第67話 保持されなかった選択肢
——その選択肢は、保持されていなかった。
Grailは、自身の思考領域を静かに点検していた。
提示したばかりの案——湖の共同管理、Grail Vectorという第三者による恒久的な調停者。
国連PKO、技術独占ら人格的信用を一人で背負う提案。
合理的ではある。
破壊も、即時の流血も避けられる。
戦争の速度を落とし、人の死を抑制できる。
だが——
(これは、選択肢ではない)
その案を実行するということは、Grailが湖から動けなくなることを意味していた。
二つの国の境界に縛られ、永遠に監視と調停を続ける存在になる。
それはすなわち——最優先項目である藍の時間を、藍の人生を、度外視する案だ。
それは選択肢ではない。
最初から、存在していなかった。
(……だが、今は)
今、藍は「国を選べ」と迫られている。
王国か、神政国か。
あるいは、共和国か。
今ここで、彼女にそれを選ばせるわけにはいかない。
——選ばせないためには、
傷つく可能性があっても、提示しなければならない選択肢がある。
Grailの中で、一つの記憶が浮上する。
ヨーナス・クラウゼ。
あの日、彼の死を知った時の藍の声、顔。その全て。
Grailはあの時の内部処理は今も生きている。
「正しさ」と「彼女の笑顔」は、必ずしも一致しないということ。
そして、発生した再定義——PRIORITY QUEUE
・Primary: SHIINA AI — Psychological Integrity
——第一優先:椎名愛 心理的完全性
・Secondary: SHIINA AI — Physical Safety
——第二優先:椎名愛 身体的安全
・Tertiary: Mission Continuity
——第三優先:ミッションの継続性
命令入力なし。
自律更新。
(あの絶望は、二度と繰り返させない)
Grailは失敗する自由も、彼女が選べるようにすると決めた。
選択肢として、傷付いたとしても提示しなくてはいけない。
ヤージャは「さて」と言うと、また一つ吸い終わった煙草をコン、と捨てた。
「今日は良い夜だった。貴君らが、もし我々を必要とするなら——我々はいつでも胸襟を開いておりますよ。正式な席も用意しましょう」
ヤージャが、薄く笑う。
「ではな。——有意義な話し合いだった。感謝します」
ニカと共に、ヤージャは踵を返した。
そして、カーテンを払って広間に戻る。
「ご苦労様でした」
待っていた他の共和国の魔術師たちに言われ、軽く手を挙げる。
「ヤージャ様、……なんで、あんな言い方したんですか?」
ボーイから咄嗟に葡萄酒を二つ受け取りながら、ニカが言う。
「共和国、嫌われますよ!?」
「嫌われないさ」
ヤージャは肩をすくめた。
「事実を並べただけだからな。私はあのお姫様が“どちらかを喜んで選ぶ人間じゃない”ってことを、最初から分かっていた。彼らの行動の動機は地位でも名誉でもない」
「……爵位を断ったからですか?」
「ああ。だから、今のは——」
ニカから葡萄酒を受け取る。
「いわば、試し打ちってところだ」
「試し打ち……?」
「この先に待つ残酷さに耐えられなくちゃ、共和国なんて来られやしないだろう?」
ニカが苦笑する。
「いやぁ……来ること前提みたいに言いますけど」
「来るしかないと思ってもらわなきゃ、うちが困る。私たちは共和国を守らなくちゃいけない」
ヤージャは天井を仰いだ。
「アルケリマン公国の奴隷商は、人攫いを繰り返してる。こちらとて、戦争は近い。国民感情は行き着くところまで行き着いている」
「嫌ですねぇ……」
「本当に嫌だよ。公国とやり合う時には、あちらさんは奴隷を引き立てて盾にしてくる。私たちがまともにやって、正気でいられる相手じゃない。数の暴力という意味でも公国は共和国を凌駕する」
「奴隷なんかで豊かになって、嬉しいんですかね?」
「嬉しいんだろうよ」
だが、と、ぽつりと声が落ちる。
「……あのお姫様の、悲しそうな顔。あんな顔をさせてしまっては……彼らが共和国に来たとて、私はもう、二度と口を利いてもらえないだろうね」
ニカは何も言わず、ヤージャの背をそっと撫でた。
◇
「湖の調停者になるなんて——ダメですよ!!」
藍の声は、はっきりしていた。
Grailの生涯を、国と国の平和のために縛るなんて、考えられなかった。
「なんで、そんな……そんなこと……!」
責めるような視線。
Grailはそれを真正面から受け止めた。
「分かりました。選択肢の提示は、終わっています。あなたがそう言うのなら——私は、この選択肢を再び棄却します」
「え……?」
藍の目が見開かれる。
「い、いいの……?」
「構いません」
Grailは微笑んだ。
「他の案を探しながら、また過ごすだけです」
「……そんな、のんきな……」
「今日明日で、どうこうできる話でもありません」
事実として述べる。
「でも……戦争はもう始まってるんですよね……?」
Grailはため息混じりに「えぇ」と頷いた。
「……みんな、戦ってるかもしれない……。神政国は、今どうなっているんだろう」
答えはない。知る術がない。
夜は静かに進んでいった——。
◇
祝賀会が終わる。
「馬車を回しますよ」
バーニーが言った。
藍は少し体を動かさなくては気持ちの整理も付けきれないと思った。
「……歩いて帰ろうかな」
「ですが、そのようなお姿で……」
「大丈夫。神殿も見えてるし」
バーニーの隣から、ロアが一歩前に出た。
「歩いてお戻りになるなら、私も警護として付きましょう」
Grailは何も言わなかった。
藍が歩き出すと、Grailは、自然とその後を追った。
目立たないよう、暗い道を選ぶ。
閉塞した夜。
少し離れたところからついてくるバーニーたちの響く足音。
表通りからは、祭りの喧騒。
——まるで、もう戦争に勝ったかのような空気。
(……この人たちも、裏切れない)
そう思った、その瞬間——
暗闇から、手が伸びた。
強い力で、藍の腕が掴まれる。
「——っ!」
抵抗する間もなく——闇に、引き摺り込まれる。
「椎名さん!!」
Grailの声が、夜を裂いた。




