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第46話 空白の書架

 研究室(アトリエ)の床は、まだ新しい木の匂いがした。

 書架は空で、壁際に積まれた箱だけが増えていく。


 藍はソファに腰を下ろし、毛布を膝に掛けたまま、ぼーっとその光景を見ていた。


 机の前で、Grailが紙の束をめくり続けている。

 表も裏も、黒く埋め尽くされた“1”と“0”。


「そんな量、読めます……?」


 藍が呟くと、Grailは目線を上げないまま答えた。

「読みます。椎名さんが取ったデータを、意味のある形にします」

「やりすぎました? Grailの負担を考えてませんでした」

「いえ、データを読むことも、等高線図を作ることも大したことはありません」

 そんなわけがあるかい、と藍は苦笑した。

 後で、体は人なのだから気をつけるように言おうと思った。


 話を聞いていたヘルマンも呆れ、ソファの背に肘を乗せる。

「おい、グレイル。急がなくてもいい。スピードよりも丁寧さの方が必要だ」

「両立できます」

「両立って……。人間、休まないと壊れるぞ」

「私は壊れません」

「……そういう言い方をする奴ほど、壊れるんだよ」


 ヘルマンが小さく笑い、ミニキッチンへ向かった。

 湯の沸く音がして、香りが立つ。


「ほら、飲め。アイも」


 差し出された湯飲みを、藍は両手で受け取った。

 温かさが指先に沁みる。


 Grailも素直に礼を言って受け取った。


「ありがとうございます」

「礼が言えるなら、休みます、も言え」

「検討します」


 藍は、そのやり取りを見ながら思った。


(……思ったより平和だなぁ)


 もっと大変な思いをするかと思っていた。

 とりあえず、これでまたしばらくは安心して過ごせそうだ。

 藍はヘルマンに怒られるGrailを眺めて笑った。


「やれやれ……アルベルトはお前をどうやって休ませてたんだか」

「当時は仕事が雑用くらいしかありませんでした」

「……それは休めるわけだ」


 ヘルマンが頭を抱えていると、ノックの音がした。

 藍が出ようとすると、それを手で押し留め、ヘルマンが扉へ向かう。


「誰だ?」

「失礼いたします。公認魔術師のヨネ・マールと、私の研究室(アトリエ)の見習い魔術師——」

「エレノア・レーベンでございます」


 藍には誰だか分からなかった。


 扉が開き、入ってきたのは優しそうなおばあさん魔術師と、儚い雰囲気の若い魔術師だった。

 淡い髪、涼しげな目元。立ち姿だけで品がある。


「隣の研究室(アトリエ)ですので、ご挨拶に参りましたよ。ご高名なヘルマン・クイーンズ上級公認魔術師様が隣になるとは、私にとっても、うちの見習いにとっても、これ以上ない幸運と思いましてねぇ」

「あぁ、いえ。マール女史。とんでもありません。名前を知っていただけているとは光栄です」

 ヘルマンは自分より立場が下ではあるが、年上だと分かるマールに丁寧に頭を下げた。

 それから、隣にいる見習いに手を挙げた。

「エレノア、先ほどは資料の回収、助かった。一番に君が動き出すのを見ていたよ」

「いいえ、公認魔術師の皆様はヴェクター様の仰っていた理論の反芻にお忙しそうでしたので。私には、まだ何も分かりませんもの」


 照れくさそうに笑う姿が、なんとも清らかだった。


「これから長いお付き合いになると思いましたので、ご挨拶に。うちのエレノアは本当に素直に何でも聞きますのでねぇ。たまに、エレノアにここにも勉強に来させていただけると嬉しく思いますのでねぇ」

 マールはニコニコしていて、藍は無意識に祖母を思い出した。

「グレイル・ヴェクター上級公認魔術師様も、アイ・シーナ上級公認魔術師様も、どうーぞ、よろしくお願いいたしますねぇ」

 引き寄せられるように立ち上がり、頭を下げる。

「よろしくお願いします。……藍です……」

「アイちゃん、いえいえ、アイさん」

 マールも藍に丁寧に頭を下げた。

「私はもう、来年には魔術会館を出ますんでねぇ。お二人みたいな、この先のある方々にエレノアを頼めると、嬉しく思いましてねぇ」


 Grailも軽く頭を下げる。

「我々も長くは留まらないかもしれません。ですが、できる範囲のことはご協力いたします」

「えぇ、えぇ。それで構いませんよぉ。エレノア、ここで荷解きをお手伝いしてきてくれるかねぇ」

「はい、マール様」

「お邪魔になりましたら、いつでもお戻しくださいねぇ。何と言っても、国を揺るがす大実験だと伺っておりますのでねぇ」

 マールは全員に焼き菓子を一つずつ渡すと、もう一度丁寧に頭を下げて出ていった。


「良い師だな」

「はい。マール様が来年ご引退なさるなんて……。ですが、私、マール様がご引退なさる前に、必ず詠唱符を自ら書けるようなりますわ。そして、安心されてここを発てるようにして差し上げたいのです」

