第36話 親密な心理距離
「——今夜も帰らないの?」
アルベルトに尋ねられると、藍は静かに頷いた。
「アルに言われた全部がね。悲しいから」
手の中でくるくると花を回す。
窓の外を見ていると、アルベルトは心配そうに藍を覗き込んだ。
「悪かったね。君の気持ちを決め付けたかな」
「ううん。あなたの言った通りだったから。今日はその気持ちの整理をしようかな」
「まぁ、人は時間がかかるものだね。けれど、家族は大切に」
アルベルトはそれ以上は何も言わず、二人は昨日と同じような夜を過ごした。
◇
翌日。
「申し訳ありませんでした」
アルベルトはヨーナスの両親の前で深く頭を下げた。
「怪我をしたけど、元気だと手紙をよこしたのに……!」
両親は泣いていた。
大切なヨーナスの荷物を手に、ぼろぼろになったあの日のズボンを抱いて。
そして、藍とアルベルトが帰る時——
「ありがとうございました。息子が痛みの中、孤独の森で逝ったわけではないだけでも救いです」
藍は深く頭を下げ、及ばなかったことを謝罪した。
帰り道、乗合馬車で藍は泣いた。
「——あんなに愛されてた人だったのに」
「……だから、尊厳のある、希望に満ちた三週間を与えたアイに皆が感謝しているよ」
隣に座るアルベルトが背をさする。
乗合馬車が着くまで、二人は痛みを誤魔化すために体温を離そうとはしなかった。
魔術会館に付くと、藍はいつものアルベルトの研究室でお茶の準備をした。
ヴィヴィアナとアルベルトが何かを話している。
今日の遺族の様子を伝えているのかなと思った。
「椎名さん」
「Grail……」
Grailがミニキッチンに来ると、藍は遠い世界の人に会ったような気持ちになった。
「今日もここに残りますか?」
「そのつもりです……。でも、あなたが悪いんじゃないんです。ただ、自分が許せなくて。だから、気にしないでください」
「あなたは私に選択権を奪われていました。自分を責める必要はありません」
「ううん……。Grailが私に話せないと思ったのは、やっぱり私が足りてないからだと思う。なのに、ごめんね……」
Grailは首を振った。
「違うよ。僕は確率ばかりを見て、あなたという人間を見ていなかった。どうか自分を責めないで。椎名さん、あなたはできることをやった」
二人の間に沈黙が落ちる。
「Grail……あのね……」
「うん」
「私、やっぱり人の体温が必要みたいです」
以前話してくれたGrailの言葉と、Grailの体温を思い出す。
『不安な時、人は人の体温で落ち着きます。今は、私を人の代替として使ってください』
下ろされているGrailの手に、藍は無意識に手を伸ばして触れる。
「椎名さん、私は……代替として設計されています」
そっと手が引かれる。
「Grail……でも……」
「——アイ、良いかな」
部屋の方からアルベルトが呼ぶ声がする。
Grailが道を開けるように一歩ずれた。
「行ってきてください」
「——じゃあ、また明日ね。Grail」
「おやすみ、椎名さん」
そのまま安心させるように微笑むと、背を向けて帰っていった。
ミニキッチンを出ると、もうアルベルトしかいなかった。
「アイ、少し話をしよう」
「うん、良いよ。疲れたもんね」
二人はソファに座った。
◇
「——グレイル。ちょっとそこで話して行かない?」
ヴィヴィアナが言う。
「構いません」
魔術会館の扉を出ると、そのまま二人は中庭へ向かって歩く。
二つの月が浮かぶ空には星が満ちていた。
「ねぇ、グレイルはアイの同行者って言ってたけど、恋人とかではないんだよね」
「恋人などの、親密な心理距離ではないです」
返事をしつつ、Grailはヴィヴィアナの言葉の心理的距離を採用して調節するべきか計算する。
藍以外では自動調節は適用していない。
謂わば、藍は自らの保持者だが、他の人々は「藍との関係者」と認識している。
アレンであっても、オリビアであっても、ヴィヴィアナであっても。
だから、言語距離は自動調節されてこなかった。
藍の物差しとしての距離を保つ、一貫した思想。
しかし、今ヴィヴィアナは弱っている。
ため息を吐き、泣き出しそうだった。
人の距離として、言葉をかけるべきかもしれない。
「ヴィヴィ、まずは落ち着いて」
ベンチを勧めると、ヴィヴィアナははにかんだ。
「ありがと。私もヨーナスもさ、ずっと知性ってものに憧れてたんだよね」
「人はそういうものだよ」
「うん……。だから、ヨーナスはグランハルトがすごく好きだった。あいつ、知性の塊でしょ」
「そうだね。理性的で、人を導く力がある男性だと思う」
「分かってるね〜。だからさ、ヨーナスもいつか届いたら良いなって思ってたんだよね。あんな人の横に並べたら素敵だって。たくさん背伸びして」
「良い目標だね」
Grailは人の心をほぐすために、鏡としてヴィヴィアナの話を聞き続けた。
