第73話 凱旋
神政国の港に、船がゆっくりと接岸した。
重いロープが桟橋に渡され、人の声が波のように重なっていく。
藍は船室の窓から街を見下ろし、ぽつりと呟いた。
「……懐かしい……」
この街に来た時はあんなに嫌だったのに、今はここに戻ったことがこんなに嬉しい。
外が、にわかに騒がしくなった。
人の気配が増え、ざわめきが歓声に変わっていく。
藍は小さく息を吐いた。
「……そろそろ降りるのかなぁ」
「降りる前に、こちらを」
Grailが静かに声をかけ、手にしていたものを差し出す。
外していた、あの冠だった。
「それ、持ってたんだね」
藍は思わず笑う。
「えぇ。高価でしょうしね」
「わぁ、現金」
二人の間に柔らかな笑い声が満ちる。
藍が軽く頭を下げると、Grailは慎重に冠を載せた。
ひんやりとした感触。
顔を上げた瞬間、藍の瞳に光が走った。
星を閉じ込めたような、その輝きに、Grailは一瞬だけ息を止める。
「……どこからどう見ても、聖女です」
藍は少し照れたように、はにかんだ。
その時、ノックが響く。
「アイ、グレイル。準備が済んだよ」
アルベルトの声。
二人は扉へ向かった。
◇
船のタラップを降りた瞬間、喝采が弾けた。
「聖女様だ——!!」
「お戻りになったぞ!」
波のように押し寄せる声。
視界の先で、一人の男が群衆をかき分けて港へと出た。
「アルベルト! よく戻ったな、優等生!」
ヘルマン・クイーンズだった。
アルベルトが姿を見せた途端、ヘルマンは豪快に彼を掻き抱いた。
「お前ならやると思ってたよ!!」
「ははは、やめてくださいよぉ。いい大人が」
少年のように笑うアルベルト。
二人は体を離すと、ヘルマンは真っ直ぐに言った。
「お前は明日、上級公認魔術師になる。本当によく頑張った」
「ヘルマン様の全てが、私を導きました」
「……お前は俺の誇りだよ」
そして、ヘルマンの視線がGrailへ移った。
肩に手を置く。
「……戻ってきてくれたな」
「ヘルマン様、あなたがどれほど尽力してくれたかが、この場所の雰囲気でよくわかります」
「聖女と聖人が攫われたっていう筋書きは、会議室で盛り上がってばかりの親父たちが決めたことだけどな」
二人は軽く抱き合うと、背を叩き合いすぐに離れた。
そして、ヘルマンは藍を見て、静かに頷いた。
「守り切れたんだな」
「なんとか、ですが」
「そうか。だが、お前の“それ”に、名前はついたんじゃないか?」
Grailが首を振る。
藍には何のことか分からなかった。
そして、「そうか」と言うと、ヘルマンは藍の前で深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました、聖アイ・シーナ様。御身を王国へ送ると決めたご無礼、どうかお許しください」
藍は慌てて手を振る。
「わ、私が行くって言ったんです! やめてください、そんな……」
「ははは」
ヘルマンは顔を上げて笑う。
「通過儀礼ってやつだ」
ホッと藍から息が漏れる。
「じゃあ、全員俺の研究室に戻ろう。まぁ、パレードを通ってになるだろうがな」
「私もですか?」
アルベルトが聞くと、ヘルマンは意味深に笑った。
「……あぁ。お前は期待されてるよ。色々な意味でな」
その時、ゆらりと二人の老人が姿を現した。
フリードリヒ・ギドと、マグヌス・アグノクス。
司法取引をどうするか話し合っていた時に満面の笑みを浮かべていた二人だと思い出す。
「おかえりなさいませ、聖シーナ様、聖ヴェクター様。またこのエル・レシア神政国にお戻りいただけまして、何よりでした」
「さあ、どうぞ、あちらの馬車へ」
マグヌスは一瞬だけ、藍ではなくGrailを見た。
まるで「計算結果」を測るような目で。
「どうか、我らのために“お働き”を」
にこりと笑う。
藍の中に、ゾクリと悪寒が走る。
その言葉の裏にある真意——測量も、戦争も待っているという宣言が、悍ましく彩られているのを感じた。
馬車をすすめる様に扉を開けられるが、藍は振り返った。
「——ヤージャさん、ニカさん。本当にお世話になりました」
「ふふ、忘れられていなくて安心した。共和国はいつでも、御身らをお待ちしておりますよ。神話の世界を案内いただけで興味深かったです」
