第60話 まだ、壊れていない世界
案内された王城は、電気が付いているわけでもないというのに明るかった。
白い石で組まれた回廊に、光が反射している。
高い天井。広い窓。風が通る。
メイドのような格好をした女性たちが楽しげに話して行き交っていて、藍とGrailを見ると、そっと頭を下げた。
“敵国”という言葉から想像していた重苦しさは、どこにもなかった。
玉座の前に立たされたとき、Grailが藍の一歩手前に出る。藍も無意識に下がる。
その仕草に、周囲の視線が一斉に集まる。
だが、王は笑っていた。
「聖女シーナ様を、我々は心から歓迎いたします。このディオニコ・デ・ストライスはあなた様には決して手を挙げないことを誓います」
朗らかな声だった。
「それに……ヴェクター様までご同行いただけるとは。まさに僥倖」
そして、と王は言うと、白髪の老人と、どこが軍人然とした男を手招いた。
「——ヴェクター様に拷問の指示を出した二人に、除名処分を出しました。これにて、どうか先の拘束をお許しいただきたく、お願い申し上げます」
重臣たちも、次々と頭を下げる。
藍は許す必要なんてないと思った。
むしろ、Grailはそれを理由に出ていくなんて言っても許されるくらいだ。
そう藍が考えていると、Grailは口を開いた。
「……その処分が、どれほど危険な橋であるかは理解しています。拷問を命じた二人は、この国の軍事と魔術の要に近い位置にいた人物でしょう」
藍はそれなら処分は尚のこと当然だと思った。
Grailは続ける。
「——彼らを切れば、他の有力者は疑います。“次は自分かもしれない”と。統治は不安定になり、反乱の芽も生まれる」
王はじっとGrailを見ていた。
「それでもなお、彼らを切る。——陛下は、国の安定と引き換えに、我々を迎える選択をなさった」
一呼吸置くと、Grailは最後の言葉を告げた。
「陛下の判断は、国を賭けたものです。ゆえに——受け入れます」
広間全体に安堵の呼吸が広がる。
王は立ち上がった。
「どうか、この国で不自由のないように。そして——この国にも、エル・レシア神政国へもたらした恩恵をお与えいただきますよう、よろしくお願いいたします」
Grailが一礼し、藍は小さく息を吐いた。
◇
王城と魔術会館——いや、メギスト王国では魔術宮——の間にあるという神殿に向かって馬車は走った。
「Grail、王様なんて許さなくて良かったのに」
藍が言うと、向かいに座っていたGrailはちらりと目線を上げた。
「椎名さん。あの王は、危険を承知で我々を選んだんです」
「どうして? 王様だからダメだって思う官僚クビにするくらい簡単そうですけど……」
「王は一人で国を動かしているわけではありません。有力者たちの支持の上に立っています。その中で、実力者を切るというのは——自分の首を差し出すに等しい判断です」
藍は、思わず息を呑んだ。
「……そんなに?」
Grailが頷く。
「……じゃあ、すごく期待されてる?」
「はい。相当、期待されています。あなたと、私を迎える利益が、その危険を上回ると判断した。——国のために」
「そんなの……応えられる期待じゃないですよ」
Grailは、少しだけ言葉を選んでから、告げた。
「正直に言います。“聖女”と“聖人”はメギスト王国を選んだ。エル・レシア神政国を離れた、というのは、民へも官へも、素晴らしい導となります」
「でも、私聖女じゃないですよ?」
ガタン、と馬車が止まる。
Grailは「し」と人差し指を藍の口の前で立てた。
「そう振る舞えば良いだけです。それは——王たちもそう思っています。たとえ本当に聖女だろうと、そうでなかろうと、大切なのは支配される者たちが信じるかどうか——なのですから」
藍の中にもやりとしたものが広がる。
何故か、それは国民への冒涜に感じる。
「……聖女の名を騙る……?」
「自称しなくても良いです。ただ、違うと言わずに、周りにそう言わせておきましょう。幸い、我々は二人です。ここの世界の女神は双子だそうなので、私たちは非常に政治的に扱いやすく——かつ、神聖性を高めやすい配置です」
藍が良いのかなぁ……と呟いていると、馬車の扉が優しくノックされた。
Grailは外へ返事をする。
「着いたか」
「はい、到着いたしました」
扉を開け、Grailが降りる。
続いて藍もGrailに手を引かれて馬車を降りた。
「ここは……?」
「は! 王都アトラクトの大神殿に付属している館でございます。かつて神殿長が暮らしましたが、今は使われておりませんでしたので、ストライス陛下はこちらを御身に下賜されました!」
神殿のすぐ近くだが、こじんまりと隔絶された空間。
後ろには大きな門。
圧迫感のない塀に囲まれた、小さなお屋敷。
手入れの行き届いた庭には透き通った池があり、それは玄関先まで続いて、塀の下を潜るように神殿の方へと向かっている。
「ご案内いたします」
小さな橋を渡って玄関先に着く。
御者は降ろした荷物をいくつも抱えて進んでいく。
司法取引に応じて藍は来たので、荷物はある程度持ってきた。
ただ、悲しいかな——金は全て、Grailの部屋に置いてきた。
Grailがあちらで暮らすのに必要だと思って。
「荷物、私も運びますよ」
「いえ、多くないのでお任せくださいませ」
御者はせっせと荷物を運び込むと、Grailに鍵と街の地図、王から渡されている金を渡して去って行った。
「……すごいですね。牢屋じゃなかった」
藍は思わず呟くと、Grailがきょとんとする。
「牢屋を想定していたんですか?」
「うん、一応捕虜なのかなって」
「聖女を牢屋に入れたら権威が失墜します」
