第54話 分断
森の奥で、炎が小さく弾けた。
「——っと」
ヘルマンが使った指先サイズの火の魔法が、藍の手首を縛っていたロープを焼き切る。焦げた匂いが一瞬、夜気に混じった。
藍は両手が自由になった瞬間、立ち上がって叫んでいた。
「戻らなくちゃ!!」
声が、森に吸われる。
「Grailが——Grailが……!」
「今は諦めろ。気持ちはわかるが、今はどうしたって行かれない!」
ヘルマンが即座に遮る。
「……人数が違いすぎる。戻ったところで、全員捕まるだけだ。……グレイルが俺たちを逃がすためにやったことを無駄にするな」
藍は唇を噛み、首を振った。
「でも……でも、Grailがあのままじゃどうなっちゃうか——」
その頬に、乾いた音が響いた。
——ぱん。
エレノアの平手打ちだった。
藍は衝撃に目を見開く。
「……分かっております!!」
エレノアの声は震えていたが、はっきりしていた。
「私だって、クイーンズ様だって、ヴェクター様を置いてくる選択が正しいなんて、思っていません!! けれど——今は、人を呼びに行くしかありません!!」
藍の視界が揺れる。
エレノアは藍の手を掴んだ。
「歩いてくださいませ……! 生きてくださいませ!! 戻るために!!」
一瞬の逡巡。
それから藍は、歯を食いしばって頷いた。
「……分かった……」
三人は森を抜け、川のほとりまで移動する。大きな岩を背に、ようやく足を止めた。
ヘルマンが地面に腰を下ろし、「いてて……」と顔に触れる。指先に血がついた。
藍は反射的に道具鞄へ手を伸ばしかけ——止まった。
(……詠唱符があっても……)
——Grailがいない。
喉の奥が締めつけられる。
魔法は使えない。
癒すことも、守ることも。
「……すみません……」
藍は小さく呟いた。
「いい。気にするな。男前には傷が付きものだからな」
ヘルマンはそう言ったが、夜は冷たく、長かった。
焚き火は焚かなかった。
追手を恐れて、ただ暗闇の中で身を寄せ合い、息を潜めて夜を越えた。
藍は一睡もできなかった。
◇
馬車は、止まらずに走り続けていた。
Grailは後ろ手に縛られたまま、明かり取りの小さな窓から外を見ている。
星の位置。二つの月の傾き。
日が昇り、沈むまでの時間。
——脳内マッピング、完了。
道の曲がり方、揺れの方向、停止回数。
すでに、ここまでの経路は再現可能だった。
(……椎名さんは、逃げ切れたんだろうか)
思考の端に、何度も同じ問いが浮かぶ。
答えは出ない。
馬車は二日走った。
到着した街は、音が違った。
人の気配が多く、建物が密集している。
窓から見える大きな城門に馬車が入っていく。
この場所の確認していると、馬車が止まる。
そして、扉が開いた。
「降りろ」
低い声。魔術師ではない。
暴力を生業にしている種類の人間だと、Grailは判断した。
次の瞬間、頭から麻の袋を被せられる。
視界が遮断されても、歩数は数えられる。
曲がる。また曲がる。
砂利の感触が石畳に変わる。
城の庭を通過。
そこから、少し離れる。
建物に入る。
空気が変わる。
——階段。
しかも、螺旋。
(……塔だな)
長く高い。
最後に、金属が擦れる音。
扉が開き——
「入れ」
背中を蹴られ、Grailは中へ倒れ込んだ。
「っ——」
冷たい石の床に倒れ込むと、すぐさま麻袋が外された。
男がさっさと牢を立ち去ろうとする。
Grailは一度だけ息を整えた。
「——聞いておく。ここはどこだ」
答えはなかった。
男は何も言わず、ガチャンと錠をかけると、踵を返して去っていった。
Grailは一度姿勢を整え、中を改めて見渡す。
やはり塔の内部。
高い位置に、ガラスもない明かり取り窓。
空が、切り取られている。
Grailは手を縛られたまま、天井を見上げた。
(……困ったな)
外部通信不能。
詠唱符の作成不可。
魔法実行不能。
だが、思考は健在。
——時間はある。
Grailは、静かに状況の再構築を始めた。




