第52話 愛と恋
「……愛?」
焚き火の向こうで、ヘルマン・クイーンズが言った言葉を、Grailはただ繰り返した。
困惑だった。
愛の定義も、その持続性のある感情も——知識としては知っている。
しかし——Grailには感情があるかのように振る舞うシステムはあるが、感情そのものは設計されていない。
「……違うかと思います」
Grailの返答に、ヘルマンは少しだけ目を細める。
「お前のそれは愛だよ。もし恋なら、自分に矢印が向く」
焚き火を小枝で突きながら、淡々と続ける。
「俺のためにここにいてほしい。俺が助けたい。俺と一緒が良い。俺を見てほしい。全部、“俺”が主語だ」
「……いえ、恋だとも思っていません」
ヘルマンは笑った。
「ははは。そうか? じゃあ、何故愛じゃないと言える」
「これはそういうもの、としか定義できません」
「そうか。じゃあ、その“そういうもの”の名前を探せ。一人のために生き抜く覚悟が愛じゃないなら、お前はそれをなんと呼ぶのか教えてみろ」
思考を必要とする。
それは、この感覚を呼ぶ名前を探すためではなく、自身が感情を持たない、見せかけの感情を演じる人工物であると伝えるための言葉を探すため——。
「答えられないだろう。お前は口を開けば“あなたのために”だ。“あなたが幸せになるために”“あなたが生きていくために”“あなたを守りたい”“あなたの健やかな日々”」
一つ一つ、言葉を置くように。
「お前のそれは、確かに愛だよ」
焚き火の音だけが、しばらく続いた。
Grailは、ゆっくりと呟いた。
「……論理としては、理解できます」
理解はしている。だが、それは生物同士の理論だ。
(支援型人工知能は、本来“あなたのため”しか存在しない。私の設計思想も、行動原理も、すべてそこに収束する)
——ならば、これは愛ではない。
そう結論づけようとして、胸の奥に残る、説明不能な痛みが、それを拒んだ。
ヘルマンは、Grailの顔を見ると、話を続けた。
「だがな——勘違いするな」
「……勘違い?」
「“あなたのため”って言葉はな、万能じゃあない。それが本当に、相手の望んでることかどうかを、確かめ続けなきゃならん。常に対話が必要だ。しかも——」
焚き火を見つめたまま、続ける。
「人は間違える」
ヘルマンはきっぱり言った。
「こうだと思い込んでも、実はそうじゃないことなんて、山ほどある。だから、対話しても、結局それも全てじゃない」
火が、少し小さくなった。
「その前提を一つでも見失った時——それはもう、愛じゃない」
ヘルマンはGrailをまっすぐ見つめると、続けた。
「支配だな」
焚き火を踏み消し、ヘルマンは立ち上がった。
「人の横に立つってのは、楽じゃない。お前は、その重荷を背負いきる覚悟がある。だからこそ——“愛”という言葉を拒否してるように、俺には見える」
そう言い残し、テントへ戻っていく。
「——だが、お前の生き方……俺は嫌いじゃないぞ」
残されたのは、夜と、Grailだけだった。
(……今の言葉は効いたな)
グレイルは静かに思う。
人を支配しない。
ただ、横に立つ。
——それだけは、間違えない。
Grail Vector Protocol Applicationとして。
藍のためにできることを、彼女の言葉を聞いて、探し続けよう。
結論は出ている。
けれど——胸の痛みは消えなかった。
“0”でも“1”でもない場所への入り口。
理由を定義できない感覚を抱えたまま、Grailもまた、テントに入った。
◇
同じ夜。
テントの中、ランタンの灯りが揺れている。
藍とエレノアは向かい合って座っていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
外では風が草を撫で、遠くで馬が鼻を鳴らす。
「……私……」
先に口を開いたのは、エレノアだった。
両手を握りしめ、視線を落としたまま。
「ヴェクター様が……恋しくて……もう、おかしくなりそうなんです」
藍は、何も言わずにエレノアの背に手を置いた。
「私の隣にいてほしい。私が助けて差し上げたい。私を見てほしい……」
言葉が止まらない。
「……シーナ様が手を取らなかったのを見て、安心してしまった自分が……嫌になります……」
エレノアは、そこで一度息を吸った。
「……なのに」
顔を上げる。
瞳の奥に、怒りに近い色が宿っていた。
「——なのに、どうしてシーナ様は、ヴェクター様の書かれる詠唱符を使えてしまうんですか」
藍は、言葉を失った。
「そこに私がいたかった。そこで、私がヴェクター様と歩いて行きたかった……!」
