第77話 通り過ぎていく全て
静まり返る研究室。
藍は、一人で片付けを進めていた。
机の配置は変わっている。
アルベルトの机そのものはないが、藍に割り当てられていた机をアルベルトが使っていた形跡がある。
彼の荷物は、異様なほど多かった。
書類の束。
詠唱符。
簡素すぎる王国の地図。
時間割のようにびっしりと書き込まれたメモ。
藍とGrailが王国にいる間、彼はずっとここにいたのだろう。
そして、藍が戻ればここを離れることを前提とした部屋の使い方。
(…………)
壁に貼られる、何度も失敗したらしい詠唱符たち。
光路線にならなかったのか、または途中で光が失われたのか。
ただの文字に戻ってしまっている。
同じような地点で、何度も言葉を変えて書き直されている。
魔法として成立する言葉や理論を探し続けているというのが、こちらの字が読めなくても、わかる。
中には——汗か、涙かわからないものでわずかに滲み、シワだらけになった詠唱符も。
藍は、胸の奥が、きゅっと縮むのを感じた。
ここには、藍とGrailを助けようと全力で戦った、アルベルトとヘルマンの時間が圧縮されて残されているようだった。
真実はわからない。
だが、想像はできてしまう。
アルベルトが汗を拭いながら、必死に詠唱符を書く。
途中で光路線が途切れる。
やり切れずに詠唱符を握り潰す。
それを、ヘルマンが丁寧に開く。
何か言葉をかける。
また、書かせる。
そんな、二人の面影——。
藍は、しばらくその場に立ち尽くした。
——コンコン。
控えめなノックの音。
振り返ると、扉の隙間からエレノアが覗いていた。
「あの……シーナ様……」
言い辛そうに、視線を泳がせる。
「……申し上げにくいのですが……測量に行くように、と……通達です。私から、直接お伝えするように言われました」
藍は、ほんの一瞬、目を伏せた。
「……分かった。Grailに伝えるね」
「馬車は、こちらでご用意します」
「ううん、大丈夫」
無理に口角を上げる。
「ライデンと行くから」
エレノアは、少しだけ戸惑ったように頷いた。
藍は研究室を後にした。
◇
Grailの部屋の前に立つ。
ノックをして、扉を開ける。
「……Grail?」
部屋は、すっかり片付いていた。
床にも机にも、余計なものは何一つない。
散らかっていたはずの紙も、全て整理されている。
振り返ったGrailは、笑顔だった。
「椎名さん!」
次の瞬間、藍は視界が揺れた。
ひょい、と軽々と持ち上げられ、くるりと回される。
「Grail、Grail!? どうしたの!?」
「できました!」
Grailの声は、弾んでいる。
「これで、全ては終わります!」
全て終わる——。
それは、恐れる言葉でもあった。
藍の感情が、追いつかない。
ゆっくりと床に下ろされる。
Grailは一度、こほん、と咳払いをした。
「すみません。少し取り乱しました」
「……Grail」
藍は、慎重に言葉を選ぶ。
「アルも、ヘルマンさんも……戦争に行っちゃったよ。私たちは、今日、測量に行かなきゃいけないって」
Grailの表情が、わずかに歪んだ。
「……お二人が、戦争に……?」
視線が一瞬床に落ちる。
「……少し、時間がかかりすぎましたね」
Grailは、机の上からノートを二冊、手に取った。
「とにかく、測量へ出ましょう。防波堤となる二人を排除したと、ギドたちは思っているでしょうし……今は、従うべきです」
藍は、喉の奥がひりつくのを感じた。
「……どこが敵地かわからないね」
まるで、自分の居場所がどこにもないと言われているような感覚。
Grailは、静かに頷いた。
◇
空から、箱が落ちてきた。
地面に叩きつけられ、木箱が壊れる。
中身が散らばる。
Grailは、無言で一枚ずつ、データを拾い上げていく。
例の湖——タリアト湖と繋がり、流れる川。
藍は、川の向こうを想像するように眺めた。
遥か彼方には、切り立つ山岳がうっすらと見える。
「……この川の先に……皆、いるんだよね……」
