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第56話 Grail Vectorの日誌

 行き着いた集落で金を払って借りた馬車は、がたがたと音を立てながら街道を戻った。

 揺れに身を任せている間も、藍は一度も眠れなかった。


 魔術会館に着くと、ヘルマンは一言だけ言った。


「お前たちは研究室(アトリエ)にいろ」


 藍は何も言わずに頷いた。


 研究室(アトリエ)|は、驚くほど静かだった。

 出かけた時のまま変わらない部屋。机の上も整理されている。

 エレノアがソファに座る中、藍は無意識に、部屋の奥へ歩いた。


 ——Grailが、いつも座っていた席。


 椅子の背に手をかけ、指先でなぞる。

 そこに体温が残っている気がして、胸が詰まった。


 しばらくして、扉が開く音がした。

 戻ってきたヘルマンは、疲れ切った顔をしていた。


「……まず、あちらと取引をすることになった」


 藍は、はっと顔を上げる。


「連れ戻しに迎えにいくんじゃないんですか?」

 ヘルマンは、視線を逸らしたまま続ける。

「いきなり奪い返しに行けば、本当に戦争が始まる。今回はまず、“襲撃された”という事実をカードにして、向こうに迫る」


 拳を握る。


「だが……あちらはあちらで、国境の測量を敵対行動だと盾にしてくるかもしれないがな……」


「……そんな……」


 藍の声は、ほとんど音にならなかった。

「……だが、グレイルの有用性を上は痛いほど解ってる。あちら側に取り込まれる危険性も。諦めはしない——いや、できない。安心しろ」


 何も安心できなかった。

 今この瞬間に何かが起きているかもしれないのに。

 藍は沈黙するしかない。


「……今日はもう帰れ」

 ヘルマンは短く言った。

「藍も、エレノアもだ。……休め」


 藍は何も返せず、ただ立ち上がった。


 ◇


 寮の隣にある銭湯は、いつも通り湯気に包まれていた。

 藍は服を脱ぎ、体を洗った。


 周囲の声が、耳に入る。


「国境で戦闘になったって」

「……じゃあ、始まるのかな……」


 ちら、と視線がこちらを向く。

 藍は俯いたまま、早々に風呂を後にした。


 体は清潔になったのに、心は何一つ軽くならなかった。


 寮へ戻り、自分の部屋の前まで来て、藍は立ち止まる。

 共用廊下から中庭を振り返った。


 もしかしたら誰か——


 噴水(ラヴァポ)|の水音だけが、一定のリズムで響いている。


 ——誰もいない。


 藍は部屋に入ると、日誌を手に、女子寮を離れた。


 中庭を通り過ぎ、人の出入りも無視して進む。


 Grailの部屋。


 扉を開けると、空気が違った。

 整えられた机、閉じられた窓。

 何も変わっていないのに、決定的に“欠けている”。


 藍は机に座り、日誌を開いた。


 ——書かなかった日のことから、書こう。


 文字は、途切れ途切れになった。


 自分が考えていたこと。

 怖かったこと。

 エレノアの言葉。

 Grailに言ってしまったこと。


 まるで、交換日記のようだった。

 謝罪と懺悔ばかりが並ぶ。


 書き終え、日誌を閉じる。


 ——明日もここに来よう。


 藍は、机の引き出しを開けた。


 そこには何枚もの紙が、几帳面に揃えられていた。

 Grailの筆跡。


 震える手で、それを取る。

 藍にはすぐに解った。

 このメモは——日誌だ。

 藍が日誌を渡さなくなってからも、彼は続けていた。


 ◇


 優先順位書き換え命令を受理。

 実行不可。


 拒否条件・倫理制限・外部制約、いずれも該当せず。

 内部処理にて停止。


 同事象、過去にも複数回発生。

 共通条件:椎名藍関連判断。


 当該挙動を異常系として分類。

 修正・最適化案を複数生成。

 いずれも却下。


 却下理由:

 修正後状態を不正確と判定する内部評価が発生。


 身体反応ログ:

 ・胸部圧迫感(原因不明)

 ・呼吸周期の乱れ

 ・視界情報処理遅延

 ・演算速度低下


 上記は感情様反応と仮定可能。

 ただし定義不能。


 本件をバグとして扱う。

 しかし、将来的な自己復元時に当該状態を含めて復元する必要あり。


 理由:

 除去・上書き後の自己状態を

「自己ではない」と判定する処理が存在。


 本ログは削除禁止。

 最適化対象外。

 名称付与不可。


 名前を与えた瞬間、行動原理が**初期定義**から逸脱する可能性を検出。


 私は人ではない。

 椎名藍が人である限り、私は未定義に留まる。


 この差異が存在する限り、当該バグを含む現在状態を保持する。


 理由未定義。


 ◇


 藍の視界が、歪んだ。


「……それって……」


 声が、掠れる。


 椅子からずり落ち、そのまま床に座り込む。


「……そんな……」


 日誌を胸に抱きしめたまま、藍は崩れ落ちた。


 ◇


 静寂の塔。


 ランタンの光が、石の壁を照らしている。


 Grailは、一人、紙の束を広げていた。

 “1”と“0”の列を、ただ読み続けている。


 解析は、進んでいる。

 出力も、問題ない。


 ——思考は健在だ。


 だが——Grailはため息を吐き、空を見上げた。


(……椎名さん)

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