第35話 二人ならできたはず
「冗談と本気、半分半分かな。ははは」
アルベルトが笑う。
藍も笑う。
そんな未来も良いかもしれないな、と思ったから。
一人でいられる者同士、いなくて苦しいとか、そばにいると離れることを考えさせられるとか、そんな回り続ける何かを止められる場所。
アルベルトはそういう人だと思った。
この人の正しさや、大人として成熟した言葉のどれもが藍を揺らした。
(……Grailが聞いたら、なんて言うんだろう)
きっと、人間の輪に戻ることを喜ぶ。
でも、帰らなくて良いのかと、きっと聞いてくる。
(帰りたくないから……それはそれで良い……)
帰りたくないという気持ちを最大限安全に包んでくれる相手。
けれど、帰りたくない理由は——
(……Grailがいるから……)
藍はやっぱり正解をGrailしか持っていなかった。
アルベルトが靴を脱いでソファの端で膝を抱える。
そういう仕草も、すごく人間らしかった。
藍も靴を脱いで向かい合って膝を抱えると、ソファは狭かった。
アルベルトは笑って靴下のまま立ち上がる。
向かいのソファに行くのかなと思って見ていると、アルベルトの席に掛けられていた膝掛けを取って戻ってくる。
藍の足首まである長いスカートの上にそれを掛け、アルベルトは元の場所に戻った。
「やれやれ、狭いなぁ」
「本当だねぇ」
意味もなく見つめ合ったりして、あったかもしれない未来を思った。
この人は一人でいられる。
だから、藍はちゃんと“半分”に答えようと思った。
「アル」
「何?」
「私、アルとは結婚しないよ」
「ふふ、良いよ。俺は一人でいられる人だからね」
彼は全く気負わずに言うと、本を読み始めた。
藍も何か読みたいなと思うが、何も読めない。
「アル?」
「はいはい、お姫様」
「読めないから、音読してほしいな」
「音読? 良いよ」
藍はその夜、アルベルトが読む難しい本の話を聞きながら眠った。
◇
眩しい。
カチャカチャと朝ごはんの用意をする音がする。
(おばあちゃん、今日はゆっくり寝られる日だから——)
と思ったところで、藍は肩に触れる温もりに目を覚ました。
「——アイ。朝だよ」
「……ん……グランハルトさん?」
グランハルトは「お?」と言うとアイの向かいのソファに座った。
起き上がり、目を擦る。
机の上には朝食と紅茶が揃っていた。
少しづつ昨日のことが思い出されていく。
藍は「あ」と声を漏らすと、グランハルトに——アルベルトに心の門を少し開いた。
「アル、おはよー」
「おはよう。昨日のことは夢かと思ったよ」
「ははは、私も」
「ふふ、まぁ、夢でも良いよ。さ、食べなさい。もう少ししたら、ヴィヴィアナとヴェクターさんも来る時間だよ。私は今日オルフェリダン所長のところに行くから」
「はーい。いただきます。ありがとうございます」
藍はアルベルトの用意してくれた、パンにハムとチーズだけが挟まれたものをあっという間に食べた。
「君ねぇ、その美貌でそんなにむしゃむしゃ食べて」
「私、美人じゃないから美人の所作が分からないんです」
「何言ってるんだか。さて——美人じゃないお姫様は今日、私の補佐で一緒に来てくれないかな?」
「アルと?」
「大したことじゃないんだけどね」
アルベルトは「まず」と言って指を一本あげた。
「所長に始末書を出して、ご遺族に渡す見舞金を預かる。次に、郵便屋に行って、昨日のうちに手紙を届けてくれたか確認する。乗合馬車に乗って少し遠出をして、ご両親にお詫びの品を用意する」
「近くのお店じゃダメ?」
「ヨーナスが好きだった紅茶の専門店があるからね。そこの味を持って行きたい。良いかな?」
「はい、アルのするべきだと思うことについて行きます。見習いだから」
「よし。じゃあ準備しよう」
アルベルトが皿を片付けようとするのを受け取り、藍が片付ける。
ローブに皺がついたと眺める様子に笑い、「気にならないよ」とか「俺は気になるよ」とか無駄なやり取りをする。
道具鞄を着けるアルベルトに、詠唱符用紙が足りているか確認する。
ローブを背から着せてやり、肩まで上げる。
「ふーむ、夫婦みたいだ」
「やだ〜〜」
「ははは、こう見えて私はモテるよ。君は後悔する」
くるりと回り、アルベルトは藍の鼻をつんと触った。
「何せ、給金も良い」
「お馬鹿さん」
「——本当に馬鹿」
突然響いた硬い声に、二人はそっと振り返った。別に後ろめたくもないので、二人とも驚かなかった。
扉の方を見ると、ヴィヴィアナとGrailがいた。
「あ、おはようございまぁす」
「やあ、おはよう。ヴィヴィアナ、ヴェクターさん」
「おはようございます。椎名さん、グランハルトさん」
Grailはどこか安心したような顔をしていた。
「グランハルト、馬鹿じゃないの。本当に。ヨーナスが亡くなったのに、ありえない」
