第78話 掴めない角度
川が流れていく。あまりにも心地よい音。
「今すぐ勉強しなくちゃ……」
藍が言うと、Grailは鞄からノートを二冊取り出した。
「これは、椎名さんがそう言うと思って作っておいた教科書です」
二人の間をノートが渡る。
「なるべく分かりやすい言葉で書き記してあります。ですが、全行、全ページに亘って、私が再度解説もします」
川辺に座り込んだ藍は、Grailの印刷にしか見えない文字が並ぶ教科書を開いた。
そこに並ぶ言葉は——既に難解。
——前提。密度は低く設定。0.6g/cm^3程度とする。相対速度は秒速50kmを超広島型原爆の数千倍の運動エネルギーとなる。
「これ……理系の学生ならわかるの……?」
「理系じゃないあなたでも、これから分かります」
藍は一から——いや、ゼロからGrailの説明を聞いた。
しかし——
「……もう一回、お願いします」
Grailは静かに頷く。
「全エネルギーEを維持しつつ、入射角、sinθを最小化します。法線方向に伝達される衝撃成分を逃がすためです」
「……しーた、知らない人なの……」
「分かっています。θが何者かは理解には直結しません。これまでも、あなたが知っている、奥底で理解できていることだけが魔法を呼び起こした」
Grailは立ち上がり、「感覚の話をします」と言った。
そして、指先で角度を示す。
「入射角は、最大でも五度。理想は三・七度。五度を超えると、sin²θが指数的に増大します。四度と五度の差は、“一国”と“山岳一帯”の差です。誤差は——±0.3度以内」
藍の喉が鳴る。
「ゼロ点三……?」
「地平線から見た月の直径は約0.5度です」
「ごめんね、それも分からない……」
「腕をいっぱいに伸ばして五円玉をかざしたとき、その中央の穴から見える範囲がだいたい0.5°に相当し、月がちょうど収まるくらいの大きさです」
静かに続ける。
「この、月より小さい誤差で、星を滑らせます」
「…………」
理解できない。
「一度、成功した時の様子を思い描きましょう。角度が十五度以下になると、クレーターは円形ではなく楕円形になります」
Grailは等高線図に指を置く。
「衝撃波は左右へ広がり、バタフライ・パターンを形成します。衝撃は進行方向に逃げる」
「蝶……」
「はい。蝶の羽のように削れます」
理屈は、きれいだった。
でも。
「それを……どうやって、ぴったり合わせるの……?」
声がかすれる。
「合わせるのは私がやります。あなたは、理屈を感覚で掴むだけで良いです。分かってさえいれば良い」
落とすだけなら、分かる気がする。
“斜めに、星を滑らせる”
そこが、どうしても理解できない。
日が傾く。
影が伸びる。
それでも藍は食い下がる。
「もう一回……水切りの式……」
Grailは何度も説明する。
何度も言葉が変えられる。
何度も石の軌道を見せられる。
何度も、何度も何度も、疲労も見せずに、伝わらないことへの焦燥も見せずに、Grailは藍と向き合った。
だが、太陽が沈んだ。
「ここまでです」
静かな宣告。
「戻りましょう。あちらへの到着は深夜になります」
「でも……」
「椎名さん、ライデンは車ではありません。これ以上時間をかけては、無理が出ます。あなたにも」
藍は、悔しそうに唇を噛んだ。
「……Grailの言う通り……」
「すみません、言葉がキツく聞こえましたか?」
首を振る
「Grailの優しさって、ちゃんと分かってるよ」
◇
馬車の御者台。
夜の風が冷たい。
季節は冬へと向かい始めている。
藍はノートを開いたまま、必死に文字を追う。
そうしていると、手綱を握っているGrailが呟いた。
「……このまま全てを捨てて、別の国でやり直す選択肢もあります。治癒で細々と金銭を貯めて、戦争のない国で、顔料を買う。ここの戦争には関わらない」
藍は顔を上げた。
「……できないよ」
即答だった。
「知っています。一応……選択肢として提示してみました」
闇が深まる。
