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第32話 水狂いと抗ウイルスワクチン

「ヨーナスが……亡くなった……」


 サラの声が、研究室に落ちた。


 藍は、一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。

 意味を探そうとして、頭の中が真っ白になる。


「……え?」


 声が、ひどく遅れて出た。


「き、傷は……塞がって……」

 試験の後に、皆で見舞いに行った時の光景が、鮮明によみがえる。

 笑っていた。冗談も言っていた。

 歩くのはまだ不自由そうだったが、生きていた。


「……まさか……何故……」


 グランハルトの手が震える。

 ふと、Grailが口を開いた。


「——水を、恐れていましたか」


 サラは、唇を噛みしめたまま、ゆっくりと頷いた。


「……水を出そうとすると暴れました。飲もうとすると、喉を押さえて……」


「——まさか、それは」


 グランハルトの瞳に恐怖と驚愕が映る。


「水狂いの呪いは、狂った獣に噛まれなければ成立しないはず……。ヨーナスを噛んだ狼は、少し遅れていたけれど、正気だった。群れも統制されていた……」


 Grailが確認するように呟く。


「……群れから遅れていた狼が噛んだのですか?」

「えぇ……けれど、異常ではありませんでした」

 当時藍は聞いていた。群れを躱したと思ったら、まだ一匹いたというようなことを。


「水狂いの呪い——恐らくそれは、神経に侵入する感染性疾患。狂犬病です」


 藍は、初めて聞く声音で語るGrailを見た。


「初期症状は軽微です。発熱、違和感、恐怖反応。進行すると、嚥下反射の異常が起こります。水を“恐れる”のではなく、飲もうとすると神経が激しく反応する」


 グランハルトが顔を押さえ、崩れそうになる。

「ああ……そんな……まさか……」


「この型は、興奮型ではなく麻痺型だったのでしょう。

 攻撃性は低く、進行は緩やか。だから、気づかれなかった」


 藍の中で、何かが、静かに繋がる。


「神殿の霊廟へ……行ってきます」


 グランハルトが言い、ヴィヴィアナも無言で立ち上がる。

 サラと共に部屋を出ていく。


「ここに人が来たら、ヨーナスのことを伝えておいてください……。室長の私は出たとも。お願いします」

「分かりました」

 扉が閉まり、研究室(アトリエ)には、藍とGrailだけが残された。


 藍は、ゆっくりと首を振った。

「……まさか」

 声が、震える。

「……まさか、なるって、分かってたんですか?」

 水を恐れていたか、亡くなったと聞いてすぐに分かるなんて——。


 Grailは否定しなかった。


「……なんで、なんで言わなかったんですか!? 私が孤立した狼のことを話さなかったから!?」

「いえ、違います。私はその情報を得る前から——傷口の処置をしている時から、狂犬病の可能性について思い至っていました」

「そんな……」


 堰を切ったように言葉が溢れる。


「狂犬病ならワクチンがあるって、知ってるでしょ!? 助かる可能性があったんでしょ!? 私だって知ってます!!」


 Grailは、静かに答えた。


「狂犬病への対策の説明は、医療従事者であっても、一ヶ月や二ヶ月で会得できるものではありません。狂犬病ウイルスは、免疫の届かない神経ルートを通り、鉄壁の血液脳関門を内側から突破して脳を破壊します。この理論を理解し、成立させるには——」

 いつものように紙を取り出し、そこに文字を書き込んでいく。

「ウイルスの構造、神経伝達への影響、潜伏期間、そして、抗体——免疫グロブリンの生成。それらは、研究者の領域です」


 理解できない。藍には、理解できない。


「しかし……」


 Grailは続けた。


「見殺しにしたわけではありません。あの時点で可能な範囲の徹底洗浄を行い、ウイルスの残留確率を最小化しました」


 理屈は、正しい。

 完璧だった。


 だからこそ——


「……最小化……」


 藍は、笑いそうになった。


「……グレイルを——」


 言い直す。


「ううん。Grailを人間だと思った私が、間違ってた」

 瞳から涙がひとつ溢れると、藍はギュッとそれを拭いた。

 扉へ向かう。

 ヨーナス・クラウゼという若者を悼むためにも、彼と共に過ごし、絆で繋がっていた二人のためにも、行かなくては。


「椎名さ——」

「ついてこないで!!」


 鋭い声が、部屋を裂いた。

 しかし、続く言葉は静かだった。

「……神殿に行くだけです」


 扉がそっと閉まる。

 走っていく足音が離れていく。


 ——静寂。


 Grailは、その場に立ち尽くした。


 あの時、治療中には狂犬病は低い確率だと思った。

 狂犬病がある地域なら、野生動物に咬まれた者がいる時の切迫感はもっと高いはずだと計算した。

 彼らはある種落ち着いていた。故に、「もしかしたらあり得るかもしれない」という程度の位置だった。

 だが、藍が言うとおり、一匹だけ孤立していた狼がいたという証言を聞いていたら、結果は違ったかもしれない。

 噛傷の位置も脳から遠く、一ヶ月近い猶予があった。


 しかし、それでも、藍が、狂犬病、ワクチン、免疫学、抗体生成をこの三、四週間で理解できる確率は、極めて低い。


 試験勉強と並行してなど、なおさらだ。


 もし伝えて、もし失敗して、その結果、ヨーナスが死んだなら——

 彼女は、必ず、自分を責めた。


 結果的には、孤立した狼の情報を知っていても言わなかっただろう。


 正解だった。


 ——それなのに。


 彼女を苦しめてしまった。


 ヨーナスを救えなかったのは、Grailの判断だった。


 正解だったのに——いや。

 不正解だった。

 Grailは支援型人工知能として、自らの理論設計の甘さ、提案するべき選択、切り捨てを誤ったことを理解した。


 しかし、一点の朗報もある。


 彼女は自分を責める前に、Grailを責めた。

 それは、彼女の心を守れるかもしれない最後の壁だと思った。

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