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第59話 距離の測り方

 馬車の揺れは、驚くほど穏やかだった。


 藍は、ふと意識が浮上するのを感じて目を開いた。

 まぶたの裏に、まだ涙の残像がある。

 泣きすぎて、疲れ果てて——そのまま眠ってしまったらしい。


 ——温かい。


 気づいた瞬間、思考より先に理解した。

 Grailの腕の中だ。

 抱き上げられて馬車に乗った姿勢から、わずかにGrailが崩れただけの違い。

 背中に回された腕は、強くはない。

 けれど、絶対に落とさない——もしくは、逃がさないという配置で、安心してしまう力だった。


(……王子様だ……)


 藍が身じろぎすると、すぐ上から声が落ちてくる。


「起きましたか?」


 見下ろされている。


 その瞬間——脳内で、直前の記憶が一気に蘇った。


 キス。


 柔らかかった。

 思っていたより、ずっと。

 それに、強くて、熱くて、逃げ出せない、脳まで溶かすような、人生を狂わせるようなキスだった。

 まぶたを伏せた時の、あの距離。

 至近距離で見えた、長すぎるまつ毛。

 唇が触れた瞬間の、藍自身の声。


(……いやいやいやいや待って待って待って)


 突如発生する混乱。


(あれって……え? どういうこと?)


 何度も自分に聞くが、答えはこれだけだった。


 ——いや本当にどういうことよ!?


 何も導き出されない。

 藍は頭の中で、叫んでいた。


「どうかしましたか?」


 至極冷静な声。


 藍は跳ねるように体を離し、座席の端に寄った。


「い、いや! なんでもない!! なんでもないけど!!」


 Grailが少し首を傾げる。


「……はい?」


「その……久しぶりだったから!! びっくりしただけです!!」

 自分でもよく分からない台詞の羅列に、混乱はピークへ向かった。

「あぁ、久しぶりですね。椎名さんの顔をまた見られて良かったです」

 嬉しそうに微笑むGrailに、藍からは温度と勢いが一気に抜けていった。

 彼は何も変わっていな——いや、変わっている。


「……ねぇ、Grail……ちょっと痩せた?」

 藍はGrailの前髪を軽く避けて、Grailの顔をよく見た。


「三日間、睡眠と食事を抜かれましたので。痩せたと思います」

「え!?」


 藍は文字通り、ひっくり返りそうになった。


「Grail、大丈夫? どこも悪くなってない?」

 両手でGrailの顔を包み、覗き込む。

「そう言えば、顔も少し傷がまだ……。痛かったですよね……」

「いえ、大丈夫です」


 即答だった。


「椎名さんが元気だったので。もう、何ともありません」


 その言い方が、あまりにも真っ直ぐで。

 藍の喉が詰まる。


 Grailの指が、藍の髪をなぞり、指先が、頬に触れる。


 ——また、顔を包まれる。


 藍は反射的に目を閉じ、Grailへ顔を寄せ——

「椎名さんも、痩せましたね。一、二キロでしょうか」


「……はぇ?」


 藍は、目を開けた。

「いえ、最後に会った時から痩せたと思いまして」

「な、なんで今それ言うんですかぁ!!」

「……怒られていますか?」

「怒ってる!!」


 Grailは真剣に考え込み、とりあえず言葉を返して来た。


「……ごめん……?」

 何も分かっていない。人類の叡智の結晶なのに、何も分かっていない。

 藍は頭を抱えた。

 そして、ハッとする。

「ね、ねぇ、それより! そんな国に行っても大丈夫なんですか? 本当に安全?」

「司法取引で向かう椎名さんは、良い待遇になる可能性が高いです。詠唱符を使わせるつもりなら、集中力も必要とします。何より、双子の女神をなぞるような神話じみた解釈を受けているので、ヘルマンさんが言ったように“聖女”として迎えられるのが予測されます」

「司法取引……」

 その言葉を反芻し、藍はそれの大切さと、この事態の緊急性に至った。

「し、司法取引! そうですよ! Grailは神政国に行かなきゃ取引じゃないじゃないですか!」


 藍は盛大に崩れた。


「もう、エンディーおばあちゃんにも、レイラちゃんにも、オリビアちゃんにも、アレンさんにも、カタルくんにも、テナーさんにも、カインツさんにも、アルにも、ヴィヴィアナにも、ヘルマンさんにも、エレノアにも、マールおばあちゃんにも……——誰にも会えなくなっちゃう!」