「花向けだな。素晴らしいことだ。グレイルは忙しいかもしれないが、俺が教えられることは教えよう」

「感謝いたします!」

 エレノアは花咲くような笑顔で笑った。


 そして、Grailが忙しくしている様子を確認すると、藍の下へ来た。

「シーナ様も、どうぞよろしくお願いいたします! 素晴らしいご活躍に、私感嘆いたしました」

「あ、あはは。ありがとうございます。エレノア——レーベンさん」

「エレノアとお呼びくださいませ。あ、ですが、私はシーナ様をシーナ様をお呼びいたします。恐れ多いですもの。あれほどの魔法を学ばれた方に」

 藍は少しだけ照れた。

 今回は、しっかり頑張って勉強をして挑んだので、藍の手柄もちょぴっとはあると自負していた。


 ヘルマンは「茶でも出すか」とミニキッチンへ引っ込む。

 藍はエレノアと二人で箱を開け、中に入っている本を書架へと移して行った。


 そして、エレノアと二人で同じ本を掴み、二人は笑った。

「うふふ、シーナ様、ここは私が」

「いえいえ、エレノアさん、ここは私が」

「……シーナ様? 上級魔術師ともあろう方が、このような下働きをされては、見習いの私の立場がありません」

「私は名ばかり上級魔術師ですから」


 藍が苦情混じりに言うと、エレノアはおかしそうに笑い始め、研究室(アトリエ)には二人分の柔らかな笑い声が響いた。

 エレノアは「では、私はもっと見習いに相応しいお仕事をいたしますわね」と言い、三人の机を拭きに行った。


 Grailは机を拭きに来たエレノアに礼を言った。

「ありがとうございます。あなたが来てくれて良かったです」

「——え?」

 エレノアは一瞬、動きを止めた。


「あ、いえ……下働きはお任せくださいませ。気持ちよく作業できますよう、尽力いたしますので」

「お礼と言っては少し大袈裟ですが——」

 Grailは手元の書類に視線を落としたまま続ける。

「これの読み込みが終わった後、少し話をしませんか?

 あなたのことを教えてください」


 エレノアは、ぱちくりと目を瞬かせた。


「……わ、私の、ことを?」


「はい。あなたの思考の癖を知りたい」


 ほんの一拍。

 それから、エレノアはゆっくりと頷いた。


「……ありがたく、お受けさせていただきますわ」

「では、終わりましたら声をかけます」

 Grailが再び書類に目を落とす。


 エレノアは藍の隣へ戻った。

「え、えっと、ヴェクター様は、丁寧な方ですね。あれ程の魔法をお使いになると言うのに」

「そうなんです、よね」

 答えながら、藍はこんなことは初めてだと思った。

 来た日に見た、鳥を草笛で呼んでいる姿が過ぎる。

 彼は、何かが変わり始めてる——。


「私も、ヴェクター様を支えられる杖になれたら良いのですが」

 エレノアが静かにGrailを眺める。

「杖……?」

「あ、シーナ様が研究でヴェクター様と伴走されたからこそ、ヴェクター様の安心材料になりえたとは分かっております。少し不相応な目標でしたわね」

 藍にはエレノアの言っていることがよく分からなかった。

「——まあ、完璧な人間なんていないというわけだな。あれほどの魔法を成立させるなら、手を握って緊張をほぐす相棒も必要になる」


 ヘルマンの言葉で、藍はようやく悟った。


 中庭では、Grailが詠唱符を書く時から手を繋いでいたので、Grailの引く文字はずっと光路線となっていた。

 藍はそれを受け取って箱へ入れ、蓋をし、最後に命じただけ。


 周囲の目には——Grailが魔法を使い、藍は補助をしているように見えただろう。

 Grailは「補助輪」だと言う。

 でも、今のやり方なら――補助輪は藍の方だ。


 藍は、それを妙に冷静に受け止めた。


(すごい、妥当な判断)

 そんな他人事な評価だった。

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