第55話 静寂の塔
番兵の呼吸によって、鎖帷子が立てる僅かな音が響 く。
塔の中にはほとんど音がなかった。
石の壁。石の床。
高い位置に穿たれた、ガラスのない小さな明かり取り。
Grailの手首には縛られていた痕がまだ強く残っていた。
壁にもたれて座り、窓を眺める。
草笛の代わりに、口笛を何度も吹いていると、窓に鳥が集まり、Grailは微笑んだ。
(あちらで見る鳥と種が同じだな)
そうしていると、牢の鉄格子がガンと殴られた。
「余計な真似をするな!」
鳥が逃げていく。Grailは番兵に内心舌打ちをする。
ほどなくして、階段を上がってくる足音がした。
規則的で、ためらいのない歩幅。
「飯だ」
新しく訪れた番兵が、木盆を牢に差し込んで来る。
水と、硬いパンと、薄い粥。
必要最低限だが、欠けてはいない。
「……食事に感謝します」
Grailは、静かにそう告げた。
返事はない。
だが、食事を運んできた男はちらりと一瞬Grailを見てから立ち去っていった。
(思ったより、待遇が悪くない)
一瞬、そんな評価が浮かぶび、理由付けが始まる。
(——私を“使う”つもりだろうな)
生かしておく必要がある。
思考させ、作業させるために。
少なくとも、即時に危険な状態ではない。
Grailは、粥を口に運びながら、次の段階へと思考を進めた。
(この人間を懐柔する方法を考えた方が良さそうだ。長くいるなら、尚のこと)
言葉は嫌でも耳に入る。
ならば、どの言葉を流すかは、こちらで選べばいい。
歌を歌うか。
ここが緊張を強いられる場所ではないと誤認させられれば、警戒は下がる。
祝詞をあげるか。
神官という役割を被せれば、無意識のうちに神聖性を感じ、手出しを躊躇する可能性がある。
家族の話をするか。
肉感のあるエピソードは、人の感情を引き寄せやすい。
他にも手段はあれこれある。
Grailは思考を進めながら食事を終えた。
「ご馳走様でした」
食器を載せて向こうに押し出す頃。
複数の足音が、はっきりとこちらへ向かってくる。
数は多い。
Grailは、身じろぎもせず、ただ待った。
現れたのは、数名の魔術師たちだった。
全員、首元に同じ形のループタイを下げている。
(……なるほど)
この国では、指輪ではない。
あれが、魔術師の身分証。
その列の中央に、二人。
一人は、白髪で、穏やかな笑みを浮かべた老人。
もう一人は、背筋の伸びた、軍人然とした男。
老人が、柔らかな声で言った。
「こんにちは、グレイル・ヴェクター殿。ようこそ、メギスト王国の王都アトラクトへ。街はいかがでしたかな?」
「活気ある街でした。ご老人、私を返していただけませんか?」
老人は、にこやかなまま首を振った。
「それはできません」
即答だった。
老人は、手にしていた大量の書類を牢の中へ滑り込ませる。
見覚えのある紙束。
——測量資料。
「お分かりでしょうが、これはあなたが測って生み出した資料です。暗号の読解を行って下さいますかな?」
軍人の男が、一歩前に出る。
「国境線と、湖を含めた地図を書け」
命令だった。
Grailは、紙に視線を落としたまま答える。
「暗号の解析には、相応の時間が必要です。数ヶ月かかるかもしれません」
老人が、少しだけ笑みを深くした。
「あなたをそばで見ていた者は、そうは言いませんでしたぞ」
Grailの内部で、即座に照合が走る。
——バーニー。
測量資料の運搬役。
見習い魔術師。
老人は、淡々と続けた。
「暗号の解析は一日。地図への書き起こしに二日」
「…………」
「この期限を破れば——」
一拍。
「——別の塔にいる女たちが、どうなることか」
Grailの思考が、わずかに揺れる。
構造は単純だ。
こちらの行動を制限するための情報操作。
(……ブラフだ。ブラフの可能性が高い)
バーニーから得られた断片情報を、誇張しているだけだろう。
——だが。
(……もし、万が一椎名さんがいれば……)
その仮定だけが、排除できない。
Grailは、資料を手に取った。
「……分かりました」
老人と軍人が、目を細める。
「三日で行います」
それだけを告げる。
二人は満足そうに頷くと、魔術師たちと共に踵を返した。
訪れる静寂。
Grailは、紙を広げ、“1”と“0”へと視線を落とす。
(……椎名さん……)
解析というより、ただ読み、出力するだけに過ぎない。Grailは電気信号の海へ潜った。




