第63話 拾われた者の居場所
魔術会館——いや、この国では魔術宮と呼ばれている場所に、藍が足を踏み入れたのは、これが初めてだった。
黒い石の床はよく磨かれ、足音が柔らかく反響する。
天井は高く、壁には複雑な紋様が刻まれている。装飾というより、長い時間をかけて積み上げられてきた知識そのもののようだった。
「こちらです、どうぞどうそ」
バーニーの声に従い、長い回廊を進む。
やがて、扉の前で足が止まった。
「シーナ様とヴェクター様の術式部屋はこちらになります。魔術会館の研究室と同じように使ってくださいね」
扉が開いた、その瞬間。
「バーナード、戻ったか」
低く、落ち着いた男の声が響いた。
藍は、思わず足を止めた。
そこに立っていた男を、覚えている。
Grailが拘束されたあの日、ヘルマンを殴った人物だ。
「戻りました〜」
バーニーは、いつもの調子で軽く手を振った。
「では、シーナ様とヴェクター様は、こちらで地図など作成されてください。必要なものは揃ってますので!」
男が一歩前に出ると、Grailが藍との間に入った。
何を言うのかと思うと、男は頭を下げた。
「……ヴェクター殿、シーナ殿。あの時は失礼しました。私自身も抑えが効いていなかったうえ、部下も統制できていませんでした」
Grailは何かを考え、すぐに首を振った。
「構いません。私も皆さんを転ばせましたから。それに、あなたには殴られていません」
事実だけを述べる、淡々とした声。
「はは、記憶力が良い——いや、あの状況ですら、冷静でらっしゃったのですね」
軽い笑いが上がり、それが消える。
「私の名前はロベルト・ロアです。よろしくお願いします」
——ロア。
藍は反射的に、バーニー——バーナード・ロアの方を見る。
「僕の雇い主です」
バーニーは、にこりと笑った。
「じゃあ、僕、お茶を出してきますね!」
そう言って、軽やかにミニキッチンへと入っていく。
扉が閉まると、空気が変わった。
ロアは、小さく息を吐いた。
「……バーナードを、あなた方につけたのは私です」
「何故彼を付けるんですか。椎名さんが戸惑っています。神政国でやり取りのなかった人間の方が、適しているとしか言えない」
Grailの言葉に、ロベルトは「ごもっともです」と言ってから告げた。
「……ですが……あの子を、いつか神政国に帰してやりたいと思っています。親戚がいるかもしれない。……探している人が、いるかもしれない。私はあの子を連れ去って帰ってきてしまった」
藍の中で、バーニーが話したこととロアの話すことが繋がる。
「私が彼を見つけたのは」
ロベルトは少し言葉を選んでから、告げた。
「国境の街でした。……男娼として、客を探していた」
一瞬、時間が止まったように感じた。
藍の中を、バーニーが話した言葉が何度も点滅する。
『金が必要でしたし、一生懸命働きましたよ。大変だったなぁ。子供でしたからね。できることは多くないです』
足元が抜けるような錯覚。
立っていられない——そう思った時、Grailが藍を引き寄せた。
聞かないで済むように、Grailの心臓の鼓動に頭を付けられる。
変わらないリズム。呼吸。
「——その痛みはあなたのものじゃない」
耳元で小さく言われる。
ロアの顔は見えなかったが、多分、彼も今苦しみの顔を浮かべていたと思う。
「……戦争で街は貧しく、誰も誰かを助けられる状況じゃなかった。近くで何度も戦闘が発生していました。逃げ込む魔術師や兵もたくさんいたし、親を失ったり、家を失った者も多くいた……。あそこは……なんと言うべきか……——難民街だった」
藍はその光景を想像しそうになると、震える手でGrailの服を掴んだ。
「……本当は、生き延びた魔術師がいないか探しに行ったんです。けれど、あまりにも幼いバーナードが私に…………」
言葉が出ない。
彼がロアにどう接触したのか。
藍の人生と、あまりにもかけ離れていて、思い浮かべることすらできなかった。
「……気付けば、私はあの子の手を引いて走っていました。親がいるかどうかなんて、聞く間もなかった……」
ロアの重たいため息。
「誘拐です……」
彼はそう付け足した。
「……あなた方はいずれ、神政国へ戻られるのでしょう。その時が来たら……バーナードを連れて行ってやってほしい」
藍はようやくGrailの胸から顔を上げた。
「……でも……あなたが育てたんじゃ……」
ロベルトは首を振った。
「育てる、なんてことはしていません。ただ……一緒に暮らして、バーナードは自分で育っていました」
少し間を置いて、ぽつりと零す。
「本当は、諜報活動や報告なんて考えず、そのままあっちに居着けば良かったものを……」
その時、扉が開いた。
「お待たせしました〜!」
バーニーが、湯気の立つ茶器を抱えて戻ってくる。
自然と、藍を引き寄せていたGrailの手が離れる。
ロベルトも、話を切り替えるようにポン、と手を叩いた。
「では、そういうわけですので、ここはお二人の術式部屋です。必要なものがあれば、バーナビーに」
それだけ言って、ロベルトは部屋を後にした。
扉が閉まる。
バーニーは何も知らない顔で、お茶を配った。
「さあ、シーナ様もどうぞ。ここのお茶、美味しいんですよ〜」
Grailはカップを受け取ると、ソファに座り、データが並ぶ紙に視線を落とした。
“1”と“0”。
数字の列を何度も目が往復する。
藍は、せっせと動き回るバーニーを、ただ見つめた。




