第48話 不在でも回る世界
夜の空気は、昼間の熱をすっかり失っていた。
Grailの部屋の庭に置かれた金属製の机と椅子。
その上には日誌。
藍は、Grailの隣で空を見上げていた。
街の明かりは坂の向こうに落ち、二つの月は思ったよりも近い。
広がる海がどこまでも暗く広がる。
ペンが紙を擦る音だけが、静かに続いている。
しばらくして、藍はぽつりと言った。
「……Grail、人を導けるね」
ペンの動きが止まることはなかったが、声はすぐに返ってきた。
「そのような大層なことはできません。私は人の思考を整理し、最適な選択肢を提示しているだけです」
「AIっぽい答え」
「事実だよ」
Grailが言い、藍は小さく笑った。
(……私の思考も、整理してほしいな)
ふと、そんなことを思う。
けれど、胸の奥に沈んでいる、どろりとした感触を思い出して、すぐに打ち消した。
これは見せられない。
見せてはいけない。
今日のエレノアの顔が、脳裏に浮かぶ。
理解された瞬間の、あの衝撃を受けたような表情。
——ああ、分かる。
アプリの向こうで、
Grail Vector Protocol Applicationに強く理解された時の、あの安心感。
藍は、遠くを見つめたまま呟いた。
「……こんな時、スマホがあればな……」
その瞬間、Grailはすぐに顔を上げた。
「何かお調べしますか? お手伝いいたします」
「ううん……違うの」
「……承知しています。違うと分かっていました」
藍は少し驚いて、彼を見る。
「安心してください。上級公認魔術師の賃金は十分です。グランハルトさんの下で働いていた時の蓄えもあります。顔料の購入への道をきちんと進んでいます」
「……でも、戦争前で、国が全部かき集めてるよね」
Grailは迷いなく言った。
「ならば、戦争を終結させます。大丈夫です」
一拍置いて、はっきりと。
「私はGrail Vector。あなたの健やかな日々を支えます」
それは誓いではなく、宣言だった。
AIとしての矜持。
藍は目を伏せた。
(……帰る時のこと、考えちゃった)
もし、本当にここにGrailを残して帰るのなら。
魔法を使えなくなる彼のそばには、誰かが必要だ。
——今日、Grailが手を差し伸べることで魔法を理解し始めたエレノア。
Grailがかつて言ってくれた言葉。
『彼女は、私の書き記す知識を、齟齬なく理解できるこの世界唯一の人類です』
その唯一性が、失われてきている気がした。
それは良いことだと思うと同時に、痛みを突きつけた。
エレノアは、Grailの唯一になれるかもしれない。
二人が肩を並べる姿を想像すると、胸がひりつく。
だというのに、藍がいない世界で、魔法を失い、誰にも見られずにいるGrailを思うと、もっと苦しくなった。
その時、Grailがペンを置いた。
静かに立ち上がり、藍の前に回る。
そして、そっと頬に触れた。
「……泣かないでください」
その言葉で、初めて気づいた。
視界が滲んでいる。
「必ず、お帰しします」
低い声。
「私の全てをかけて」
——そんなこと言うなんて、酷い。
藍はそう思いながら、何も言えずに頷いた。
Grailの手が離れる。
日誌を手渡される。
「こちらを」
「……ありがとう。もう、部屋に行くね」
「はい」
Grailは中庭まで見送ってくれた。
噴水の水音が、一定のリズムで響いている。
女性寮に入り、自分の部屋に入る直前、藍はふと振り返った。
中庭が見える廊下の窓を覗く。
そこでは、Grailが夜空を見上げていた。
そして、ふと目が合う。
Grailが笑って、頷く。
“安全だよ”の、あの笑顔。
藍は明確な安堵に包まれてしまったことを理解すると、自分が嫌で部屋へ向かった。
◇
翌日。
Grailは再び、読み込み作業に戻っていた。
しばらくして、ノックの音。
ヨネ・マールとエレノア・レーベンが入ってくる。
エレノアが自然にGrailの世話を焼くのを、藍は少し離れた場所から眺めていた。
「アイさん、どうしました?」
マールが首を傾げる。
「あ、えっと……はは。少し、気持ちが重たくて……」
「アイさん——いいえ、アイちゃん。少しこのお婆さんとお話ししませんか?」
そう言われ、二人で研究室|を出た。
二人で中庭のベンチに座る。
「……あの魔法ねぇ」
マールは穏やかに笑う。
「ヴェクター様より、私はアイちゃんが肝だと思ってますよぉ」
「え……?」
「歳を取ると分かるのよぉ。誰が覚悟して、ものを動かしているのか。あの時、覚悟していたのは、アイちゃんだったでしょう?」
藍は、理由も分からないまま、涙が溢れた。
「ヴェクター様にも覚悟はある。でもねぇ」
マールは藍を抱きしめる。
「それでも、頑張ったのはアイちゃんよぉ。このお婆さんは、ちゃあんと見てた」
「……おばあちゃん……」
頭を撫でられ、抱きしめられる。
それだけで、少しだけ呼吸ができた。
昼になると、マールは手を振って戻っていった。
藍が研究室|の扉を開けると、床いっぱいに模造紙が広げられていた。
地図の制作が、始まっている。
集中するGrail。
Grailの汗を拭き、インク壺を用意するエレノア。
すぐそばにしゃがみ、腕を組んで見下ろすヘルマン。
ふと、Grailが初めてこの世界で手に入れた——テナーがGrailに渡した杖ペンの先が割れる。
書きすぎたのだ。
エレノアがすぐに自分のものを差し出し——
「ありがとう」
Grailが微笑む。
藍は、そっと扉を閉めた。
Grailの唯一になれるかもしれない女性。
中庭に戻る。
床の一部が抉れ、壊れた箱の破片がわずかに残っている。
あの日の衝撃の名残。
破片を拾い上げ、藍は呟いた。
(……早く帰らないと)
胸に手を当てる。
(私……私…………)
藍は、胸の痛みにうずくまった。