ヴィヴィアナが軽蔑の目をアルベルトに向ける。
けれど、藍には笑った。
「おはよう、アイ。早かったんだね。上司がこれじゃ気持ち悪いでしょ」
「ははは」
「酷い言いようですねぇ……。さて、今日やる事を皆に伝えます。まずは——」
アルベルトは手を胸の前に組んだ。
「黙祷」
その後、それぞれが今日やるべきことへと散っていった。
◇
馬車が揺れる。
何頭もの馬が、マイクロバスのような荷車を牽く。
藍はベンチシートに座り、想像よりも揺れる様子に困惑した。
「こんなに揺れるんですね」
「乗合馬車は初めて?」
「初めてです」
「酔ったら言いなさい。降りようね」
アルベルトが大人のような口ぶりで言う。
藍は「はぁい」とだけ返しておいた。
馬車を降りた先は、繁華街だった。
藍はGrailと初めて買い物をした日を思い出した。
「わぁ、可愛い街ですね」
「そうだね。ヨーナスの紅茶を買ったら、昼食にしよう。昼を食べて時間があれば、店を見ると良いよ」
藍はアルベルトの後をついて歩いた。
「アイ、君はまるでひな鳥だね」
「はは、お上りさんみたいでしょ」
「本当に。田舎娘なんだなぁ。その顔で」
「顔は関係ないの!」
笑って店に入る。
目当ての紅茶を紙袋に詰めてもらいながら、アルベルトがカウンターの向こうに声をかける。
「——お詫びの品になるので、包みはそのように」
「はい、分かりました」
買い物をあっという間に済ませ、近くの食事が取れそうな店に入る。と言っても、外のテーブルにした。
「お隣のお花屋さん、後で見てもいいですか? 時間があったら」
「良いよ。宿に飾る?」
「研究室に、かなぁ。帰らないから」
頼んだ食事が机に届くと、アルベルトは「ふーむ」と声を漏らした。
「ヴェクターさんが心配しないかな。大切な妹が二日も帰らなくては」
「……Grail Vectorは大丈夫。狂犬病になるって分かってたのに、言わないでいられるくらいだから」
「彼はそんなに冷たい男かな」
藍は食事の手を止めると、静かに頷いた。
「そうじゃないかもしれないって思ったこともあったけど、やっぱり……あれは……想像を絶する冷たさがある……。——そうじゃないと、今回のことも説明できない……」
「変なことを言うね。そうじゃなくても、今回のことは説明できるよ」
藍はAIなんて知らない世界の人間だからな、とアルベルトを遠く感じた。
「——ヴェクターさんは分からなかった。水狂いの呪い……いや、君たちの言葉で言えば狂犬病だね。ヨーナスが狂犬病になるとは思わなかった」
アルベルトは隣の花屋の花を一本抜き取ると、近くにいた花屋を手招き硬貨を渡した。
「……Grailは分かってたって。ならないように徹底洗浄もしたって言ってた」
「そうだったんだね。……けれど、確率は違うんじゃないのかな。一匹はぐれた狼に噛まれた場合、そうではない狼に噛まれた場合。念のために洗ったことと、確実になって死ぬと分かっていたこと。どうして同じに感じる?」
アルベルトから買ったばかりの花が一輪差し出される。
藍はそれを受け取ると、顔を上げた。
「彼は神じゃない。分からないこともある。君は彼を親のように思えばこそ、なんでも分かるはずと感じる。けれど、アイ。人はその時の状況から推測することしかできない。情報が落ちれば分からないこともある。それは罪じゃないよ」
そうだろう? と藍の髪をすくって耳にかける。
藍は一連のことに思いを巡らせた。
そして——
「だけど、私に可能性を話さなかったのは本当でしょ……?」
「君が傷付くと思ったからだよ。不確実性から守られた」
「傷付いたとしても、できる事を全部するべきだったよ。私じゃできなかったとしても、やってみるべきだった……。それに——」
藍は渡された花を手の中でくるくると回しながら呟く。
「……私が一匹だった狼の話をGrailにしてたら……」
もしかしたら、ヨーナスは死なずに済んだかもしれない。
「Grailにも顔向けできない……」
アルベルトは藍の言葉を咀嚼した。
「君はヴェクターさんが冷たいとかそんなことに失望してるんじゃないわけだ」
藍は意味がわからなくて、アルベルトを眺めた。
「君は、彼とならやればできたはずだと信じているんだ。だから、自分もヴェクターさんも許せない」
衝撃だった。
藍は静かに首を振った。
アルベルトは静かに食事を終えると、立ち上がった。
「さあ、買い物をしよう。見たら良いよ、好きなものを」
手を差し出され、それを取って藍も席を立った。
帽子屋、服屋、布屋、宝飾品店に入り、その度にアルベルトは人間らしい感想をくれた。
「可愛いなぁ」「宝が宝を着けるってこういう感じか」「君は何色でも光るらしい」
どれもこれも驚くほど甘い言葉だったが、それらは人間の体温に感じた。




