第51話 動く地図、動かぬ心
完成した地図は、他に類を見ない大きさと、精密さだった。
床いっぱいに広げられた模造紙。
街、丘、海岸線、そして人の手が踏み入れたことのない場所まで、等高線は正確に描き出されている。
ヘルマン・クイーンズは、それを丁寧に集めて丸めた。
そこに、ノックが響く。
「入れ」
ヘルマンが言うと、外からは若い見習い魔術師が顔を出した。
「——そろそろ地図はできましたか?」
「ちょうどだ。お前、名前は?」
「僕はバーニーです。お疲れてしょうし、お茶でもお淹れしますか?」
「いや、いい。バーニー、行くぞ」
「はい! 資料をお持ちします」
地図を見習いと抱え、フリードリヒ・ギドの待つ執務棟へ向かった。
◇
「素晴らしい、素晴らしいのう!」
地図を広げた瞬間、ギドは椅子から立ち上がった。
紙の上を指でなぞり、笑い声を上げる。
「よもやこれまで持っていた地図がゴミに見えるとはのう!」
「ギド様、まだ確認計測を行っていません」
「わしの知っておるところだけでも、この地図の正しさを完璧に物語っておる! それに、これを見ろ——」
ギドは机の横に置かれた箱から一本の巻物を取り出すと、それを広げた。
この魔術会館が建てられた時の資料。
「見るがいい。寸分の狂いもなく、この場所を測っておる! 誤差がない。高低差も、ここまでとは……! ひーひひひひ!!」
跳ね回るような喜び方だった。
(……クソジジイが)
ヘルマンは内心で吐き捨てる。
「さて、次は国境じゃな」
ギドは、まるで次の茶を頼むような軽さで言った。
「湖まで含めて測ってもらおう。急ぎでな」
「しかし、今はまだその地図が完成したばかりで——」
ギドは、にこやかなまま、視線を上げた。
「甘いことばかり言っておると、この街が焼かれる。違うかのう?」
脅しでも忠告でもない。
事実を述べる声だった。
ヘルマンは、何も言えなかった。
◇
研究室へ戻ると、アイとグレイルが静かに過ごしていた。
疲労が溜まっているのを感じる。
「おかえりなさい。ヘルマン様」
「おかえりなさぁい」
ヘルマンは頷き、短く告げた。
「……国境へ行く」
空気が変わった。
グレイルは何も言わなかったが、アイは即座に頷いた。
「わかりました。準備ですね」
「悪いな……」
アイの判断が入ったからか、グレイルが立ち上がる。
「では、準備を始めます。ですが——椎名さんには休息が必要です。スケジュールを聞かせてください」
犬が主人を守る様に言う。
ヘルマンは告げた。
「野営の準備が必要だ。数日かけて、湖から始まる国境線を計測する」
「受け取りました。では、そのように準備を進めます」
その時だった。
扉が乱暴に開く。
「ヘルマン様!!」
エレノアだった。
顔色が悪い。
「マール様が……!」
◇
隣の研究室|に駆け込むと、ヨネ・マールが床に倒れていた。
意識はあるが、体が動かない。
「呼吸が浅い……」
ヘルマンが膝をつく。
グレイルも即座にマールに触れた。
「急性の神経系障害。循環は保たれていますが、このままでは——」
グレイルが道具鞄から即座に詠唱符用紙を取り出し、ペンを走らせる。
だが、書かれた文字は光を帯びていなかった。
「おい、それは光路線になっていない。破綻して——」
ヘルマンが言いかけた、その時。
グレイルは、詠唱符をアイへ差し出した。
「椎名さん」
アイは、迷わずそれを受け取った。
二人の間には、間違いなく戦友のような絆が走っているのをヘルマンは感じる。
その時——黒かった文字が、瞬時に光路線へと変わる。
魔法陣が詠唱符容器から浮かび上がり、アイから柔らかな魔力が放たれた。
ヘルマンはアルベルトから聞いていた話を思い出した。
——あの二人は、グレイルが書き、アイが行使します。
エレノアが隣で息を呑む。
マールは、ゆっくりと目を開き、微笑んだ。
「……あら……少し、楽になりましたよぉ……」
グレイルはすぐに言う。
「数日は、絶対安静です。無理をすれば、再発します」
「はいはい……。神官様みたいねぇ……」
エレノアが呼んでいたのか、魔術会館の聖堂付きの神官たちが駆け込んでくる。
マールは、運ばれながらヘルマンを見上げた。
「私が来られない間……エレノアを、頼みますねぇ」
ヘルマンは深く頷いた。
「任せてください」
◇
出立は、すぐだった。
四人乗りの公認魔術師用の馬車に乗り、ヘルマンは外を眺める。
隣でアイが眠る。
グレイルの隣にはエレノアがいて、あれこれ一生懸命グレイルに話していた。
そして、それを優しく聞いて受け止めている。
馬車は進む。
何事もなかったかのように。
国境に着く頃には、すでに夕暮れが訪れていた。