二人は笑い、屋敷を見て回った。
暖炉のある素敵なリビングとキッチンを覗いて、神殿長が使ってきたであろう執務室で足を止める。
書架を埋め尽くす大量の本。
「——ここにある本は後で全て学習します。ここの文字を覚えるためにも」
またあの端から全部読むのが始まるんだなと藍は思った。
二階に上がると、当たり前のように一番良い広い部屋に藍の荷物が運び込まれていた。
ルーフバルコニーを出てみると、玄関先から見えていなかった庭にはやはり噴水。
二人は荷解きもそこそこに街に出た。
新しい街を歩く。
市場には果物が並び、子どもたちが走り回っている。
写真で顔が出回っている訳でもないので、誰も藍とGrailを認識しなかった。
平和で、活気に溢れる街。
「人って、どこに行っても同じなんですね」
藍が言うと、Grailが頷く。
「争っているのは国で、人ではありません」
藍はその言葉を噛み締めた。
水路の多い街だ。
水路に沿って歩いていくと、花屋が大量の花を乗せた船から直接花を売っていた。
Grailは花束を買うと、一本抜き出して藍の耳にかけた。
水路に沿って歩きながら、ふと手がぶつかる。
そのまま指が絡め取られて繋がれる。
離れないで済むように、安心させるように、そういう温度を感じた。
そして、時折Grailは後ろを気にした。
「どうしました……?」
「監視がついています」
「……それはそっか」
晩に食べるものを買い、二人は大神殿へ戻る。
番兵に頭を下げられ、裏口のようなところから入り、神殿の脇にある小道を進む。
誰も来ない場所で、家になった場所に戻る。
Grailが買ったものを片付けに行く中、藍は玄関前にかかる橋から水路を見下ろした。
「——何かいましたか?」
Grailが藍の横から水を覗き込む。
頬が触れそうな距離。
藍は体に籠る熱を追い出すために、その場をパッと離れた。
「探してみる!」
靴を脱いで透き通った池に足を浸す。
足首程度までしか深さはない。
深いところでも、膝程度。
夏の終わりの水は、冷たすぎず、名残のぬるさがあるようだった。
Grailは笑うと、池のほとりに腰を下ろして藍を見守った。
余裕そうな顔が気に食わなくて、藍はGrailに向かって水を蹴った。
水がかかると「やりましたね」と挑戦的に笑い、Grailも水に入って同じようにする。
水をすくってかけ合い、二人ともすぐにびしょ濡れになった。
笑った。
声を上げて。
藍が滑って尻もちをつくと、Grailは慌てて迎えにきて手を伸ばした。
その手を取って——Grailを引き摺り込んでやった。
「うわ」
びしょ濡れになったGrailに「べ」と舌を出す。
また水をかけられる。
水をかけ返す。
やめさせるように手を取られ、そのまま抱きしめられる。
水の中に座るGrailに、藍は静かに顔を擦り付けた。
いつしか夕暮れが訪れると、Grailはそのまま藍を抱き上げて水から上がった。
気温が下がって冷える。
バスタブまで運ばれると、水と熱の詠唱符を二枚書いてGrailは去った。
藍は体を抱きしめて、少し震えた。
◇
夜。
風呂から出るとソファでGrailは日誌を書いていた。
「Grail?」
「はい、温まりましたか?」
Grailは着替えを済ませていたが、頭はまだ少し濡れていた。
頬に触ってみると「——冷たい」
「椎名さんは温かいですね」
藍は笑顔を作るはずが、瞳からぽとり、と涙が落ちた。
「……椎名さん」
「Grail、私……辛いよ……」
「うん……。おいで」
Grailはすぐに藍を抱き寄せた。
「……楽しい時間もあるのに……少しでも時間が空くと……会えない人たちのことを考えちゃう……」
声が震える。
「皆に会いたい……」
「会えるようにします……」
即答だった。
「今は方法が分からない。でも、必ず何か見つけます」
藍は首を振る。
「戦争してたら……無理だよ。それに……戦争が終わっても……裏切ったって思われてたら、会わせる顔がない……」
「……思われません。あなたは取引に応じただけで、取引も神政国も放棄したのは私です。あなたは何も悪くないです」
涙は止まらなかった。
肩が震えて、顔が上げられない。
Grailは、藍が落ち着くまでただ黙って背を撫でた。
そして、いつしか藍の涙が止まると、ぽつりと呟いた。
「……こういう時、本当は……」
少しだけ言葉を選ぶような雰囲気。
「人の体温があれば、“今”に戻りやすいのですが……。私の真似事ではやはり血の通いが足りないのかもしれません」
とは言え、安全に任せられる人間もいない、とGrailは呟く。
その間も藍の髪を何度も優しく指が通る。
背に乗せられる腕の圧迫感。
藍は首を振った。
「……Grailの体温が、一番安心する」
「そうでしょうか」
「うん……私が眠れるの、ここだけだもん……。今も……戻ってこられたよ……」
見上げると、Grailは困ったように笑い、藍の頭をもう一度自分の胸に倒した。
「じゃあ、ここにいてください」
低い、穏やかな声。心臓の音。
「今は休んで。心の傷が塞がるまで」
「うん……」
「僕も、方法を考えるよ」
「ありがとう……。私、一人で来なくて良かった……」
この家に、たった一人で来ていたら——。
もしもを考えると、藍は恐ろしさと孤独に身が竦むようだった。
またGrailを見上げると、顔の横から髪をすくい——髪に口付けた。
藍の顔が赤くなる。
それが血が通ったものじゃないなら、一体——
「グランハルトさんを真似てみましたが、どうですか? 安全に、人の体温を感じますか?」
藍はへにゃりと笑った。
「それは言わないでいいよぉ〜〜」
夜は、静かに更けていった。




