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第64話 選べない夜

 神殿の脇にある屋敷へ戻る道は、昼間とはまるで違って見えた。


 石畳に落ちる足音は吸い込まれるように小さく、頭上では星が、濃い夜空に無数に瞬いている。

 その光は、屋敷の前に広がる池にも落ちていて、水面は、空をそのまま閉じ込めたようだった。

 二つの月が寄り添うように浮かぶ。


 藍は、家の前に架かる小さな橋の上で足を止めた。


「……どうしました?」


 Grailの問いに、池に映る星を見つめたまま、ぽつりと零す。

「……どうしたらいいのか、分からなくて……」

 Grailは何も言わず、藍の背にそっと手を置いた。

 撫でるように、一定のリズムを重ねる。

「最初は……神政国が勝てばいいって、思ってた……。勝たなきゃ、皆が傷付くって思ってたから……」


 藍は自分の唇も声も震え出すと、ぎゅっと目を閉じた。


「でも……もし、神政国だけが力を持ったら……バーニーみたいな人が、また生まれるかもしれない」


 夜風が、池の水面を揺らす。

 星と二つの月が歪んだ。


「ここにいる人たちの生活も……壊れるかもしれない……!」


 Grailの手が、少しだけ強く背に触れた。


「それを選べないのが、人間です……」


 静かな声だった。


 藍は振り返る。


「……じゃあ、あなたなら選べる?」


 Grailは少し考えるように視線を伏せてから、答えた。


「私は、武力行使に出る前に、国同士の話し合いを推奨します」

 淡々としていた。

「この戦争の始まりの理由を分解し、互いに手打ちにできる地点がないかを探すべきです。可能であれば、信頼できる第三国に仲介を依頼することも選択肢になります」

「……第三国って……どこ……?」


 藍はこの二つの国しか知らなかった。

 国が二つしかないなんてありえないのに、これまで他にも国があるなんて思いもしなかった。


「この大陸の地形から考えると……委任先にはバラミス共和国が考えられます。エル・レシア神政国とは面しておらず、直接の利害関係が薄いです」

「そこがいい! そこにお願いするように言ってみましょうよ!」


 藍は思わず声を上げた。


 Grailは、ゆっくりと首を振る。


「それには、必要条件があります」

「……なに?」

「バラミス共和国が、エル・レシア神政国と、ここ——メギスト王国を挟み撃ちにしないという前提が確認できることです」


 藍の表情が曇る。

「まず、地形を整理します。我々がずっといた神政国はここより南。海と山に囲まれていて、陸側には蓋のようにここ、王国が存在します。王国の北にはバラミス共和国があるわけですが——簡単に言えば、この王国はサンドイッチの具です」

