第69話 三人の夜
森は、夜に向かって静かに沈み始めていた。
藍はローブの上から、さらに目立たない色のローブを羽織り、王冠めいた装飾もすべて外していた。
今の彼女は、祝宴の主役でも、聖女でもない。ただの旅人だ。
アルベルトとGrail、その三人で、街と街の間を歩いていた。
森の中を流れる川沿いの道。足元は湿っているが、視界は開けていた。
「……それにしても」
アルベルトが、感心したように言った。
「グレイル。よくこんな細部まで覚えているね。地面の傾斜だの、滝をかわす道だの……。助かっているけど……やっぱり君は常人離れしてるなぁ」
「測量時の記録です。安全性の高い経路のみを選んでいます」
淡々とした答えに、アルベルトは苦笑する。
「普通、“記録”は見て確かめるものじゃないかい……?」
「そうとも言います」
三人で歩いていると、ふいに藍が足を止めた。
「……どうしました?」
「……ちょっと、足が……」
視線を落とすと、儀典用の靴の縁が、藍の足に赤く跡を残していた。
慣れない靴だ。歩き続ければ、確実に悪化する。
「今日は、ここまでにしましょう」
Grailは即座に判断した。
アルベルトも異論はないと頷く。
ほどなく、小さな滝の横に、浅い洞窟が見つかった。——いや、Grailが知っていたのだが。
雨風を凌ぐには十分すぎる場所だった。
「座ってください」
Grailは藍を岩に座らせ、靴を脱がせる。
診察が始まる中、アルベルトは周囲を確認しながら、寝床の準備に取りかかった。
枯れた草を集め、地面に敷き詰める。
その上に、余分なローブや外套を重ねる。
冷たさが、直接体に伝わらないように。
準備が整う頃、Grailの診察も終わり、藍はほっと息を吐いた。
「グランハルトさんが用意して下さった寝床に移りますか?」
洞窟から見える範囲の空を見上げる。
「椎名さん……?」
藍は軽く首を振ると、少しだけ困ったように笑った。
「……なんだかんだ、あの家、長くいましたよね」
「……そうですね」
「好きだったな、なんて」
岩から立ち上がると、裸足のままペタペタと洞窟の外へ向かった。
しゃがむと、月明かりが落ちる範囲を指でなぞる。
「二人で寝転んだ絨毯も。ふざけ合った川も。集めた落ち葉も……毎日頑張った料理も、買い物も……」
言葉が、少しずつ柔らかくほどけていく。
「あそこ、私の巣になりかけてたんだなぁ」
昨日食べきれなかったご飯も残ってるね、なんて。
そんな些細なことまで、思い出してしまう。
そして、ぽつりと。
「……日誌も置いてきちゃった」
Grailは、静かに言った。
「……戻っても、良いんですよ?」
洞窟の中で、アルベルトが顔を上げる気配がする。
藍は首を振った。
「ううん。良いの。今じゃなきゃ、もう戻れないから」
月明かりをなぞっていた手を引っ込める。
「……寝よっか」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、体がふわりと浮いた。
「はぇ?」
Grailが藍を抱き上げていた。
何も言わず、寝床へと運び、そっと下ろす。
それを見て、アルベルトが小さく口笛を吹いた。
「グレイル、少し変わったかな?」
「いえ。変わっていないと思います」
「そう、かな。まあ……前から過保護な保護者だったか」
軽い調子の会話。
藍は、アルベルトをちらりと見上げる。
——変わらないな。
そう思った。
それに比べて、自分は。
(……決定的に、変わっちゃったな)
藍を挟むようにして、Grailとアルベルトが腰を下ろす。
明日の移動工程を、低い声で確認し合う。
「国境には、共和国の商人の馬車を待たせてあります」
「荷物の検査などはないんですか?」
Grailの問いに、藍は確かに、と思う。
「アルはどうやって入ってきたの?」
「屠殺された牛の内臓を抜いて、そこに入ってきたよ」
アルベルトが冗談めかして笑う。
だが、その過酷な潜入方法。
——命が、かかっている。
その時、Grailが詠唱符用紙を取り出した。
「護身用にいくつか詠唱符を作成しておきます」
閃光。反重力。雷。真空。
次々と、無駄のない線で書かれていく。
すべて丁寧に畳まれ、魔法陣に藍が触れないようにしてから手渡された。
「……これ、閃光以外は……殺傷能力、ありますよね?」
藍の問いに、Grailは真剣な目で答える。
「あなたが殺されないために、必要です。他国に渡るくらいなら、殺してしまう。そう考える人間がいても、おかしくありません」
「そんな……。でも……人なんて叩いたこともないのに……」
自分の命がかかっているからと言って、咄嗟に人を殺める判断ができる気がしなかった。
藍が呟くと、アルベルトが肩をすくめて笑った。
「自分のために使えないなら、私やグレイルのために使ってくれないかな。私たちを助けると思って」
それなら、まだなんとかできそうな気がした。
夜は、静かだった。
「さあ、寝よう」
「はぁい」
藍が寝転がるが、二人は座ったまま動かなかった。
「どしたんです? 二人とも」
「咄嗟の時に動けるように、今夜は私は座ったまま眠るよ。グレイルも横になって、体を休めて良いよ」
「グランハルトさん、あなたは何日も座ったまま寝ているはずです。夜の見張りは私が行います。横になってください」
アルベルトは僅かに悩む顔をすると、静かに頷いた。
「そう、だね。あまり疲労が蓄積すると判断が鈍りそうだ」
「はい。気にせずどうぞ。私は昨日も一昨年も十分な栄養と、十分な睡眠を得ています」
愛の隣にグランハルトが寝転ぶ。
程なくして、グランハルトからは寝息が上がった。
「疲れてたんですね……」
「小さな物音ですら恐ろしかったはずです。全身が緊張していましたし、瞳孔や発汗の様子も余裕のあるものではありませんでした」
藍は全く気が付かなかった。
アルベルトはいつものなんともない顔をしていたから。
起き上がり、アルベルトを見下ろす。
手には杖ペンと詠唱符が握られたままだった。
そっとアルベルトの髪を避けてやると、Grailが「良かったですね」と穏やかに言った。
「ん?」
「やっと、人の体温です。さあ、眠りましょう」
藍は反論したかったが、アルベルトが「ん……」と苦しげな声を上げたので、口をつぐんだ。
三人、身を寄せ合うようにして目を閉じた。
森の音。水の音。
遠くで、何かが動く気配。
——ここから先は、もう戻れない。
それでも。
この二人となら、進める気がした。
夜は、そのまま深く、森を包み込んでいった。




