第70話 境界線、破壊
夜明け前、森はまだ眠っていた。
湿った土と草の匂い。
洞窟の外が、わずかに白み始めている。
Grailは外の光量変化を観測していた。
日の出まで、あと二刻ほど。移動を再開するなら、その前が望ましい。
膝を見下ろすと、そこでは藍が眠っている。
彼女はGrailのあぐらに頭を預け、無防備に呼吸を繰り返していた。
そして大切そうにGrailの手を握っている。
体温。脈拍。呼吸数。いずれも安定。
そのすぐ隣で、アルベルト・グランハルトが眠っている。
(せっかく人の体温が側にあるというのに……)
思わず苦笑が漏れ、ハッと口を閉じる。
こうした肉体の不制御性が上がってきている。
藍は小さく身じろぎすると、Grailの手に顔を擦り付けた。
「Grail……」
小さく名前を呼ばれる。
「はい、おはようございます」
しかし、返事はない。
呼吸は眠りのリズムのままだった。
(……寝言か)
Grailは藍を見下ろし、空いている手で藍の髪を整えた。
◇
夕暮れ、壁が広がっていた。
共和国との国境。
壁にいくつも開いている穴のような出入り口を、馬車や人が出入りしている。
皆、番兵のような者に荷をチェックされたり、話を聞かれたりしていた。
三人は路地から壁を観察していた。
「ここは、測量に来たことがありません」
「あれの向こうは国境だから、取り扱いとしては慎重だったんだろうね」
アルベルトはグレイルの言葉になんでもないように返す。
「あの、牛の中に入っていくんですか……?」
「そうなるね」
うわぁ、とアイは声を上げる。
「ただ——」
アルベルトは壁の方を何度も見渡し、舌打ちをした。
「……困ったな」
「どうかしましたか?」
「約束していた商人の馬車が、いない」
毎日、夕刻。同じ場所で待ち合わせをする約束だった。
十日経っても戻らなければ置いて行く、という取り決めも。
だが、いない。
期限にはまだ猶予があるはず。
「——宿屋かもしれない。……少し見てくるよ。二人はこの辺りで身を潜めていてくれるね」
アルベルトは二人が頷くのを見ると、路地の向こうへ軽く駆けた。
そして、曲がろうとすると——
「そこの若いの」
低く、掠れた女の声。
物陰から、フードを被った女が現れた。
キセルを咥え、ゆらりと立っている。
アルベルトの手が、即座に杖ペンへ伸びる。
「……何者だ」
「おぉ、怖い怖い」
女は笑った。
ペン先を詠唱符用紙に下ろす。
これは、国内外問わず攻撃の意思表明にあたる。いつでも打てるぞ、と。
「……名乗れ」
「その前に——聖女様は、どちらかな」
その瞬間。
アルベルトが詠唱符に光路線を引く。
極限まで省略された、戦争用魔法陣。
そも、アルベルトの研究内容は詠唱符の簡素化、簡略化。
ヘルマンの考案した、人々を唸らせた殺傷魔法の理論すら簡素化に成功している。
が、同時に、女も地面へキセルを走らせ、光路線を生み出していく。
三秒にも満たない時間。
生み出された魔法陣は書いているうちに詠唱符を離れだし、文字と陣を宙へと浮かび上がらせていく。
そして——互いからほぼ同時に、吐き出すように火焔が上がる。
路地裏が瞬時にあり得ない熱に晒される。
が——魔法は、相殺された。
「……ッ!」
アルベルトは舌打ちをする。
(只者じゃない……!)