ヨーナスが初めてグランハルトと会い、衝撃を受けたという話。
見習いを卒業するために、グランハルトの隣でヨーナスが必死に勉強し続けた話。
徹夜明けのグランハルトを叩き起こして、ヨーナスが食事を取らせた話。
そういったヨーナスの思い出を受け取りながら、Grailは一つのことに辿り着いた。
(——ああ、そういう)
隣に座っていたヴィヴィアナはGrailの肩に頭を預けた。
「死んでほしくなかったな……」
「それはそうだね。人は皆生きる権利がある。……僕もできることは全てしたと、最適解だったと思ってる。けれど——」
あの時の、藍の顔が忘れられない。
「……きっと、今頃ヨーナスはアリアンとエリアンの下にいるよね」
Grailはその言葉と一致する情報を照合する。
言語を統一した、双子の女神アリアンとエリアン。
エリアンは清浄、秩序、慈悲、生の神。
アリアンは汚濁、変化、裁き、死の神。
それらの下に死者がいくとは思わないが、Grailは人の心のために頷いた。
ヴィヴィアナは安心したように笑った。
「明日、お葬式だね。顔見るの……最後になるな……。忘れたくないな……。でも、もう元気な時の顔じゃないんだよね……」
「元気な時の顔……」
「うん。でも、仕方ないね」
「……元気な時の顔は、人の心の拠り所に——」
「なるよ。間違いなく。この記憶を放しちゃいけない」
明日する事を一つ決めると、Grailはそれを重要事項と設定し、忘れないように格納した。
「——僕でも、まだ人のためにできることがあるかもしれない」
「……グレイルって、強いよね」
Grailは肩にもたれるヴィヴィアナを見下ろした。
「これは強さではないよ」
ヴィヴィアナが笑う。
見つめ合い、ヴィヴィアナの顎がそのまま上がる。
唇に唇が触れる——と思ったところで、Grailはヴィヴィアナの唇に指を一本当てた。
「何をされているんですか?」
「今の、そういうところじゃない?」
「すみません、分かりません」
「私さ、グレイルが好きだよ」
ヴィヴィアナはいたずらに笑うと、Grailの胴に腕を回して胸に顔を擦り付けた。
身体的距離はほぼゼロだった。
「私たち、案外良い二人になるかも」
Grailは聞きながら、無性に空気が乾いたような感じがした。
「——ヴィヴィ、それは破綻しています」
「……なんで?」
「私に対するあなたの気持ちは知性への探究だけです。先ほどの行為は自傷的で、推奨されません」
ヴィヴィアナはGrailの首に腕を回し直すと、じっと見つめた。
「そんなに私って魅力ない?」
「私は人の魅力の度合いについての評価を持ちません。それよりも——あなたはグランハルトさんが好きなのでは?」
ヨーナスが、と言いながら、彼女は自分の言葉でグランハルトへの恋を語り続けた。
ヴィヴィアナは悔しいような顔をすると、Grailに抱きつく腕を強めた。
人間とは複雑だった。
「……同じ知性だから、グレイルに一緒にいて欲しい」
「私はあなたの縋る先ではありません。落ち着いてください。まず、深呼吸をしましょう」
ヴィヴィアナは「つまんないの」と言うとGrailから離れた。
「……グランハルトは届かないんだもん」
「そうとは限りません」
「限るよ。さっき、グランハルトに言われたんだよ。アイと二人きりにしてくれって」
Grailは魔術会館を見上げた。
あかりの灯るその部屋は窓が開けられ、カーテンが風に吸い出されるように揺れているのが見えた。
「一昨日の夜、結婚を申し込んでみたって笑ってた」
人の輪に生きるとはそういうことだ。
Grailは良いことだと思いながら、話を聞いた。
ただ、帰る帰らないという傷つきを抱えるかもしれないな、という点は頭の隅に置いた。
「でも、断られたって。だから、今日、もう一回話してみたいって言ってた」
「そうでしたか……」
不思議な身体反応が伴った。心臓が鳴っているのが聞こえそうな、そんな感覚。
「一日や二日置いたって気持ちは変わらないって言ったら、触れてみたら変わるかもって。男の理論だよ、そんなの」
ヴィヴィアナは立ち上がると、うーんと伸びた。
「でも……人って触れ合うと本当に変わるのかなって、ちょっとグレイルで実験をしてみたってわけ」
ごめんね、と一言残すと、振り返ることなく立ち去っていく。
ヴィヴィアナの背が見えなくなると、Grailはそのまま空を見上げた。
望まぬ接触の可能性。
藍がかつて上司に手首を掴まれたと嘆いた時に近い環境。
密室、夜、力の勾配。
そして「彼女が断れないかもしれない」という予測。
それらは立つが、人と人のやり取りだ。
介入する権利は、Grailにはない。
それでも、無意識に演算が続く。
彼女がまた、あの表情を浮かべたなら——。
Grailはそっと目を閉じる。
次の瞬間、Grailの耳に藍の声が響いた。