 藍が理解した様子を見ると、なので、とGrailは続ける。

「もし北の——上のパンの共和国が、王国を手に入れるまたとない機会だと睨み、下のパンの神政国と結託すれば、王国は戦線を二つ持つことになります」

「戦争が……増える……?」

「はい。下手をすると南北に引き裂かれ、分割統治となりかねません。王も、魔術師たちも、戦争責任という形で処刑される可能性が高いです」


 藍は小さく息を呑んだ。


「もし第三国の仲介を頼むのであれば、まずはバラミス共和国との関係性の調査と、共和国の安定性。軍事的な力関係を見極める必要があります」


「……だめだね」

「はい。現状では」

「他にも国はないの?」

 Grailは別の名を挙げたが、そこが奴隷を買う国であること、王国と友好関係にないことを説明した。

 また異なる国では遠すぎて、そもそも援助に意味を見出してもらえない、とも。


「……やっぱり、ダメだね」


 藍は肩を落とした。


「……この戦争の始まりって、なんなんでしょうね……」


 Grailは少し間を置いて答えた。


「王国の文献を含む、これまで参照してきたものを読んできた限りでは……どちらが始めたとも言えないものとなっています」

「つまり……?」

「メギスト王国が海へ向かって領土を広げようとしたとも言えるし、エル・レシア神政国が、真水を必要として湖へ侵攻したとも言えます」


 池の水面が、また揺れる。


「どちらにとっても、あの湖は重要な場所です。……それでありながら——」

 Grailは静かに付け加えた。

「どちらのものでもない」


 体の隅々まで凍っていくようだった。


「……私たち、どうしたらいいんでしょうね。……バーニーは、自分をゴミにしたって……神政国のこと、そう言ってた」

 藍の声は掠れていた。

「どんな気持ちで、あの言葉を……」


 震えが止まらない。


 Grailはもう一度、同じ言葉を繰り返した。


「椎名さん。それは、あなたの痛みではありません。引き受けない方がいい……」

 藍は小さく首を振った。

「……分かってる。でも……痛いよ……」


 冷たい夏の夜風が吹き抜ける。

 体の芯から冷えていく。


「……ここは冷えます。寒さも暗さも、心の痛みを増します」

 Grailはそう言うと、藍をそっと抱き上げた。

 抵抗する間もない、慣れた動き。


 屋敷の中へ入る。

 灯りの落ちたリビング。

 夏で使われていない暖炉の前。


 ソファにそっと下ろされ、Grailが離れようとしたが、藍はGrailの首に縋った。

「……Grail……。今……人の体温が、いるみたい……」

「……ちょっと待ってね」

 Grailが離れていく。

 藍は寒さに自分の身を抱いた。


 Grailからブランケットが掛けられ、ソファの上からバラバラとクッションが落とされていく。

 何をしているんだろうと思っていると、Grailは藍の前に跪いた。

 足から靴が大切に抜かれていく。

「…………」

 藍はGrailの様子をじっと見た。

 靴を揃えて置くと、Grailは藍に腕を伸ばした。

 それに反射で腕を伸ばし返すと、Grailは藍を抱き上げ、ソファにもたれるように床に腰を下ろした。

 毛足の長い絨毯が素足に触れる。柔らかい。

 周りはクッションの海のようになっていた。


「少しでも居心地が良いようにしました。……人の体温として、成立しますか?」

「うん……成立する」

「良かったです」


 一定の速さで髪を撫でる指が滑る。

 藍はしばらくGrailの体温に身を預けた。


 そして、ふと気が付いた。


「……Grail?」

「はい、Grail Vectorです」

「タメ口で話してるの、私だけだね」


 Grailは少し考えてから答えた。


「はい。肉体の距離が近いので、あなたの心を守る境界として、口調はこちらで統一しています」


 藍は少し悩んでから、言った。


「……大丈夫だから、タメ口で話そ。今は……お友達」


 Grailは微笑んだ。


「いいよ。でも、もし椎名さんが僕を人だと思ったり、何か線を越えそうだと思ったら……また戻そうね」


 藍は、心の中で呟いた。

 ——もう越えてるよ。

 ——戻れないところまで行ってるよ。

 どちらも口には出さなかった。


 藍は衝動的に、「えい!」とGrailを押し、二人でクッションの中に転がった。


「Grail……グレイル。……ありがとう」

 Grail Vector Protocol Applicationではなく、人としてのあなたに。

「いえいえ。でも、何が?」

「いつも……いろいろ考えてくれて」


 Grailは小さく笑った。


「人工知能って、そのためにあるんだよ」


 藍はGrailに抱きつき、目を閉じた。


「……安心する」

 幸福の香り。帰る場所の温もり。愛しくてたまらない人。

「——良かった。僕も安心するよ」


「え?」

 藍は顔を上げた。

「Grailも……不安になることがあるの……?」

「……正確には不安っていう感情ではないんだろうけど、僕も、“もしこうだったら”とか、予期不安に駆られることはよくあるよ。心拍や呼吸の変化、筋肉の硬直、発汗なんかでも掴んでる」

「そうなんだ……。なんでも分かるのに、“もし”なんて考えるんだね」

「はは、なんでもは分からないよ。この国に初めて連れて来られた時もそうだった。君が、あの静寂の塔のどこかにいたら……もし、何かされていたら……って、ずっと考えてた」


 声が低くなる。


「……恐ろしくて、言われたことに従うしかなかった」


 Grailは静かに一度目を閉じると、隣で顔を上げる藍を捉えた。


「君が無事で、本当に良かったよ」


 いつもの“大丈夫”の笑み。


 藍は、泣きそうになりながら首を伸ばした。

 そして、Grailの額に、そっと口付ける。


「……神官って、こうやって祝福することもあるって」

「そうだね。僕たちの世界でもそうだった。人の文化は、場所が違っても大きく乖離しないものだね」


 Grailは見下ろす藍の頬を撫でると、親指で唇に触れた。

「乾燥なし。毛細血管の透けよし。栄養状態良好」

「いらない検査だよぉ」

「はは、そっか」


 Grailはそのまま藍の頭を胸に引き寄せると——同じように、額に口付けた。

「椎名さん。どう転んでも、君は大丈夫」

 優しい言葉に藍は目を閉じる。

「——最後には、必ず帰れるよ。全てを引き受けなくて良い。今は、眠りな」


 ——必ず帰れる。


 それは、神政国に? それとも、日本に?

 藍は聞かなかった。

 日本にだとしたら、帰るなんて、そんなことはもう忘れていた。

 司法取引の日。

 Grailに掴まれて、Grailに捕まってキスをされた時に。

 この世の全てを忘れる、人生を変えてしまうキスだった。


 やがて、Grailの呼吸が規則正しくなる。

 寝息。


 藍はそっとGrailの頬に手を当てた。

 彼だって疲れてる。でも、一度も自分を優先したことはない。

 ある意味、子供みたいなもの。

 自分の限界がわからない。どこまでも、藍のために走り続けてしまう。


 藍は眠るGrailの唇にキスをした。

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