第一話 3
足音は重いのに、気配の距離が合わない。
まるで空間ごと縮めてくるみたいに。
「うそだろ……っ!」
逃げ場がない。
その瞬間、足元が引っかかった。
「あっ――」
悠馬の体が前へ崩れる。
振り返った先で、巨大な影が飛びかかってきた。
終わった――
そう思った、その時だった。
「――伏せなさいっ!」
鋭い声が、夜気を裂いた。
次の瞬間――
ヒュンッ、と空気を切る音。
銀色の光が一直線に走り、化け物の横顔をかすめた。
「ギャアアアアッ!!」
化け物が、苦鳴を上げる。
「……えっ?」
悠馬が目を見開く。
黒い影が、悠馬の前へ割り込んだ。
さっき、建物の影にいた少女だった。
長い髪を揺らしながら、彼女は片手を前へ突き出している。
その指先の先には――
薄く光る、矢のようなものが浮かんでいた。
夜の暗がりの中で、それだけが異様なほど鮮やかに見えた。
「ちっ……やっぱり当たりだったわね」
少女は低く呟くと、ちらりと悠馬を見た。
「立てる?」
「えっ……あ、え……?」
「説明してる暇はないわ。走って」
彼女の周囲で、空気がわずかに揺らいでいた。
まるで、見えない膜が彼女の周囲だけ張られているみたいに。
「ちょ、ちょっと待っ――」
「黙って走る!」
有無を言わせない口調だった。
彼女はそう言うと、悠馬の腕を掴み、半ば強引に走り出した。
数分後、人気のない細い路地まで来たところで、少女は立ち止まった。
背後の気配を探るように、鋭く目を細める。
その視線は、さっきの化け物だけを警戒しているようには見えなかった。
まるで、別の“何か”まで警戒しているようだった。
そして、悠馬へ背を向けたまま言った。
「後は引き受けるから、あなたは家に帰りなさい」
「えっ……?」
「早く!」
「あっ、これを持って行って! 最低限の結界代わりにはなるわ!」
少女は、何か赤い物を差し出した。
見ると、それは小さなダルマのキーホルダーだった。
(えっ、これって……?)
「いや、でも……キミひとりじゃ――」
「いいから早く、行きなさい」
「まっすぐ、家に帰るのよ!」
振り返った彼女の目は、冗談の通じるものではなかった。
それに、その横顔には焦りがあった。
ただ強気なだけじゃない。
何かを知っていて、それを警戒している顔だった。
「……あいつ、何なんだ?」
思わずそう呟いた時、少女は短く答えた。
「――普通の霊じゃない」
「えっ?」
「見えてる時点で、もうかなりまずいのよ」
一拍置いて、彼女は小さく舌打ちした。
「このままだと、また面倒なのが来る……」
「えっ?」
「……あっ」
少女は一瞬だけ目を逸らし、すぐに咳払いをした。
「……なんでもないわ」
「いや、今なんか――」
「いいから聞きなさい」
その声は、さっきよりも少しだけ低かった。
「普通の人間に見えても、変なヤツはいるの」
「……は?」
「もし妙なヤツに話しかけられても、絶対について行かないこと」
「いいわね?」
「えっ、いや……それ、どういう――」
「説明してる時間はないの!」
その一言だけを残し、彼女は再び前を向く。
悠馬は言葉を失った。
ひとり置いていくのか?
女の子を?
そんな思いが頭をよぎる。
けれど、それ以上に――
さっきの化け物の恐怖が、まだ全身にこびりついていた。
「……っ」
悠馬は一度だけ彼女を見て、そして踵を返した。
⸻
息を切らしながら、なんとか家の前まで辿り着く。
震える手で鍵を開け、玄関へ滑り込んだ。
「あの子……大丈夫かな……」
小さく呟きながら、扉を閉める。
その音が、夜に溶けていった。
そして、その外で……
さっきの少女が静かに立っていた。
「なるほど……ここが、あの子の家か」
その声は、誰にも届かない。
少女――西園寺香久夜は、わずかに目を細める。
「間違いないわね……」
そう呟くと、彼女は静かに踵を返し、夜の闇の中へと消えていった……。
悠馬の部屋の中では――
その時、机の上に置いてあった小さな赤いダルマのキーホルダーが、ほんのわずかに揺れた。
「……ん?」
悠馬は部屋のドアの前で、そちらをチラッと見たが、すぐに首を傾げる。
「気のせいか……」
そして、お風呂に入る為に、そのまま部屋を出た。
机の上のダルマが、また、かすかに揺れていた。
まるで――
何かが、中から目を覚ましかけているみたいに。