エライヤが楽しそうに笑う。
「私たちは普段、首都タルキアにいますので!」
ニカが元気よく言った。
藍は二人とハグを交わし、今度こそ馬車へ乗り込む。
ギドとアグノクスが、入れ替わるように共和国の二人の前へ進み出た。
「バラミス共和国の皆様には、感謝してもしきれません」
ギドは深々と頭を下げ、柔らかな笑みを崩さない。
「——さあ、こちらの馬車へ」
エライヤはキセルに新しい葉を詰めた。
「ふふ。ようやく話ができる立場になった、という顔だな」
「えぇ」
ギドは微笑んだまま、視線を細める。
「これにて、我が国は一息つけます。となれば——」
一拍、置く。
「貴国が間もなく迎える、アルケリマン公国との戦争。
我が国から、聖女をお貸ししましょう」
その瞬間、エライヤの手が止まった。
次いで、破裂するような笑い声。
「ははははは! 話が早い」
キセルを軽く振り、にやりと笑う。
「それなら我々も、どのような事があっても——必ず彼らを貴国へ連れ戻そう。どこへ逃げようとも、な」
「心強いお言葉です」
アグノクスが静かに頷く。
「では、その“ご厚意”を前提に、今後の協定を」
笑顔と笑顔が、静かに噛み合う。
そこにあったのは友情でも信仰でもなく、国家が国家を利用する、いつもの取引だった。
——藍も、Grailも、まだ知らない場所で。
それぞれの馬車が、動き出す。
◇
「聖女様がお戻りになったぞ——!!」
街は完全なお祭り騒ぎだった。
藍の乗る馬車は屋根がなく、まさしく凱旋パレード。
「は、恥ずかしい……」
困ったように笑い、小さく手を振る。
「こういう時は堂々とだよ」
アルベルトが英雄然と手を振る。
「さあ、グレイルも」
Grailも手を上げると、黄色い歓声が上がった。
藍は苦笑する。
(魔術省に行く前に、着替えたいなぁ……)
そしてふと、歓声の中で、藍は一瞬だけ、こちらを睨むような視線を感じた。
次の瞬間——
「聖女なら、戦争を終わらせろー!!」
建物の扉の隙間から叫び声が上がる。
そして、他の路地からも。
「私の夫はもう何日も戦場に行ってるのよ!?」
姿を見せない様に、三者三様の訴え。
藍の体が凍った。
アルベルトが馬車の中で立ち上がろうとするのと、藍は我に返り、慌てて座らせ直した。
「だ、だめ。だめだよ、アル」
「だけど、アイ。聖女だろうと人間だよ。……できないこともある……」
「この辺りは地図作成済みです。住所についても記憶しています」
Grailが言う。
藍は強く首を振った。
「本当に。本当にいいの……。皆の気持ちは……分かるから……」
パレードは続いた。
◇
研究室に着くと、エレノアが駆けてきた。
「シーナ様!!」
勢いよく抱きつかれ、藍はよろける。
「わっ!」
「ご無事で良かったです!!」
「ありがとう、エレノア」
背を数度さすり、そっと体を離すと、エレノアはGrailを見上げた。その瞳は、恋する乙女そのもの。
「……正装、素敵です。ヴェクター様もおかえりなさいませ。エレノアはずっと、お待ちしておりました」
今度はGrailに抱きつく。
藍は思う。
(はは、エレノア、本気で落とすって言ってたもんね)
不思議と、胸はざわつかなかった。
もしかしたら、心がさっきの野次で疲れ切ってしまったのか、それとも、もうGrailを手放す気になったのか。
(……ううん。手放せない)
藍は静かに息を吐き、ソファに座った。
Grailは「ありがとうございます」とだけ言って、エレノアの背中をぽんぽんと叩いた。
体を離そうと一歩足を引く——が、離れない。
「彼女はグレイルの恋人かな?」
アルベルトが言う。確かにそうとしか見えない距離感だ。
「……エレノアさん?」
Grailの首に手を回したまま、真っ赤な顔でエレノアが笑う。
「ふふ、ヴェクター様? 魔法を、教えてくださいませ!」
「いえ、今日はできません。椎名さんの精神疲労が強いです」
Grailに腕を解かれると、エレノアはちぇ……と小さく言った。
Grailは藍の隣に座ると、そっと藍の手を取った。
「……大丈夫です。あなたに責任はありません」
「Grail……」
「あなたの祖国はここじゃない。この痛みは、あなたが引き受けなくていい」
藍は目を閉じ、Grailの手に手を重ねた。