ヘルマンと同等。いや、それ以上の可能性も。
アルベルトが次の魔法陣へ移ろうとした時。
「——あなた、バラミス共和国の!?」
アイの声。
女は楽しそうに笑い、フードを下ろした。
「やっと出てきたね、お姫様」
銀がかった髪。鋭い目。
Grailが「エライヤ・ヤージャ……」と呟く。
「聖人に覚えていてもらえているとは光栄なことですねぇ」
楽しそうに笑うと、エライヤは胸元から一冊の本を取り出した。
「バーニーとかいう小姓に頼まれてね。良い“貸し”が作れそうだったから来てみたよ」
アルベルトにはその本が何なのかわからない。
だが、アイは、女の差し出したものを見て、息を呑んだ。
「Grailの日誌……!」
そういうことかとアルベルトは納得する。
「王国側からの踏み絵かとも思ったけれど、この王国の文字でも神政国の文字でもない手記を渡されたから、信じて来てみたよ。貴君らは、私が外まで送り届けよう」
差し出された手記を、アイは恐る恐る受け取った。
「——ただし、高く付く。共和国と王国の不仲の一歩になりかねないからね」
「……代わりに神政国は貴国への友情を誓おう」
アルベルトが言うと、エライヤは嬉しそうに目を細めた。
「ありがたい申し出だ。聖女様と聖人様も、そうしてくれると嬉しいな」
グレイルとアイへ視線が移る。
「——友情を約束はできない。だが、この恩は忘れない」
「それで充分さ。——さぁ、こっちだ」
エライヤが背を向けて歩き出すと、アルベルトはようやく杖ペンを下ろした。
三人でエライヤの後に続く。
アルベルトは一つ、質問を投げた。
「私が頼んだ商人を知りませんか?」
「そこで共和国の葉巻を路上販売していた男だろう? 市壁の警備体制が上がってる。積み荷を調べられるリスクが高すぎた。先に帰らせたよ」
一行は、豪華な宿の庭へと入った。
馬車が何台も並び、共和国の魔術師たちが頭を下げる。
そして、若い女が駆けてきた。
「ヤージャ様! ほんとにいたんですね!」
「あぁ、ニカ。あのバーニーとかいうのに、金を払いたいくらいだよ」
ニカと呼ばれた若い女が手招く。
「こちらへ! この荷馬車は祝いの品を積んできたものです。中は——」
ガポ、と音を立てて底が開く。
二重底だった。
アルベルトは眉を顰める。
「準備が良すぎますね。王国側の罠かと思うほどに」
「はははは! 良い警戒心だ。だが、安心しろ。これは、攫えそうなら攫うつもりだったから用意しただけさ」
エライヤはあっけらかんと言った。
「だが、無理だとすぐに分かったさ。あの祝宴の場で、お二人が魔法を使う姿を見てな。王国はその抑止のためにも、貴君らに魔法を使わせたのかもしれない」
アルベルトの中に理解が走る。祝宴には行っていないが、この二人の魔法を使う姿は通常では考えられない。
光路線になっていない魔法陣をグレイルが完成させ、アイが触れるまでは魔法として発動しない。
それはつまり——
「光らない魔法陣を複数持ってるかもしれない、いつでも魔法を撃てる相手なんて、普通の魔術師じゃ相手にもならないだろうさ」
ありえない話だが、事実アイとグレイルはそうだ。
そして、たった一度魔法を行使する姿を見ただけで、“詠唱符はその時に書くもの”という先入観なくその答えに行き着くこの女——。
(……恐ろしい人だな)
アルベルトは共和国のエライヤ・ヤージャの名前を、心のメモにしかと残した。
◇
三人が底板の中に横にかると、馬車は動き出した。
藍は祈るような気持ちで板の隙間を見つめた。
その時、検問の声がかかった。
荷の確認。
ギシ、ギシ、と馬車の中を検問官が歩いていく。
藍はギュッとGrailの手を握った。
いくつかの箱を開け、メモを取る。
そして、降りて行った。
「どうぞ、ご苦労様でした」
馬車が進む。
馬の足音が何度も反響し、市壁を潜る気配を感じる。
そして、外に出た。
Grailの手を握る手から力が抜け、藍はほっと息を吐いた。
——その時。
「待て!!」
叫び声。
「その荷車! 轍の深さが積み荷に対しておかしいぞ!」
その時、馬を強く打つ音が弾け、馬車が加速する。
「共和国の国境を跨がせるな!!」
馬車の近くに衝撃が着弾したのを感じる。
Grailとアルベルトが底板を跳ね除けて起き上がると、藍も咄嗟に持たされていた詠唱符を広げた。
ここで捕まれば、アルベルトもエライヤたちも——。
いや、Grailも自分もどうなるか分からない。
——何でもいい。
——一つ。
取り出した詠唱符に書かれた魔法陣の中心には、“雷”の文字。
強い視認性と、それだけで意味を持つ表意文字。
これは強すぎる。
いくらなんでも——
そう思った瞬間、Grailの手が肩を抱き、指を刺した。
「藍、地面!!」
理解は、即座だった。
「——雷鳴!!」
魔法陣に触れた瞬間、それは光を放って消え——空には漢字と数式の並ぶ、Grailの書いた魔法陣が張り付いた。
追いかけてきている衛士たちが空を見上げる。
そして、瞬く間もなく空間が罅割れた。
雷光は一瞬だった。
光から一拍遅れて、激しい衝撃と爆音が風と共に襲う。
皆爆風から目を守るように顔を覆った。
馬車と追手の間に、深すぎる溝が刻まれる。
抉られた大地を前に、馬がいななき、足を止める。
——遠ざかっていく。
誰も、越えられない。
馬車は、境界線を越えた。




