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第47話 理解の距離

 その日は、静かに終わるはずだった。


 ヘルマン・クイーンズ上級公認魔術師が、すっかり暗くなった外を見て言う。

「今日はここまでだ。続きは明日でいい」


 机に向かっていたグレイル・ヴェクター上級公認魔術師は、素直に書類を置いた。

「Grail、お疲れ様でした」

「いえ、このスピードなら、明日の昼にでも等高線図——地図が書けます」

 シーナ・アイ上級公認魔術師が安堵の様な息を吐く。

 あのよく分からない書類を見るのも、地図を書くのも、魔法陣を書くのも、全て一人でやるヴェクターの撤退ぶりに、エレノアは心底感心した。

(でも、そこまでの理解がないと魔法は使えないのよねぇ、きっと)


 エレノアは急いで湯を淹れ、カップを運んだ。

 こういう下働きは慣れている。見習いとして、当然の役目だ。


「お疲れさまでした」


 差し出すと、ヴェクターは視線を上げて頷いた。


「ありがとうございます。では——あなたのことを教えてくれますか? 話をしましょう」


 一瞬、胸が跳ねた。


(……え? こ、ここで?)


 エレノアの中を様々な言葉が巡り、戻ってくる。

 さっき、「終わった後話を」と言われたのは、夕食に誘われたのだとばかり思い込んでいた。

 よく考えれば、そんなわけはない。今日会ったばかりなのに。

 自意識過剰だ、とエレノアは内心で自分を叱った。

 今日の服が二人きりの夕食にふさわしいか考えていたのが恥ずかしい。

 見目麗しい、話題の彼と二人で歩けるなんてちょっと優越感を覚えちゃいそうだな、とか——そんなことばかり考えていた。


 エレノアが内心でのたうち回っていると、ヴェクターは続けた。

「あなたの思考の癖、ものの捉え方を検査します」

「あ、はい! 検査、ですね?」

「はい。詠唱符の作成を左右する重要な要素です」


 感情の入り込む余地のない、あくまで実務的な声音。

 エレノアは少しだけ安心し、そして少しだけ残念に思った自分に気づいて、また慌ててその感情を振り払った。


「質問に答えてください。正解はありません」


 そう言われ、いくつかの問いを投げかけられる。

 熱とは何か。力とは何か。なぜ摩擦で温度が上がると思うのか。


 エレノアは、これまで自分が教わってきた通りに答えた。

 体感、経験、生活の中で理解してきた感覚。


 ヴェクターは黙って聞き、やがて小さく頷いた。


「だいたい分かりました」


 そう言って、詠唱符用紙を一枚差し出す。


「では、熱の魔法陣を書いてください」


 エレノアは深呼吸し、ペンを取った。

 慣れた手つきで描く。何度も書いてきた形だ。


 ——だが。


 詠唱符は、光路線にならなかった。


 エレノアは唇を噛む。


「あなたの理解は、肉感すぎます」


 淡々とした声。


「間違いではありません。手を擦れば熱が生じる。それは事実です。ですが——」


 ヴェクターは、エレノアの隣へ一歩身を寄せた。

 距離が、近い。

 思わず陶器のような肌に見惚れそうになる。


「もっと抽象化してください。熱は結果です。原因ではない」


 そう言って、彼はペンを取り、詠唱符を書き始めた。


 迷いのない線。

 概念がそのまま形になったような、無駄のない構造。


 ——分かった。


 見た瞬間、そう思ってしまった。


 衝撃的なほど、分かりやすい。


「私も、この国の価値観と前提知識を相当量学習しました。これで進めると思います」


 ヘルマンが首を傾げる。

「そんな簡単なことか……?」


 だが、エレノアには分かった。


 これは“簡単”ではない。

 世界の見え方そのものが、書き換えられたのだ。


 新しい詠唱符用紙に向かい、エレノアは再びペンを下ろす。

 集中する。今度は、原因から考える。


 ——一瞬。


 詠唱符が、光を帯びた。


「わ……!」


 思わず声が出た瞬間、集中が途切れ、光は消えた。


 エレノアは肩を落とす。


 だが。


「できますよ、あなたなら」


 すぐ隣で、ヴェクターが微笑んだ。


 その瞬間だった。


 胸の奥を、何かが撃ち抜いた。


(……あ、い、いけませんわ……)


 こんなふうに思うなんて、はしたない。

 会ったその日に。

 こんなにも簡単に。


 でも、心臓の鼓動が止まらない。


(この人について行きたい)


 ——それが、どこへ向かう道なのかも分からないまま。


 美しい瞳、長いまつ毛。エレノアの体の奥の温度が一気に上がっていく。

 抗いようがなかった。


 エレノアは必死に平静を装い、微笑み返した。

 視線を逸らすことが、どうしてもできなかった。


 ◇


 その頃、別の場所で。


 フリードリヒ・ギドは、愉快そうに笑っていた。


「地図の精度など、もはや関係あるまい」


 周囲の管理魔術師たちが顔を見合わせる。


「と、申しますと?」

「おぬしら、見に行かなかったのは手落ちよのう」


 ギドは、ゆっくりと名を口にした。


「グレイル・ヴェクター。あれはとんでもない——兵器じゃ」


 高笑い。


「気持ちの安定、集中のために女は必要なようじゃがな。物を飛ばし、雷光を放つ。敵前にあれが出れば、どうなるか……分かるじゃろ?」


 優しげな笑顔のまま、古い地図を机の中央に広げる。


「あやつは望遠鏡を覗くな、と言った。つまり——」


 楽しげに、指を鳴らす。


「索敵の“目”を潰せるということじゃ」


 一人が笑う。

「目を潰せたら、次に放つものは光である必要はありませんな」


 ギドは目を細め、手を叩いた。

 そうじゃのう、そうじゃのう、と。


「——火を焚べれば良い。空から」


 穏やかな声だった。

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