Grailは、はっきりと頷く。
「はい。ですが——終わらせられます」
「……本当?」
Grailは、ライデンが引いている馬車から等高線図を一つ取り出した。
「ちょうど良いので、順を追って説明します」
Grailが語り出すことに、藍は自らの耳を疑った。
風が流れていく。
そして、確認するように復唱した。
「——彗星?」
「正しくは——彗星核です」
強い頷きだった。
「彗星核は“汚れなき雪だるま”とも呼ばれる、氷と揮発性物質——ガスの塊からできています。地球の水の一部は太古の昔に落ちた彗星に由来しているという説もあるのです」
「汚れなき……雪だるま……」
「はい。なので、彗星核を落とせば——地面への衝突の際、発生したクレーターにはそのままに、熱で雪だるまの氷は溶け、水が残ります」
「でも、隕石を落としたら、周りも酷いことになるんじゃなかった……?」
Grailは川に向かった。
落ちている石を一つと、ぼろりと砕ける土の塊。
「大気圏突入時に彗星核の表面は蒸発、分裂します。衝突時には岩石隕石ほどの衝撃波が出ません。いえ、もはや衝突というより、“融解による地形沈降”に近い」
「じゃあ——じゃあ、辺りを壊さずに、湖だけ置けるってこと?」
「条件を整えれば」
Grailの手の中から石と土塊が落ちていく。
石は一度弾み、転がっていく。
土塊は壊れ、べちゃりと辺りに広かった。
「岩石隕石ほどではないとしても、彗星の実態は“超高速で突っ込んでくる巨大な弾丸”です。スピードだけで言えば、岩石隕石よりも彗星の方がよほど速いです。なので、衝撃波による風圧だけで周囲の森や、離れた場所にある建物すら薙ぎ倒されます」
「……良い案だと思ったけど、やっぱり簡単にはいかないね」
Grailは等高線図を回して藍に向けた。
「いえ、先ほど申し上げた通り、条件を整えれば良いです。そこで、超長時間の思考に入りました」
藍は、悩み髪をぐしゃぐしゃと揉むように頭を抱えていたGrailの姿を思い出す。
「真上から垂直に落とせば今話した通りの現象が起こるので、“水切り”を行います」
瞬く。
聞きなれない言葉だった。
「水切り? ……ラーメン?」
「それは湯切りです」
風が出てきた。
Grailは地図が飛ばないように一つ石を上に載せると、さらに近くに落ちている石を拾う。
川を眺め、数度手の中でテニスプレイヤーのようにポンポンと石を投げて弄ぶ。
そして、「よし」と呟いた。
川に向かって、横薙ぎに石を投げると、石が川の上を何度も跳ね、ついには向こう岸にまで行ってしまった。
人間にはできない異常に緻密な角度の計算を感じる。
「これが、“水切り”です」
藍から納得の声が上がる。
「ははは、本当。ラーメンじゃないね」
「はい、ご納得いただけて安心しました」
Grailは戻ってくると、再び等高線図を指差した。
「というわけで、地平線スレスレ、非常にギリギリの低角度で彗星核を滑り込ませます。すると、衝撃が進行方向に逃げるので——」
指が等高線図を滑る。
「こちらの切り立つ山岳地帯に衝撃を受け止めさせます。ここに向けて、落とします」
短いスパンで線が幾重にも重なる山々。
「すごい……。あそこの山の……続き?」
藍の視線は彼方で白む山脈へと向けられた。
「その通りです。生命はゼロではありませんが、非常に少ない事が予想されます」
「……彗星を斜めに落として、穴が開いて、彗星だった水が残って、湖になる……。湖が二つになれば、奪い合いは終わる……」
藍の中に希望が広がっていく。
「これ、やれたら完璧です!」
頷く。だが、Grailの表情はまだ晴れていない。
「……ただ……位置の指定が非常に……非常にシビアです……。ぐるりとこの星を回って、滑り込ませる。その詠唱符を発動させるには——」
とGrailが言って視線を上げると、藍はその先に続く言葉を理解した。
「……私が、理論に追いつかないと……できない……」
二人の間を、風が走った。




