう始まってるのに!)
その直後、香久夜の視線が、すっと周囲へ流れる。
ほんの一瞬だけ、その目つきが変わった。
さっきまでの“彼女っぽい顔”ではなく――
何かを探る側の顔だった。
「ど、どうかした?」
「別に!」
即答だった。
けれど、その返事は少しだけ早すぎた。
悠馬もつられて、なんとなく周囲を見回す。
「細かいことをいちいち気にする男はモテないわよ!」
「いや、そこは普通に気になるでしょ?」
そんなやり取りをしているうちに、少しだけ空気が和らいでいく。
昨日までだったら、こんなふうに、普通に女の子と会話するなんて考えもしなかった。
でも――
なんか、こうして並んで歩いている。
(まあ……こうしていると、可愛いんだけどな……)
そう思った、その時だった。
ふわり、と。
風もないのに、空気がひとつ揺れた。
さっきまで“普通”だった景色のどこかに、
急に、薄く不快なものが混ざった気がした。
「……っ」
悠馬の足が、無意識に止まる。
その瞬間――
すぐ近くの“どこか”で、
何かがこちらを見た気がした。




