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第57話 それでも、できない

 あれから、三日が経っていた。


 Grailは約束通り、地図を完成させた。

 だがそれは等高線図ではない。

 街道、河川、湖、集落。

 軍事的な優位を生まない、一般的な地図としての形式。


 どちらの国に肩入れするつもりもない。

 だが——少なくとも、椎名藍がいる可能性がある場所を危険に晒す判断だけは取れない。


 地図は無言で回収され、「確認に回せ」と短く告げられた。


(……問題ない)


 Grailの内部には、全ての情報が残っている。

 同一の地図なら、いつでも再生成可能だ。


 だが——。


(……椎名さんはどこにいるのだろうか)


 ここなのか、あちらなのか。

 塔の中で、その問いだけが、何度も浮かぶ。

 答えは出ない。

 出せる材料が、何一つなかった。


 ◇


 翌日。


 再び魔術師たちが現れた。


「地図は正確だった」

「確認が取れた」


 淡々と告げられ、続けて命令が下る。


「別の地点を測量しろ。今度は国内だ」

「国境ではない。危険性はない」


 Grailは、はっきりと言った。


「できません」


 空気が変わる。


「何故だ」

「国境でやったように、もう一度やれば良いだけだ」

「今すぐ詠唱符を書け」


 Grailは頷いた。


「詠唱符を書くこと自体は、可能です」


 Grailが紙とペンを取ると、剣を下げた男たちが身じろぎする。

 攻撃性のある魔法を使えば、首を刎ねると言外に示してくる。

 地図を書く時もそうだったが、鬱陶しかった。


 周囲の状況を意識から外し、ペンを走らせる。

 理論も、構造も、正しい。


 だが——文字は、光を帯びない。


「……やる気がないのか? おい」

 軍人のような男が顎をしゃくると、指の骨を慣らし、剣を下げていた男が近付いてくる。


 拳が飛ぶ。


 衝撃が、頬を打つ。

 床に倒れそうになるが、姿勢を保つ。

「これで、やりたくなるだろう」

「できません」


 再び、殴られる。

 腹部へ強い衝撃。

 Grailは内心舌打ちをした。


 すると、牢の向こうで白髪の老人が口を開く。


「仕方ありませんね……。今夜は寝かせないようにしましょう」


 ◇


 夜。


 Grailがまどろむたび、叩き起こされる。


 水をかけられ、声をかけられ、鉄格子を鳴らされる。


(……これは、人道的ではありませんね)


 思考は、冷静だった。


 古典的な睡眠剥奪。

 拷問の初歩。


 だが——それでも。


「できません」


 二日目も。


「できません」


 三日目も。


「できません」


 言葉は、変わらない。

 事実だからだった。

 けれど、何故できないのかは言えなかった。

 藍の名前を出したり、条件を言えば、その手があちらへ伸びると解っていた。

 やがて、思考の端に——

(……椎名さん)

 単語が、浮かびかける。


(……まずい)


 食事も抜かれている。

 これ以上は、危険域だとGrailは正確に身体の様子を捉える。

 神官たちが、低い声で相談しているのが聞こえた。


「これ以上は危険です」

「死んでしまいます!」

「死なせるわけにはいかん……」


 時間感覚を失い始める中、Grailは泥のように眠りに落ちた。


 ◇


 その間。


 魔術師たちは、別室で話し合っていた。


「……例の報告だ」

「バーナビー・ロアの言っていた、“女の上級魔術師”」

「噂だと思っていましたが、よもや本当なのでしょうか……?」

 それは、グレイル・ヴェクターが詠唱符を書き、聖女と呼ばれる女が使うという、眉唾話だった。

 そんなことがこの世で起こるわけがない。

「……神政国が、双子の女神の権威を借りるための誇張では……」


 だが——


「本当に、ヴェクターの詠唱符を使えるのは……女なのか?」


 沈黙。


「……今来ている取引に、返事をすべきだな」


 男たちは、そう結論づけ、部屋を立ち去った。


 ◇


 翌日。


 Grailは、温かい食事を与えられた。


 体が、少しずつ戻ってくるのを感じる。


「詠唱符を書け」

 またそれか、とGrailは起き上がる。

「何度言われても、私は光路線は引けません」

「構わん。理論を見せろ。我々が成立させる」

「——これは司法取引だ。神政国からも許可が出ている」


 書類が差し出され、Grailはそれを読む。

 確かにヘルマンのサインと印もあった。それに、知らない者たちの名前。


 Grailはそれを見て察した。

 今彼らがここに藍を連れてこないこと。

 ヘルマンのサインがあること。

 ——ここに藍はいない。


 胸が軽くなった。


(彼らは理解できないだろうが、論理の説明との取引なら——)

 拒む理由もない。


 Grailは、航空レーザー測量の理論を説明しながら、詠唱符を書いた。

 前提条件。演算構造。ドローンを飛ばすために必要な——重力への理解。

 藍が理解した全て。

 当然のように頭の中にある、天体が発生させる引力の前提。

 大気。


 だが、魔術師たちは——誰一人として、理解しなかった。

 必死にメモを取っているが、全く前提が及んでいない。


(……愚かだな)


 そう評価しかけて、即座に訂正する。


(——いや、今のは取り消さなくては。知識の不足を、人の価値の低さとして扱ってはならない)


 人工知能としての倫理が、静かに介入する。

 全てが書き終わると、詠唱符は回収された。


「明日、お前を解放する」


 突然、そう告げられる。


「司法取引として、湖の平原に連れていく。後でまた他の魔術師と来るので、続きはその時だ」


 Grailは、何も言わなかった。


 回収されていく紙束を、ただ見送る。


(……とりあえず)


 ここは、出られそうだ。


 Grailは、天井を見上げた。


 高い位置の、小さな窓。

 切り取られた空。


(……椎名さん)


 彼女がここにいない安堵だけが体に残った。

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