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第58話 再優先順位

 Grailは、連行された時よりも、明らかに上等な馬車に乗せられていた。


 揺れは少なく、座面は柔らかい。

 窓から差し込む光も、これまでより穏やかだった。


(……待遇が変わったな)


 それだけで、状況は理解できた。

 拘束ではない。

 これは——引き渡しだ。


 詠唱符の講習という名目で、数えきれない詠唱符を書かされた。

 理論を説明させられ、前提を言語化させられ、彼らが理解できないたびに、繰り返し、繰り返し。


 それでも、彼らは理解できていなかった。

 誰一人、Grailの話す理論を元に魔法陣を書こうとしても光路線は引けなかった。

 そして、Grailも当然光路線は引けなかった。

 できなかった。


 馬車が減速する。

 止まる。


 扉が開いた瞬間、空気が変わった。


 遠く——外には、見覚えのある旗が並んでいた。

 神殿や魔術会館に掲げられていたもの。

 エル・レシア神政国の紋章。


 反対側には、メギスト王国の馬車と、ローブ姿の人々。


(——ここが交換地点か)


 Grailが地面に足を下ろした、その瞬間だった。


「——Grail!!」


 声。


 走ってくる影。

 迷いのない速度。


 Grailの足は考える前に動き出し、腕を広げていた。


 衝撃。

 藍が胸に飛び込んでくる。


「Grail……Grail……!」


 縋るような声。震える体。


 Grailは、ゆっくりと抱き止めた。


「はい……Grail Vectorです……」


 それだけを言って、強く抱きしめ返す。

 欠けた半身を取り戻すようだった。

(——あぁ……。私は何故これほどまでに……)


 Grailは目を閉じた。


 遅れて、ヘルマンとエレノアが駆け寄ってくる。

 二人とも、言葉より先に安堵の表情を浮かべていた。


「グレイル……! ……無事でよかった……」

「本当に! ヴェクター様」


 Grailは視線を上げ、静かに頭を下げる。


「ご心配をおかけしました」


 ヘルマンが、言いづらそうに口を開いた。


「……じゃあ、行こう。すまない」


 その言葉で、藍が一歩引いた。

 Grailと、藍の間に、わずかな距離が生まれる。

 ヘルマンの後に続いて歩き出そうとすると——藍は、Grailの手を取った。


「……待って」


 そう言って、立ち止まらせる。

 Grailは即座に足を止め、藍を見下ろした。

 藍から両手が伸び、Grailの頬を包む。

 藍の踵が上がり、顔を引き寄せられる。

 距離が、縮まる。


 唇ではない。

 頬への、軽い口付け。

 Grailは思わず自分の頬に触れた。

「椎名さん……?」

「元気で過ごすんだよ」


 そう言って、藍は日誌を差し出した。


「……それは、どういう——」


 言い終わる前に、後方で声が上がった。


「——王命により!! 魔法の行使者、アイ・シーナ!! 詠唱符の作成者、グレイル・ヴェクター!!」


 Grailは顔を上げ、読み上げる男を捉えた。


「両名の交換を、ここに執行する!!」


 耳の奥に、スピーカーが発するハウリングのような、キーンという音が響く。


 Grailの視界が、一瞬遅れる。

 ハッと藍の方へ視線を送ると、藍はすでに歩き始めていた。

 左右にはあちらの国の魔術師たちと兵たち。

 藍はふと振り返ると、

「Grailが書いて来た詠唱符、全部使い終わったらね」

 軽く手を振る。

「また帰るから」

 冗談を言う時のように笑う。


 Grailの中に一つの言葉が浮かぶ。

 ——騙された。


 あの人間たちは、Grailに詠唱符の書き方を聞くふりをして、藍が使える詠唱符をGrailに量産させた。

 あちらは即時に使える詠唱符と行使者を手に入れ、さらにはGrailから理論まで抜き出した。

 だからこそ——エル・レシア神政国はメギスト王国から一刻も早く“理論”を取り戻すためにGrailを——。


 Grailの思考が一瞬で答えに行き着くと、ヘルマンが低い声で言う。


「……行こう、グレイル」

 肩に手を置かれる。


 メギスト王国へ向けて遠ざかる藍の背中。

 ヘルマンの向こうにはエル・レシア神政国の旗。


 Grailは何も考えなかった。

 考えることを義務付けられて生まれて来たというのに。


 次の瞬間、肩に乗っていたヘルマンの手を振り払っていた。

 足が勝手に駆け出す。


「やめろ!!」


 ヘルマンの声。


「国を売ったと言われるぞ!! 二度と戻れなくなる!!」


 Grailのスピードがわずかに弱まる。


「やり方は他にもある!! 戻るんだ!!」

 振り返ると、ヘルマンは青い顔でGrailに手を伸ばしていた。

 だから——

「感謝しています」


 皆が、できる範囲の善意を、藍に向けていた。

 藍の周りに悪人はいなかった。

 皆が生きている中で、自分にできる選択を重ね、時に傷つき、それでも人に優しくいようと立ち続けた。


 それを否定する理由は、どこにもなかった。


「ライデンを、頼みます!!」

「——グレイル!!」

 Grailは再び駆けた。

 藍の方へ、一直線に。


 メギスト王国側から、歓声が上がる。


「女神の力はこちらにある!」

「聖なる者たちを守れ!!」


 詠唱符への書き込みが始まり、呪詛のように論理の詠唱がその地を埋め尽くす。

 次の瞬間、鉄の(ツブテ)が、火が、水が、氷が、雨となって降り注ぐ。


「やめろ!!」

 ヘルマンが叫ぶ。

「撃つな!! 相手は聖人と聖女だ!! やめろ!!」


 駆ける。

 背に聞こえるヘルマンの抑止に感謝する。

 驚き振り返る藍をそのまま抱き上げ、止まらずに走った。


「Grail、何を——!?」


 返事もせずに馬車に乗り込む。

「出せ!!」

 Grailが叫ぶと同時に、激しい鞭の音。

 馬車は動き出す。

 喉が焼ける。言葉がもう作れない。肉体の限界。

 食事も睡眠もこの肉体には十分じゃない。

「Grail!? 何をやって——」

 藍が怒鳴ろうとしたが、Grailは藍の顔を引き寄せた。


 これ以上の責任を持たせないため——。

 自ら発する言葉の暴力に傷つかせないため——。


 唇と唇が繋がり、藍から声が漏れる。

 絶え間ない呼吸が漏れる。

 離れると、二人は肩で息をしていた。

 涙目で藍がGrailを見上げる。

「な、なんで……」


 Grailはふっと息を吐くと笑った。


「私の再優先順位は、変わりません」


 藍が泣いてGrailに縋る。

 もう動かないと思った腕をあげて抱きしめ返し、Grailは目を伏せる。


 国も。

 王命も。

 神も。


 ——超えられなかった。


 馬車は進む——。

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