御者台にかけられたランタンが揺れる。
藍のまぶたが、重くなる。
「椎名さん、荷台へ移動してください」
「やだ……読む……」
何度も目をこすりながら、ページをめくる。
やがて、藍の頭が、Grailの肩に落ちた。
眠った。
ノートが落ちないよう、Grailが静かに回収する。
そして、自分の膝に掛かっていた膝掛けを藍の膝に送る
(できないかもしれないことを提案して——)
目を閉じる。
(結果、できなかった時に傷付くのは彼女だ)
それでも。
(それでも、提示しないという選択は破棄されている)
一瞬、記憶の奥に走る、藍がかつて苦しんだ顔。
——自動的に書き換えられた学習結果。
苦い顔になる。
(私は、人の道具だ)
◇
翌日も、藍の勉強は続いていた。
寮のGrailの部屋。
Grailは昨日とって来た測量データの読み込みを行ってた。
部屋にある執務机では、藍が必死にノートを書き写していた。
Grailはデータを置くと、立ち上がった。
「食事にしますか」
「うん……」
カボチャと鶏肉の、少し甘いシチュー。
王国で、藍が好きだと言った味。
二人は静かに食べる。
藍は食べながらも、ノートをめくる。
教科書と照らし合わせ、何度も行き来する。
夜が更ける。
測量結果の読み込みが進む。
(この地点からは以前測量したものと被っているな。いくらか読み飛ばして、別地点のデータを——)
と、思考してると、小さな声が耳に届いた。
「……うぅ……」
「——椎名さん?」
データを下ろし、執務机にいる藍を見る。
肩が震えていた。
慌ててそちらにいくと、涙が、ぽたりと紙に落ちた。
「皆の命がかかってるのに……!」
顔を覆う。
「私……私、わからないよぉ……!」
後ろから、そっと抱きしめる。
「わからないことは罪ではありません……」
届かない。
「こうしてる間に……皆が……! 皆がぁ……!」
大丈夫だと断言できない。
この世界の戦争を知らない。
いや、知っていたとしても、個人がどう過ごしているのかは分からない。
「私のせいで、私が分からないせいで……!」
自分を責める言葉が止まらない。
「なんで私、こんな、こんな……!」
Grailは迷う。
「椎名さん、あなたのせいじゃありません」
「私のせいだよ!!」
藍が怒ったように立ち上がる。
言葉は彼女の心を逆撫でするようだった。
けれど——
「違います。その責任はあなたが負うものではなく、この地の国家が負うべきものです。そして、あなたはできることを全て——」
「私の責任だよ!! 私が届いたら、皆は助かるんだよ!!」
理論では、触れられない。
「これで、これでもし——」
怒りで弾けていた顔はぼろぼろと崩れた。
「私のせいで、私のせいで皆が死んじゃったら——」
Grailの中で緊急のブザーが鳴り響く。
「私、人殺——」
言わせてはいけない。
それだけは——
Grailは藍の顔に手を伸ばし——
唇を重ねた。
藍の髪が手の中でくしゃりと音を立てる。
脳内で、また別の警報が鳴る。
無意識にGrailの眉が苦痛の形に歪む。
だが、藍の嗚咽は止まり、強張っていた体からは力が抜けた。
ペンが落ちる音がする。
唇が離れると、二人からため息じみたものが漏れる。
Grailは、額を近づけたまま、低く言った。
「藍……あなたは、道具ではありません」
震える声。
「戦争を終わらせるための装置でも、兵器でもない」
一瞬の沈黙。吐息の混じる距離。
「Grail……」
「あなたには心がある……。痛みにもがき、悩み、耐えられない日もある……。それは正しい反応です……。けれど……けれど……」
Grailは痛みに目を閉じた。
「自分を傷付けることだけは……どうか……」
藍の手が頬に触れる。
そして、また唇が触れた。
強く引き寄せられ、そのまま床に座り込む。
何度も顔の角度が変わりながら繰り返し触れる唇。
Grailの中の警報は止まらなかった。
けれど、藍の震えは、ゆっくりと収まっていった。