理解していた。
この言葉たちが、ただの嫉妬ではないことを。
越えられない構造を前に、打ちのめされた爆発なのだと。
「……私……」
喉が詰まる。一度、深く息を吸ってから、藍は小さく言った。
「私も……ずっとエレノアがGrailの隣にいてくれたら良いなって思ってた……」
「……え?」
エレノアが訝しむように藍を見る。
「私ね……あなたが来てくれて、良かったって思ってた……。Grailのそばに、ちゃんと人がいてくれるって……それで、私は……」
——安心したかった。
「……これで、私がいなくなっても……この世界で、彼は一人ぼっちにはならないって……」
それは、優しさだった。
同時に、逃げでもあった。
エレノアは、息を呑んだ。
「あの……シーナ様……? あなた様は、ヴェクター様を置いて……どちらかへ行かれるのですか……?」
「……多分、そうしないといけないんじゃないかなって思ってる。そっちに向かって行かなきゃいけないって」
「いけない? そうしたいわけではなく……?」
藍は一番聞かれたくないところに触れられたと思った。
言葉を何度も探す。
そして——
「……したくない」
言ってしまった。
胸の奥で、何かがほどけた。
「帰りたくない……」
藍の瞳から、一つ涙が落ちる。
エレノアは理解できないように首を振った。
「シーナ様……。家督を継がれるのですか? そんなもの、シーナ様がお嫌なら無視してしまわれれば良いのです!」
いつの間にか、エレノアに手を握られていた。
「私たちはもう大人です! 家など、家など捨ててしまえば良いのです! ヴェクター様だって、あなたを失えば魔法を失う……! ヴェクター様のためにお捨てなさい!!」
「エレノア、あの人は私を求めてない……。だから、だから私は……私はぁ……」
涙がこぼれそうになるのを噛み締める。
エレノアが藍をキツく抱きしめると、藍もエレノアに縋るように抱きついた。
「私ではヴェクター様の杖になれないのに、そんな無責任なこと仰らないでよぉ……。諦められなくなっちゃうじないですかぁ……」
止められない感情だけが、互いを抱き寄せさせていた。
「シーナ様はヴェクター様の絶対の一人なのに、バカですよぉ……。私はそこには行かれないのに、バカァ」
藍は、何も言えなかった。
エレノアが言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「私は……ヴェクター様を、理解したいと思いました。隣に立ちたいと……本気で……。だから——」
エレノアはまた藍を睨んだ。
「だから、諦めませんから。シーナ様がそんなふうに、逃げ腰でいらっしゃるうちは。ヴェクター様を落とします」
思わず藍は笑った。
「はは、落としてぇ。それで、Grailの隣で魔法使って、幸せにしてあげて。そしたら、私ももうスッキリして諦められるよぉ」
エレノアはそれを聞くと、どうしようもない姉を見るような目で笑った。
「後悔されても知りませんからね。私が本気を出したら、きっとヴェクター様は私にメロメロです」
「はは、メロメロ〜。良いなぁ〜」
やがて、互いの涙を拭い合った。
エレノアは、優しい。
正しくて、誠実で、健やかだ。
「デート、行くとしたらどこに行きます?」
エレノアが笑う。
「え〜、全然どこがなんだか知らないからなぁ」
「では、私のおすすめをお教えします。港に行って、船に乗って、夕陽を眺めて、手を繋いで帰ります」
「素敵。真似しちゃお」
そこまで言って、二人とも黙った。
それが“今”ではないことだけは、はっきり分かっていた。
二人はごろんと転がり、しばらく天井を眺めた。
「心が全然言うこと聞かないね」
「苦しい時間かもしれないけれど、人間には必要な時間——って、ヴェクター様も前に仰ってました」
「——Grailが、そんな言葉を?」
合理的ではない。
白でも黒でもない。
“1”でも“0”でもない。
人の心。
中庭で、鳥を呼んでいた彼の姿が浮かぶ。
「では、おやすみなさいませ!」
ランタンが消される。
(……私は……)
藍は、天井を見つめたまま、考える。
——彼は、少しずつ、自分の時間を持ち始めている。
(……Grailに——グレイルに……幸せになってほしい)
今日はここまででいい。
藍はそう思い、そっと瞼を下ろした。
その瞬間だった。
——外から、馬の蹄の音。
近い。
多い。
次の瞬間、テントの入口が乱暴に開いた。
「今すぐ出てください!!」
Grailだった。
切羽詰まる声が響いた次の瞬間——Grailが引き倒された。




