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第74話 ギドという男

 研究室(アトリエ)に、控えめなノックが響いた。


「少々良いかのう?」


 扉を開けて入ってきたのは、フリードリヒ・ギドだった。

 穏やかな笑み。だが、その視線は部屋の奥——Grailの机に積まれた書類と、未だ片付けられていない旅の荷へと向いている。


「戻られたばかりで申し訳ないのですが……測量をお願いできないでしょうか?」


 やはり、来た。


「湖周辺、及び河川の再測量。現状、戦況が動いておりまして、聖ヴェクター様の精度が必要不可欠なのです。御身の地図がなければ——魔術師たちも、兵士たちも死んでしまいまする」


 Grailは、椅子に座ったまま静かに答えた。


「——申し訳ありません。現状新たな計測には出られません」


 その声音は、淡々としていた。


「長距離移動の直後です。肉体的、精神的疲労が残っています。測量は、数日後であれば——」


 一瞬、空気が張り詰めた。


 ギドの笑みが、ほんのわずかに止まる。


「……共和国の面々から聞いていてね。天候操作を行ったと。それほどの処理を行えたのであれば、測量程度は大した負担にはならないかと思ったのですが」


 藍の喉が、きゅっと鳴った。

 だが、次の瞬間。


「ギド様、それはいくらなんでも無茶です」

 アルベルトが即座に口を挟んだ。

「昨日、港に着いたばかりなのです。移動、交渉、護衛、すべて連続していました。いくらなんでも急かしすぎです」


「アルベルトの言う通り通りです」

 ヘルマンも低く頷く。

「測量は逃げません。人は壊れます。——順序を誤ってはいけません」


 三人の視線が、ギドに集まった。

 数秒の沈黙。

 Grailは「しかし」と言葉を続けた。

「……以前計測したものの情報は頭に残っています。湖周辺で良ければ、等高線図を作成し、お渡しできます」


 ギドは「おぉ」と笑うと、手を叩いた。

「素晴らしい、素晴らしい。では——それをお願いいたします。……とはいえ、精度は落ちてしまうのかのう……?

 いつも確認すると言う、あの情報はあるまい……?」

「問題ありません。寸分の狂いなく作成します」

 ギドは善良にしか見えない笑みで何度も頷いた。

「情報だけを魔法で呼び起こす、ということですかな。まあ、やり方は何であっても構いませぬよ。では、図の作成だけなら……一両日中になりますかな?」

「明日か明後日になります」

 一瞬笑顔が落ちたのを、藍は見てしまった。


「……そうか。あぁ、いやいや。私が性急だっただけですな。命懸けの者たちがいると思うと、つい、つい」


 その声は穏やかだったが、納得した色は薄い。


「では、改めて。等高線図の作成、楽しみにお待ちしておりますよ。——測量はまた日を置いて」


 そう言って踵を返す。


 扉へ向かう途中、ギドはふと立ち止まり、ヘルマンを手招いた。


「あぁ、そうじゃそうじゃ。ヘルマン君。少し、いいかな?」

「……はい」


 二人は部屋を出ていった。


 残された空気は、ひどく重かった。


「……ギド様は、ヘルマン様の師なんだけどね……」

 アルベルトが、低い声で言う。

「役職も高い。多くの魔法を発明された方だ。……だが」


 その先は、言葉にならなかった。


 Grailは、視線を落としたまま呟く。


「——早急に、解決法を考えなくては……」


 藍は何も言えず、ただその横顔を見つめていた。


 ◇


 寮へ戻ると、部屋の空気はひんやりとしていた。


 机の上に、書き上がったばかりの日誌が置かれている。

 藍はそれを受け取り、胸に抱えた。


「……ありがとう」


 Grailは短く頷き、深く息を吐くと、椅子に腰を下ろした。


「椎名さん」


 呼ばれて、藍は顔を上げる。


「我々の立場は、思ったよりも危ういです」


 淡々とした声だった。


「彼らがあれほど強気に出ている理由は一つ。——我々が“命じれば動く”と思われているからです」

「……どういうことです……?」


 藍が尋ねる。


「本来であれば、抑えつける者と、従う者という構図にはならないはずでした。国民に、私がこの国を見限って去ったという真実を漏らされないためにも」


 言葉を区切り、続ける。


「ですが彼らは、我々が逃げないと踏んでいる。いや、仮に他国へ向かおうとしても——怖くない、と思っていると言ったほうが正しいかもしれません」

「……それって……」

「共和国と、“利害が一致”した可能性があります」


 藍の脳裏に、エライヤの笑顔が浮かんだ。


 ——悪い人ではない。

 ——でも、信用できる人ではない。


「人間たちの思考と工作も、ここまでくると——」


 Grailは、ふっと言葉を切った。


「いや……忘れてください」

 一度、取り消すように首を振り、藍の方を見る。

「椎名さん、これより、超長時間の思考を開始しても良いでしょうか」


 静かな問い。


「その間、会話機能は低下します」

 藍は、少しだけ考えてから頷いた。

「……わかりました。やってください」


 Grailは机に向き直る。


 引き出しを開け、紙を取り出す。

 一本、また一本とペンが走り、数式が書き込まれていく。


 やがて、模造紙が広げられ、地図が描かれ始めた。

 同じ地形。何度も、何度も。


 セピアで書かれた注釈。

 そして、無数の×印。


 頭を抱えながら計算を続けるGrailの背中を、藍はソファから眺めた。


 いつの間にか、まぶたが重くなる。


 Grailのペンの音だけが、部屋に残った。

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