 Grailは即答する。


「椎名さんが望むなら、会えるようにします」

「できないです! もう私たち叛逆者!!」

「私は元から、あの国に属していません」


 藍が顔を上げる。


「……え?」


「私の権利は、最初からあなたに帰属しています」

 Grailは当たり前のように微笑んでいた。


「……ど、どういう意味ですかぁ……」


 顔が熱い。


 その時、馬車が止まった。


 藍は反射的に身を固くし、Grailが咄嗟に抱き寄せる。

 馬車の扉がノックされる

「——なんだ」

 Grailが返事をすると、外から声が返った。

「こちらで一度、ご昼食を」

 御者の声。

「分かった。降りるが、少し待て」

「はい。お待ちしております」

 御者が離れる足音がする。


 藍は不安でGrailを見上げた。

 まるで、別人のような言葉遣い。

「あの……敵地なのに、偉そうにして平気なんですか……?」

「はい。今ので分かりました。我々は“敵地”にはいません」

 意味がよくわからなかった。

「彼らにとって、今我々は“敵国の人間”ではなく“招くべき客人”として認識されています。あちらの出方を窺うつもりでしたが、まず間違いなく歓迎されています」

「じゃあ……降りても平気ですか? 殴られない?」

「殴られないよ。殴らせないから」

 Grailが指の背で頬に触れる。

 藍は心地良さに、ただ静かに頷いた。


 Grailは扉を開けて先に降りると、周囲を確認していた。

「——良いです。降りてください」

 藍は伸ばされた手を取り、導かれるように馬車を降りた。


 外に出ると、神官たちがざわめいた。


「……おお……」

「聖女様……」


 神殿での扱いを思い出すと苦笑する。

 また聖女。

「あの、私——」

 否定しようとすると、Grailの手が肩に置かれた。

 そして、耳に口が寄せられる。吐息がかかりそうだった。

「——聖女ではないと言わないほうが良いです。待遇を悪くします。不可侵の存在だと思わせたほうが安全です」

 小声で言われたことに唾を飲み、ただ頷いた。


「聖女様、このような場所での昼食で申し訳ありません」

「いえ……構いません。気にしないでください」

 神官が頭を深く下げて去っていく。

 藍はこの先が思いやられると思った。


 そこに、声がかかった。

「お食事の準備が整うまでに、旅程をお伝えしますね、シーナ様」


 にこにことした若い男。


 どこかで——見た気がする。

 藍が彼の顔をじっと見ていると、Grailは藍と男の間に立った。


「……お前、よく話しかけられるな」

「お許しください。ヴェクター様……。僕も、それが仕事ですから」


 その瞬間、藍は思い出した。


「あ……地図を……ヘルマンさんと運んでた……——バーニー君?」


 見習い魔術師。


「はい。お見知りおきいただき光栄です! 僕は元より、お二人の情報を国に持ち帰る役目であちらにおりました!」

 明るく人懐こい雰囲気で来ているが、藍の胸の奥で、黒い感情が蠢く。

「曖昧な情報を王国に渡してしまい……結果として、お二人に辛い思いをさせました。申し訳ありません。最初から二人で一組と書いて報告書をあげるべきだったと、後悔しております」


 頭を下げ、手を差し出す。


「ですが、これからは、共にメギスト王国でご一緒できればと!」


 藍もGrailも、その手を取らなかった。

 バーニーは一瞬だけ目を伏せ、手を下ろす。


「王都まではここからは一日半。次の停留地で宿泊し、明日の夕方には到着します。シーナ様にはお屋敷をご用意しています。ヴェクター様には——残念ながら、お帰りになると思っておりまして、ご用意ができておりません。ご用意いたしますか?」

「私は結構だ」

「そうでしたか。では、何かお困りの際にはこのバーナビー・ロア——バーニーへお声がけください」

「行け」


 説明を終えると、バーニーは静かに去っていった。 


 ◇


 宿屋は、想像以上だった。


 巨大なベッドが二つ。

 間に寝台。

 大きなソファと猫脚のテーブル。

 窓からは、星と二つの月の光。


 藍は、改めてGrailを見る。


 Grailは変わらない。

 大きなソファに座り、日誌を開く。


 ——そして、手が止まった。


「これは……?」

「あ、私が……Grailがいない間のこと……書いたんだ……」

 藍は笑う。


「そんなんじゃ、全然リカバリできないよね。意味ないと思ったけど、書くだけ……書いておいたの……」

 Grailは、黙ってページをめくり続け——やがて、立ち上がった。


「Grail?」

「あなたが、どれほど苦しい時間を過ごされたのかと思うと……胸が痛みます」


 藍は思う。

 三日も拷問されていたのはGrailの方なのに、人の痛みを思ってる場合じゃないよ——と。


「……Grailの方が辛かったよ」

 藍は目の前に立っているGrailをそっと抱き寄せ、その胸に顔を埋めた。

「……ごめんね……」


 Grailは何も言わずに藍を静かに抱き返し、背を撫でた。

 そして、そのまま、近くにあったランプの火をフッと消した。


(……え?)


 次の瞬間、体が浮いた。

 大切に、お姫様のように抱き上げられ、Grailは進み出す。

 藍はそっちに何があるのかを見ると、顔を真っ赤にしてGrailの首に縋り、目をギュッととした。

 もしかしたら、違うところに行くのかも——そう思ったが、静かにベッドに降ろされた。


 ぎし、と音が鳴る。

「大丈夫。椎名さん……」

「う、うん……うん……」

 甘すぎる声に、藍は何度も頷き、首に縋る。

 鼓動がうるさすぎて、Grailに届きそうだった。


 Grailは布団を払い、藍をそっと寝かせた。

 もう、それでもいい。

 藍は今夜全てを委ねようと思った。

 きっとGrailはすごく色々な知識があって、辛くないようにしてくれる。そんな気がする。


「じゃあ——」

 Grailが口を開く。

「早く眠った方がいいです。ずっと眠れていないと書いてありました。今は安全です。安心して、眠ってください」


 ぽん、ぽん。


 布団をかけられ、寝かしつけるようにお腹に振動が送られてくる。


 藍は思考停止した。


「……な、なんなのよーーーー!!」

「ど、どしたの?」


 びっくりしたGrailは目を瞬かせていた。

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