第75話 終わる手段
寮の一室は、紙に埋もれていた。
床にも、机にも、壁際にも。
同じ場所を示す等高線図が何枚も散らばっている。
黒い主線の上に、セピア色でびっしりと書き込まれた数式や注釈。
だが、そのほとんどに、無情な×印が付けられていた。
Grailは、机に向かったまま動かない。
ペン先が走り、止まり、また走る。
小さく、途切れ途切れに数式を唱えながら、髪を掴むように俯いている。
藍は、しばらくその背中を見つめてから、気づいた。
——何も、食べていない。
「……Grail」
声をかけても、返事はない。
彼は相変わらず、ぶつぶつと数字を追い続けている。
(会話機能、低下するって言ってたもんね)
藍は静かに立ち上がり、部屋の奥にある小さなキッチンへ向かった。
戻ってきたばかりの寮には、ほとんど何もない。
棚を開けると、パンとハム、それから少しの野菜。
それだけで、簡単なサンドイッチを作る。
その間、ふと——王国で過ごした日々が、脳裏をよぎった。
庭にシーツを敷いて、二人で食べたサンドイッチ。
日差しが眩しくて、空を見上げて首が痛くなって。
「腕枕してくれる?」と聞いたら、
「クッションを取ってきましょうか?」と真顔で返されて、
期待外れで、少しだけ拗ねたこと。
Grailがいないと寒くなるよ、なんて言って、くっついてみたら、
何も言わずに、そのまま黙っていて。
ただ、体温だけがそこにあった。
「……あったかい」
そう呟いたら、少しだけ、抱き寄せてくれた。
——あの温もり。
あそこにいると、ここへ戻りたくなって。
ここに戻ると、またあの家へ行きたくなる。
藍は、小さく苦笑した。
どうやっても、折り合いのつかない心だ。
サンドイッチを皿に載せ、ソファ前の机に置く。
「Grail、できたよ」
返事はない。
Grailは、執務机で頭を抱えたまま、相変わらず数式を追っている。
(……今は、機械じゃない)
藍は、そっと近づいた。
庭先で感じた、あの温もりを思い出しながら、背中から、ぎゅっと抱きしめる。
「——っ」
Grailが、はっと顔を上げた。
「す、すみません……。何でしたか……?」
「ご飯、食べよ?」
藍は、少し笑って言う。
「お腹、すいてるよね」
一瞬、迷うような間。
それから、Grailは小さく頷いた。
「……うん。ごめん。ありがとう」
椅子を引いて立ち上がる。
藍を見下ろしたGrailは、そっと藍を抱き、背中をぽんぽんと叩いた。
二人で、静かに食事をする。
会話はほとんどない。
それでも、同じ空間に呼吸が戻っていく。
食べ終えたあと、Grailは長い長い息を吐いた。
「この戦争を終わらせることさえできれば、顔料は解放されます」
そして——と言葉が続く。
「あなたは、帰れる」
藍の指が、わずかに止まる。
「そう、だね……」
Grailは、視線を落としたまま続けた。
「……だから、私は、最善ではなく、終わる手段を選びます」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
(やっぱり……)
「……私がいなくなった後、湖の調停者になるとか……言わないよね?」
Grailは、すぐに首を振った。
「なりません」
静かな声。
「あなたが気がかりで帰れないような事態は、避けるべきです。それに、その選択肢は、すでにあなたによって棄却されています」
「……ありがとう」
藍は、視線を落とす。
「選択肢として、提示できるだけのものを、今作成しています。……後、もう少しです」
「うん……」
Grailは再び机に向かう。
ペンが走り、紙が重なっていく。
藍はソファに身を預け、天井を仰いだ。
Grailの書き込む音だけが、部屋に残っていた。




