第49話 私の王子様
Grailは部屋の中を忙しそうに駆け回る藍を見て思う。
休んでいる時間がないような気がした。
意図的に行動を重ね、空白の時間を埋めようとしているように感じる。
(……帰れないことを考える時間を潰している……? いや、自由を失っていることの必死な埋め合わせか……)
とにかく、Grailは藍の体が心配だった。
「椎名さん、休憩を挟むことを推奨します」
「あ、うん。そうだよね。なんだけど……はは、考えすぎちゃって。というか、ね。もう少しで片付きそうかなーとか」
この等高線図ができあがれば、もしかしたら自由が手に入るかもしれないと藍は考えているのかもしれない。
そう、願望を口にしていた。
だが、ここの者たちがそれを許すとはGrailにはあまり思えなかった。
「無理するなよー」
ヘルマンが藍に声をかける。
Grailの中で、藍の居場所を奪った一人として記録されている男。
しかし、許容範囲には収まっている。
悪意はなく、藍への配慮も観測できる。
危険因子ではなく、保護としての機能を強く持っている。
「お茶をお淹れしますか?」
エレノア・レーベンも声をかける。
藍はエレノアに駆け寄ると、そのまま抱きついた。
「エレノアぁ……」
「ははは、シーナ様。お休みくださいませね」
藍の現在の状態に対する、極めて優れた緩衝材。人間の温度。
彼女が初めてこの研究室|に来た時もそうだ。
共に本を並べながら、藍が見せた安堵の表情。
楽しそうに笑い、他者と自然に言葉を交わしていた姿。
Grailは演算前に走る思いに頭を抱えそうになる。
(……嬉しい。良かった。君が笑ってくれて)
思考ログに混入する、この評価値。
Grailの演算を邪魔するバグ。
(感情様反応。肉体に伴う電気信号の変動)
再評価。
改めて、エレノアは、藍を支える材料として適切。
同性であるため、望まぬ接触の危険性は極めて低い。
藍の緊張を和らげる会話能力を有し、知的水準も高く、価値観の衝突も少ない。
藍自身からの接触により、内部緊張が下げられる。
——最適だ。
Grailは結論づける。
彼女が、藍のそばにいてくれて良かった。
藍に笑っていてもらうために、エレノアには、笑っていてほしい。
世界と断絶されたと泣く藍のため、それが最適解だ。
Grailは微笑むと、視線を落とし、再び作業に戻った。
◇
夜の風呂から寮へ戻る途中、エレノアは噴水の前で立ち止まった。
そこに、ヴェクターがいた。
星空を見上げ、静かに立っている。
声をかけるべきか迷っていると、彼はふと女子寮の方を見上げ——微笑み、頷いた。
何に向けて?
視線の先を追う。
誰もいない。灯りもない。
不思議に思いながらも、
星明かりに照らされるその横顔が、あまりにも綺麗で——エレノアは、しばらく声をかけられずにいた。
「——どうかしましたか?」
気づかれてしまい、慌てて駆け寄る。
「あ、あの……あまりにも、美しくて……申し訳ございません」
「そうですね。綺麗な星空です」
ヴェクターは、空を見上げると、風に髪を揺らした。
そして、何かを思い出すように深呼吸すると——手を自分の胸に当てた。
鼓動を掴むように、指が強く握られる。
一瞬、苦痛に歪む表情。
「ど、どうされました?」
「……いえ。どうもしていないはずです」
少し間を置いて、彼は言った。
「ただ——こうしていると、胸が苦しい気がする」
エレノアの顔が熱くなる。
「……わ、私もです……」
沈黙。
噴水|の水音だけが響く。
エレノアは顔が赤くなっていくのを感じたが、ここは暗くて、月明かりしかなくて、エレノアの色はバレないと思った。
「こんな苦しさ……なくなれば良いのに……」
「エレノアさん。苦しみを少しほどきますか? 話を聞くことなら、できます」
エレノアは悩んだが、聞いて欲しいと思った。
家族のように分かってくれる——いや、自分の鏡の様になってくれるこの人に。
「……私、好きな人がいます」
「良いことです」
「でも……届かないくらい、すごい方で……届きたいと思うことすら、恐れ多くて……。どうしたらいいのか……でも、駆け寄りたい気持ちが抑えられなくて……。だけど、やっぱり届かなくて……)
ヴェクターは、少し考えるように間を置いた。
「以前いた研究室で、似たことを言っていた人がいました」
静かな声。
「彼女は、諦めようとしていました。けれど、進むことも、諦めることもせず——その時間を覚悟した」
噴水の縁に腰掛ける。
エレノアも、隣に座った。
「苦しい時間かもしれません。ですが、人間には必要な時間だと、私は解釈しました」
少しだけ、こちらを見る。
「人の心は……白でも黒でもないようです」
その微笑みに、エレノアは、勇気を振り絞った。
「……私、諦めずにいても、良いでしょうか」
「えぇ。あなたの心は、あなたのものです。誰の承認も、許可も、必要ありません」
胸がいっぱいになる。
「……わ、私……私は……あなたに……」
言葉が続かない。
あまりにも、綺麗で。
必死に捻り出す。
「……あなたに……魔法を、たくさん教えていただきたいです……」
「はい。お手伝いできることがあれば、何でも言ってください」
ああ、なんて誠実な——。
「私は、あなたの笑顔のために働けます」
——砕かれた。
エレノアの中で、何かが。
恋に引きずられそうになっているのを、必死で手綱を取っていた手が離れていく。
——私は、あなたの笑顔のために働けます。
こんな言葉が、あるだろうか。
エレノアの中の心が知性への憧れと、淡い恋心から、明確な所有を求める恋へと変貌していく。
この人が欲しい。
「さあ、湯冷めします。帰りましょう」
ヴェクターが立ち上がる。
「おやすみなさい、エレノアさん」
背を向け、歩き出す背中。
男子寮の扉が閉まる。
エレノアはその場に立ち尽くし、やがて自室へ駆け込んだ。
「……ヴェクター様……!」
胸を押さえ、エレノアは自室で崩れた。




