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第76話 君のための場所

 研究室(アトリエ)には、昼だというのに薄い静けさが満ちていた。


「——まだ、Grailは部屋に?」


 アルベルトの問いに、藍は小さく頷いた。


「……うん。でも、これだけは預かってきた」


 藍は抱えていた紙束を差し出す。

 何枚も重ねられた等高線図。

 現地へは出ていないが、過去の測量と記憶から引き出された、精緻な地形図だった。


「仕事はきっちりやってる、ってわけか……」

 ヘルマンが受け取ると、目を通し、深く息を吐いた。


「……持っていくか。はぁ、やれやれ……」


 それだけ言って、図面を抱え、部屋を出ていく。

 背中には、疲労と決断の重さが滲んでいた。


 扉が閉まるのをアルベルトは見送る。


「仕方ないな。じゃあ、アイに言付けを頼もうかな」


「……言付け?」


 藍が聞き返すと、アルベルトはわずかな逡巡を見せてから口を開いた。


「明日、夜明け前。戦争に行くよ。ヘルマン様と」

「……そんな……いつ決まったの?」

「昨夜だよ」


 あっさりとした返答。

 けれど、その目の奥には、隠しきれない寂しさがあった。


「後でヘルマン様から正式に通達があると思う。ヘルマン様も、Grailが戻るのを待ちたかったみたいだけど……時間切れ、かな」

 ふっと小さな笑いが漏れる。

「そんな……。何があるかわからないよ……」

 藍の声は、わずかに震えた。


「大丈夫」

 アルベルトは穏やかに言う。

「君の加護があるよ」


 そして、冗談めかして付け加えた。


「それに、この研究室(アトリエ)は今、上級公認魔術師が四人もいるなんて前代未聞の配置だしね」


 藍は、笑わなかった。


 その様子を見て、アルベルトは一瞬だけ目を伏せる。

 そして、ゆっくりと藍の前に跪いた。


「……アル?」


 アルベルトは藍の手を取り、その甲に静かに口付ける。


「君は一人でいられるだろうし、私も一人でいられる」

 穏やかな声。

「だから——もし、私が戻らなくても」


 何が続くのか理解することを拒絶するように、藍は首を振る。


「ヨーナスの時みたいに、あまり自分を責めないでくれるね」


 その言葉が引き金だった。

 藍のことだけを心配している。

 アルベルトは戦地に行くというのに。


「……っ」


 藍の目から、涙が溢れ落ちる。

 見せられないように顔を隠して泣く藍を、アルベルトは静かに抱きしめた。


「友情だとしても、その涙が嬉しいよ」


 背中を撫でる手は、どこまでも優しい。


「……本当は、愛情だともっと嬉しいんだけどね?」

「ばかぁ……」


 涙声で吐き出し、見上げた先のアルベルトは小さく笑っていた。

 そして、そっと顔を包まれる。


「キスして行っても良い?」


 藍は何も言えなかった。

 言葉が、どこにも見つからなかった。


 アルベルトは、その沈黙を受け取る。


「……わかってるよ」

 囁くように言った。

「君は、本当はグレイルを愛しているんだよね」


 やはり、何も言えなかった。


「君たちは、一人ではいられない同士だ。だから結婚はしないんだろう? 私の——」

 そこで、一度言葉が変わる。

「——俺の隣は、いつでも空いてるよ、アイ」


 アルベルト・グランハルトという個人からの言葉。


 アルベルトは頬に、軽く口付けると、どこまでも名残惜しそうに藍から離れた。


 そして、いつもと変わらぬ笑顔になり、背を向けた。


「ヘルマン様の補佐をしてくるね」


 扉が閉まる。

 足音が遠ざかる。


 ◇


 寮の裏手、小さな馬小屋。


「……ライデン……」


 藍は、柵に寄りかかるようにして、ぽつりと呟いた。


「私、どうしたらいいの……」


 ぽろぽろと、涙が落ちる。


 ライデンは答えない。

 ただ、藍の頬に顔を擦り付けるように近づいてきた。


 藍はその首にしがみつき、声を殺して泣いた。


 行き場のない感情を、言葉にできないまま。


 静かな午後の光だけが、馬小屋を満たしていた。

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