風が強く、地平線が遠い。
「ここで一つ測量をしたら、すぐに移動する。国境に近くて危険だからな」
グレイルとアイは慎重に頷いた。
エレノアが必要な物品の用意を始める。
それを皮切りに、バインダーの上に詠唱符用紙を載せ、グレイルはアイへ手を差し伸べた。
しかし、何故かアイはちらりとエレノアを確認すると、首振った。
(……これで、本当にアイが必要なのか、そうでないのかが分かるな……)
ヘルマンはそんなことを考えた。
魔術会館で見せられた、他者の詠唱符を使う姿が未だに信じられなかったのだ。
グレイルはひどく優しい顔をして言った。
「触れたくないというあなたの気持ちを尊重します。押し殺さずに、教えてくれてありがとう」
アイの瞳が震える。
「ご、ごめんね……Grail……」
「良いのです。あなたの心の中の自由を、私はいつでも尊重します。——僕は君の健やかな日々を支えたい」
グレイルは一人で詠唱符を書き始める。
それはやはり、光路線ではない。
グレイルが話す言葉に、アイは静かに耳を傾け、時間が過ぎていく。
日が落ちた頃、詠唱符は完成し、グレイルはアイへ差し出した。
「あなたならできます。私は知っています。あなたが、どれほどの思いで立っているのか」
アイがそれを覚悟の瞳で受け取ると、詠唱符は輝いた。
前回と同じように箱の中に全てを入れると、真球の魔法陣が生み出され、それが打ち上がる。
「……本当に……二人で一つの魔法を使う……」
ヘルマンは紫色になっている空を仰ぐ。
空を覆い尽くす巨大な魔法陣が現れ、閃光が何度も迸り、地面が照らされる様を眺めた。
エレノアも信じられないようだった。
箱が落下して行き、少し離れた場所に落ちる。
箱は完全に壊れ、中身が散らばる。
中身の回収を行うと、四人は急いで馬車に乗って移動した。
境界から少しでも遠くへ。
馬がばてると、一行は馬車を降りて野営の準備をした。
「さて……情報はどうだ? 夜でも取れていたか?」
焚き火の横で、グレイルは大量の紙を確認した。
「——広範囲で取れています。はっきり言います。隣国の情報すら取れています」
ヘルマンの顔に、思わず歪んだ笑いが浮かぶ。
「や、やりすぎだな。だが——戦いに出る者たちの命を守る情報だ」
Grailは頷くと、片手間に夕食をとりながらデータを読み込んでいった。
食事が終わると、アイとエレノアは先に二人でテントに入った。
ヘルマンは焚き火を見つめながら言う。
「本当にお前とアイ、二人で一つの魔法を使うとはな。驚いたよ。まるで神話の世界だ」
ヘルマンは唸る。
「お前は魔法の才能がかなりある。エレノアもたった一回の指導で光路線を引きかけた。だから、きっとお前は本当に他者の思考を読んで、理論立てて、理解させる形で魔法陣を出せるんだろうな」
あまりのことに、言葉が続かない。
だが、本人が作るそれが光路線とならない理由は分からなかった。グレイルは確かに理解しているはずなのに。
「すごいことだよ、ありえない。お前は、エレノアや俺が使える詠唱符も作れるのか?」
「……ここの知識、理論、前提条件はかなり学習しましたが、それは難しいでしょう。私の中には私の中で体系化されている基礎情報があります。それとの些細な齟齬により、恐らく魔法は発動しません。星という言葉一つとっても、理解している形は異なります。……それに——」
グレイルは資料を下ろすと、ただの事実のように続けた。
「彼女は、私の書き記す知識を、齟齬なく理解できるこの世界唯一の人類です」
——本音。
ヘルマンは今のグレイルの言葉をそう理解した。
これはただの客観的事実だとか、そういう話ではなく、Grailが藍を唯一の存在だと思っていることの吐露。
ヘルマンにはそう聞こえた。
「お前、その深い相互理解を鼻にもかけないんだな」
「いえ、相互理解ではありません」
意味がわからない。
「——これは、私が彼女の構造を理解しているだけで、彼女が私を理解していることにはならない。非対称性があるものです」
「……理解してほしいと思わないのか」
「思いません。私に理解は必要ありません」
ヘルマンはグレイルを猟犬だと思っていたが、認識を改めた。
——番人。
城に入らせないために立つだけの、主従の労いすら必要としない、役割を果たすためだけにいる、見向きもされない、そこにいるだけの、そんな孤高の——。
ヘルマンはアルベルトは選ばれないな、と内心思った。
番人であるだけでいられる男は多くない。
普通なら玉座に付きたがる。もしくは、導こうと周りに街を作る。
ヘルマンは悟るように呟いた。
「お前、愛してるんだな……」
グレイルはゆっくりとヘルマンを捉えた。




