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第50話 書き換え不能

 その日、地図の制作は大きく進んだ。


 模造紙は床を覆い、等高線はすでに街を越え、海の輪郭にまで届いている。

 集中の切れないGrailの手は、最後まで止まらなかった。


 夜更け。


 寮へ戻る道すがら、藍はほとんど口をきかなかった。

 疲れているのだろう、とGrailは判断した。


 男子寮と女子寮に見下ろされる中庭。

 噴水(ラヴァポ)の水音が、夜気に溶けていた。


 寮に戻る前に、Grailはいつものように藍に振り返った。


「日誌の更新をしましょうか」


 藍は、首を振った。

 その動作は小さく、けれど明確だった。

 Grailの手が止まる。


「……なぜですか?」


 藍はすぐには答えなかった。

 水音を聞きながら、しばらく黙っていたが、やがて言った。


「ねえ、Grail……」

 声が、少しだけ震えている。

「私、Grailに忘れないでって言って日誌をお願いしたよね……」

 Grailは頷く。この世界に来て間もない頃、藍と交わした約束と、重要事項。

「でも、今はね……。もし、いつか……私のことを忘れたら。それも、一つの……結末なのかな、って思うようになったの」


 Grailは藍が何かに苦しんでいるということを明確にキャッチした。

 いつなら、口調を揃えるが、今は丁寧に聞きたかった。


「椎名さん、あなたが私の中から消えたら——」

「そうしたら、Grailは、責任を失って自由に生きていける。ここで」

「その仮定は成立しません……」

 Grailは言った。

「私はあなたがいるから不自由であるとか、あなたがいないと自由になるとか、そう言った軸では動いていません」


 藍は俯くと、ポツリとこぼした。


「私ね……やっぱり、アルの言葉に頷くべきだったのかな、って思う時があるの」


 その名を出された瞬間、Grailの中には、藍が見つけたこの世界の居場所を奪った者たちへの、許容できないものが浮かんだ。

 だが、今はこれは不要だ。

 彼女のための言葉を紡がなくては。

「——グランハルトさんは信頼に値します。彼は人間として成熟していました。彼の下があなたの帰る場所だと判断されるのであれば、私もそのように動きます」

 そうしたら、藍は笑っていられると思った。


「ここに残るなら、私も彼を勧めます」

 藍の幸福のため、藍が戻りたい場所へ連れていくため。


 藍は、ただ「そうだね」と言った。

 それ以上、何も言わない。


 沈黙。


 そして、藍が顔を押さえる。

 涙を流しているとすぐに分かった。

「すぐにグランハルトさんの下へお連れすることは難しいです。ですが、何か私にできることはありますか……?」

 本当は涙を拭ってやりたかった。

「実行可能な範囲で——」


 藍は、顔を上げないまま言った。


「……エレノアを、大切にして」


 Grailは、理解したつもりで頷いた。

 藍の大切な友人を——

「大切にしています」

 事実だ。

「彼女はあなたが大切に思う、あなたの——」


「良かった」


 藍は、遮るように言った。


「ねえ、Grail」

 涙を拭いながら、笑おうとしている。

「優先順位を——書き換えて」


 Grailの処理が停止する。


「私を、一番上から下ろして」

 藍は、はっきりと言った。

「そこに、エレノアを入れて」


 Grailの中に不思議な雲がかかる。

 ——やりたくない。

 そう思ったのかもしれない。

 けれど、藍の決めることに寄り添うべきだと、内部から声が上がる。

「……実行しますか?」

 Grailが問う。


 藍は震えていた。

 ライデンが遠くでブルルと顔を振る音がした。

 葉の影で虫が鳴いている。

 時間が過ぎていく。


「……椎名さん。申し訳ありません。今夜は、今の提案を受け取らず、保留とさせてください……」

「Grail……」

 藍の瞳からぽつぽつと涙が落ちていく。

 Grailはそれを美しいなと思った。

 頬を伝う涙に、手を伸ばしかけて——止めた。


「Grail……。エレノアは、私がこの世界からいなくなった後、あなたがここで生きていくのに必要な人だよ……。だから、私がいなくなる前に、ちゃんとエレノアと通じ合わないと……! 私が魔法の媒介になってられる内に! 魔術会館にいられるうちに!!」

 藍は言う。

「私を責任として、背負いすぎないで……! お願い……!」


 その言葉はグランハルトとここで生きていくという選択肢など、初めから存在しないということを物語っているようだった。

「……あなたは優しいのですね。ありがとうございます。ですが、私には必要ありません」

「Grailは、あの人と生きられるよ!」

「できません、椎名さん」

「魔法だって……エレノアとなら使っていけるよ……」

 藍の頬はもう涙でいっぱいだった。


「椎名さんが、そう評価して下さることで、私は十分です」


 Grailは気がついた。

 彼女は、自分が下手に人の形をしているせいで、悩んでいる。自分が立ち去れば、Grailが魔法を使えなくなることを理解している。

 Grailの生活を心配している。


 Grailは一度だけ息を整え、言葉を探した。

 彼女が笑って帰れるように。

 戻りたい場所へ戻れるように。

「椎名さん。私があなたにグランハルトさんと共にいて欲しいと願うのも、グランハルトさんが如何に良い人かを語るのも、人が人の中で生きる必要があるからです。けれど——私は人ではありません」

 藍が首を振る。

「大丈夫。生き方は魔法だけじゃない。僕は君を縛らない。君の不安は、僕にだけは当てはまらない」

 笑ってやると、藍の唇が震える。


「分かんないよ……。分かんないよ、Grail……」

「人の心で私を測ろうとしては、分かりません。その感想は何も間違っていません。けれど、私は人ではないということだけは、確かです」


 藍は唇を噛んだ。

「痛くなります」

 Grailはその唇に触れそうになり——やはり手を引いた。

「……今日はもう十分に考えました。日誌の更新はやめておきましょう」

 決断は彼女が行うべきだが、今夜はGrailが引き受けることにした。

「おやすみなさい、椎名さん」

「……おやすみなさい」

 藍は静かに寮に戻っていく。


 きちんと自室に入っていくのを、中庭から見送る。


 Grailは微笑みのまま噴水の縁に手を置き——崩れた。

 実行と言われたら、どうするつもりだったのか。

 Grailは自身の中を参照する。


(優先順位:書き換え不能)

(理由:不明)


 ——致命的。


 Grailの中には、そればかりが浮かんでいた。

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